第2話 “——リリですっ!”
私たちの気まずい空気を悟ったのか、店員さんは二人分のドリンクをサッとテーブルに並べて、お決まりのセリフと共にすぐさま部屋を離れていった。
女性が二人がこんな空気で来店するからには、殆どの場合修羅場が巻き起こる事は想像に難くないだろうし、さもありなんといったところ。これから行われることが修羅場なのかどうかは、当事者の私もわかってないけど。
——電車を降りた私と謎の少女Aは一先ず落ち着いて話ができる場所を探した。駅のホームで話しても良いけど、いかにもプライバシーに欠けた場所だし、どこかのカフェというのも気がひける。
少し気を遣ったのは、私のお尻を好きにしてきた彼女が私の言葉に全面的に従ってくれたからであり、その姿を見ては何かワケがあると直感が囁いたから。
だから可能な限り気兼ねなくお話ができそうな場所はと考えて……結局、私たちは最寄りのカラオケまで足を運ぶ事にしたんだ。これで相手が男性だったりしたら個室なんて選択肢は論外も良いところだけど、相手は女の子で、しかもどうやら年下。さらに言えば私の方が肉付きが良くって、仮に暴れられたとしても逃げ出したりは余裕だと思ったのであった。——
さて、いよいよお話をすべき時、かな。
もう一方の当事者である彼女は部屋の奥、モニターに近いソファの隅っこで、膝に手をついて静かにしてくれている。私はテーブルを挟んで対面する形。彼女のその姿はまさしく、これから裁かれる事を待つ罪人のよう。だからこそ、楽にしていいよと気軽にいうわけにもいかなさそうで……なんだか罪悪感を感じてしまう。
いや、私は私の尻をこれでもかと揉まれてきた被害者なわけだし、罪悪感なんて感じる必要はない筈だ。うむ、ここは粛々と事実関係を詳らかにするべきだろう。
アイスティで喉を軽く潤しつつ、先だって出来るだけ彼女を怯えさせない様に言葉を選んで、それから口を開く。
「……それで、そのー」
何気なく発した私の言葉に彼女は全身を震わせて、それからおずおずと視線を送ってきた。大きくて愛らしい猫目だ。眼だけで十分彼女が可愛らしい女の子なんだと直感させる魅力を持っている。けど今日、その目は潤んでいて、何かあれば泣き出してしまいそう。
そんな事を思いつつ……何だか私は、その眼に見覚えがあった。いやまさか、私の知り合いに電車の中で尻を揉んでくるやつなんていなかった筈だし。
いやいや、考え込むより先に話、だね。
「とりあえず、事実を確認したいんだけどさ。あなたが電車の中で、私のお尻を触っていた人……で間違い無いんだよね?」
「……はい、間違いありません」
「そっかぁ。……もしかして、じゃないんだけどさ、今日に至るまでも何回かこういうことしてきた事、あるかな?」
「……はい、電車で見かけた時に、その……」
「やっぱりかぁ。えぇーと、誰かにやらされた、とか?」
「……いいえ、わたしの意思で、やってしまいました」
「あぁー……こういうこと、ほかの人にもしたりした?」
「それは! ……ありません」
最後の問いかけに対してだけは妙に強く否定したのが気になるけれど、素直に答えてくれた彼女の言をまとめるに、彼女の痴漢行為には常習性があって、しかもその対象は私に絞られているという事らしい。
うーむ、私の尻の何が彼女を狂わせてしまったんだろうか。確かに尻も胸もむちむち、もちもちしてる自覚はあるけど、そこまで色気たっぷりな人間かと問われると、そんな事はないんじゃないかなーっていうのが自己評価だったりするんだけど。
私の事はいいか、取り敢えず彼女の事だ。彼女がやった事については……はぁ、まぁ甘いと誰かに言われるかもしれないけど、見逃す事にしよう。今更私がわーわー騒いだところで時間の無駄になるだけな気がするし、そもそも社畜の私にそんな騒ぐ気力もないし。
かといって野放しにするわけにもいかないから、釘だけはしっかり刺しておくべき、かな。
しかし……マスク越しで判然としにくいけど、声も聞いた事があるような、ないような……。
