33:決壊

 気がつくと、ロアンは湖の底に座り込んでいた。不思議な脱力感と爽快感が、身をまとっている。腕の中には、ぼろぼろのリシュがいた。


「リシュ……」


 ロアンは彼女の額にかかる髪を、そっと掃った。リシュが、その目を開く様子はない。彼はうなだれ、それから顔をあげた。

 辺りはとても静かで、シノの姿は見えなかった。どこへ行ったのだろう。そう思ったが、ぼんやりとしていた記憶が明らかになってゆくにつれ、ロアンは表情を曇らせた。


「俺は、シノを……」


 ロアンは怒りにまかせて、シノを攻撃した。自分でも、何をどうやったのかは分からない。ただ勢いと衝動のまま、力をぶつけたのだ。相手はソウコの主、皇鬼だ。勝とうなどは、思っていなかった。しかし……。


『シノは、逝んだか……』

「クジラ殿?」


 いつの間にか、大鯨が近くまで来ていた。彼は少しだけ微笑み、哀しげな瞳をロアンへ向けた。


「クジラ殿! 俺は……」

『ずいぶんと大きな揺れだったのでな。シノの癇癪かと思うたが、ロアンだったか』

「……本当に?」


 にわかには信じられなかった。ロアンの術は、シノのそれを凌駕したのだ。彼が感情にまかせて放った水属の力は、彼女の身を切り裂き、骨を砕いた。その感触は、ロアンも覚えている。シノも抵抗したが、しかしロアンは、決してその手を弛めなかった。

 ソウコのシノは、そうして消えた。


『その娘が、リシュかい?』

「ええ。そうです。シノに……」

『……なるほどな。かわいそうに』


 この結末を、予想していなかったわけではない。大鯨は、ぶくぶくと泡を吐いた。


「いや……そうじゃないな」


 ロアンが、ぽそりと呟いた。彼の手は、小さく震えている。


『ん?』

「確かに、直接リシュを傷つけたのはシノだけど、元はといえば、悪いのは俺だ」

『ロアン……』

「俺が! 俺のせいで! 『また』リシュを傷つけてしまった」

『それは、』


 様子かおかしい。どういうことかと問い返そうとした大鯨に、ロアンは虚ろな瞳を向けた。


「クジラ殿。リシュは、助かると思いますか?」

『……』


 大鯨は、即座に答えることができなかった。仙とはいえ、上の位の鬼にいたぶられたリシュの傷痕は、見るに堪えないものだったのだ。『助かる』とは、気休めにも言えなかった。しかしこの場で、下手な慰めも逆効果だろう。


『ロアン。残念だが……』

「お願いです。クジラ殿。リシュが助かる方法に、心あたりはないですか? ……なんでもするから! お願いします!」


 ロアンは叫んだ。狂ったように泣き喚き、大鯨の知をもってしてもどうにもならないことを悟ると、リシュの身にすがりついて、また泣いた。

 そして、ぱたりと静かになった。


『ロアン……?』

「……」


 大鯨は、ロアンが気絶してしまったのではないかと危惧したが、そうではなかった。ロアンは虚ろな目で、じぃぃとリシュを見つめている。大嵐が抜けたあとの凪のような、どこか不気味で不自然な静けさに、彼は身体を震わせた。


「クジラ殿」


 ロアンの薄暗い声色に、大鯨の不安が募る。


『どうした? ロアン』

「クジラ殿は、《トラドチィエ》という言葉を、知っていますか?」

『《トラドチィエ》?』


 彼の言う《トラドチィエ》とやらを、大鯨は聞いたことがなかった。


『いや。知らないな。異国の音のようだが』

「以前、ライの仙郷の書庫で読んだ書にあったんです。知とも術とも呼べないような、お伽噺のようなものだけれど……」


 ロアンの瞳が、リシュの胸元を凝視する。


「……誰かの身体の一部を、他の誰かの身体に移して、代わりをさせる」

『そんなことは……』


 大鯨は息をのんだ。力のある仙や鬼が、自力で欠けた身体を再生させることはままあるが、他人の身体を代わりに使うなど、正気の沙汰とは思えなかった。


「読んだときは、ばかばかしいと思ったんです。そんな非現実的なこと、あるわけがない」

『ロアン。聞きなさい』

「でも『あるわけがないと思っていたことが、実際に起こる』のは、実はそれほど珍しくない。そう、でしょう? だったら……」


 絞り出すように口にしたロアンの気配を見て、大鯨は叫んだ。しかし彼の耳には届かない。



 ロアンは自分の胸を突いた。ためらいなど、微塵もなかった。



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