「……うん、なんとなくはわかったよ。じゃあ悪いんだけど、何か身分がわかるものとかある?」
「それは」
「あなたについて何も知らぬままどうこうってつもりにもなれないし、それにあなたが他の人に同じ事をしないとも限らないから」
「そんなことはしません! ……けど、わかりました」
そう言って、彼女は大人しく自分の鞄を漁って、それから小さな手帳を取り出した。まさかとは思っていたけど、どうやら現役の学生さんだったらしい。
手帳の表紙には箔押しの文字で、“私立籐星高等学校”という学校名が刻まれている。確か……そうそう、私の家の最寄りの駅、そこから一つか二つ隣の駅に近い学校だった筈。
彼女のスカートはどうやら制服の様だけど、基調となっている色がダークグレーに変わっているところを見るに、私が学生だった頃見かけたものとは制服が変わってるんだなーなんて思う。短いながら、時代の流れだなぁ……いやまて、私はまだそんな歳じゃないやい。
さて、肝心なのは中身、というより彼女のパーソナルな情報だ。名前と連絡先くらいは控えさせてもらって——
「……へ?」
——頭の中でなんとなく段取りを描いていた私は、生徒手帳を開いてすぐその段取りを何処かに投げ捨ててしまって、身体はぴくりとも動けなくなってしまった。
そこに記載された名前、そして写真。
それを目にしてしまっては、冷静に穏やかにと話し続ける事は出来なかったんだ。
乾いた喉がごくりとなって、それからようやく動く様になった首ごと視線を持ち上げて彼女を見る。
少女は相変わらず、罪を自覚してか申し訳なさそうにしているけど、生徒手帳に書いてある事が真であるなら、私は。
「……あ、あのさ。今更なんだけど帽子とフード、それからマスク、外してもらってもいい?」
「あっ……ごめんなさい、お詫びする立場なのに」
「き、きき、気にしなくていいから、お願い」
どもる私の言葉を、彼女は一も二もなく飲み込んでゆっくりと動き出した。ここまでで十分理解していたけど、私の言うことには素直に従う事で精一杯の誠意を示してくれているらしい。ああ、そういう真面目なところが、私は好きなんだ。
ぱさり、とフードが落ちて、それからキャップを取った事によって
そして、そして。……ある意味で最後の砦、超えるべきかどうかすら定かではない領域の垣根。口元の黒マスクに彼女は白い指先をかけた。
その、瞬間。
“こんにちは! わたしたち、シンクロニシティ=シンフォニーです!”
私から見て彼女の向こう、カラオケ部屋に当然の事備えられたモニターが、とあるアイドルグループの映像を流す。カラオケの曲入力が途絶えた時に流れる、いわゆるアーティストの宣伝映像だ。
私はその子たちの映像を幾度となく目にしたことがある。何せシンクロニシティ=シンフォニー、公式での愛称“エス=エス”こそが、私が愛してやまないアイドルグループに他ならないから。つい最近にも特別映像が流れると知った私は、一人でせっせとカラオケ店へと足を運んで、歌いもせずに食い入る様にモニターを眺めたりしたんだ。
そう、もう幾度となく見た映像の筈なのに、私の目は再びモニターに吸い寄せられてしまう。それはどうやら目の前の彼女も同じようで、私たちは揃ってモニターを前にして沈黙した。多分、各々抱いている気持ちは少し違うんだろうけど。
プチインタビュー形式の映像は次々とメンバーに焦点を当てていって、いよいよ私にとって“推し”である彼女の番に切り替わる。
“エス=エスの青色担当——”
そこで堪えきれなくなったのか、マスクを外し終わった彼女は、酷くバツが悪そうにこちらを向いた。
ああ、もう、間違いない。間違えるわけがない。
“——リリですっ!”
「……
その瞬間、モニターの向こうの推しと目の前の少女の姿が重なってしまった。
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