32:暗転
「……シノ?」
薄暗い洞の隅で、シノはたたずんでいた。ロアンが声をかけると、彼女はゆるりと振り返り、艶やかに微笑んだ。どういうわけか、いつもの面布を着けていない。
「ロアン。どうしたんじゃ? こんな所へ……」
それはそれは嬉しそうな、それでいて恐ろしい笑みだった。ロアンの背中を、ぞわりとした感触が走る。そして彼女の足元に、『何か』が転がっているのを認めて息をのんだ。
「っ……」
「ん? ああ。コレか? なかなかしぶとかったが、ようやく静かになったわ」
忌々しげに吐き捨てて、シノは『それ』を踏みつけた。ぐしゃり、と何かが潰れたような、鈍い音が響く。ロアンは、びくりと身を強ばらせた。
「シノ。何を……」
「ん? なぁに。お前の修行を邪魔するモノを、排除しておったのよ」
「……どういう、意味?」
どう見ても、普通でない。その様子に、ロアンは不安を募らせた。
「師として当然のことじゃ。お前の『やる気』を妨げている原因は、『コレ』じゃろう?」
シノは、足元のそれを、つまみ上げてみせた。蒼い炎に照らされて、次第にあらわになってゆく。彼女が掴んでいたのは、どうやら人の腕のようだった。あちこちに折れ曲がり、潰れてしまって原型を留めていない。腕から肩、肩から胴と、その姿がはっきりしてゆくにつれて、ロアンの目は、大きく見開かれていった。
「リ、シュ……?」
ロアンは、はくはくと口を動かし、喘いだ。息が上手くできない。冷や汗が吹き出し、身体が震える。信じられない、信じたくないという想いで目の前の光景を見たが、それが消えるようすはなかった。
「リシュ!」
祈るように駆け寄って、ロアンはその身体を抱きかかえた。リシュはぼろぼろで、ぐちゃぐちゃだった。かろうじて五体はそろっていたが、胸には大きな穴が開いていた。思わず涙が溢れてくる。どうしてこんなことに。これは、シノがやったのだろうか。リシュは仙だ。丈夫だし怪我も治るはずだが、皇鬼が相手では、それもわからない。
「……これは、シノが?」
ロアンの非難と困惑を含んだ声色に、シノは不満げに眉をあげた。
「なんじゃ。これでも足りぬのか」
「っ!」
シノが指に力を込めると、くしゅり、と乾いた音がして、リシュの腕が落ちた。彼女の口からは、呻き声すらあがらない。
「止めっ……なんで! なんでこんなことをするんだ! なんで、リシュを……」
ロアンはシノを睨みつけ、叫んだ。その瞳には非難と、困惑と、憎悪と、恐怖と、怒りと、様々な感情が渦巻いている。
負の感情を露にする弟子を満足げに眺め、シノは口角を上げた。
「言ったではないか。『お前を邪魔するモノを排除する』と」
「だから! なんでリシュが!」
話が見えない。ロアンは苛立ちを募らせる。しかしシノは、まるで駄々をこねる子供をあやすかのように、微笑んだのだ。
「そうであろ? お前が攻撃の術を拒むのは、その小娘を傷つけないため。失わないため……じゃろう?」
「……それの、何が、いけない」
「別に悪くなどない。……ただ、自分を誤魔化すのは良くないと思うてな。じゃから、その憂いを取り除いてやれば、お主も楽になれるだろうと思っただけじゃよ」
「何を……」
「いい加減に素直になれ。小娘を『傷つけさせない』ためならば、防御だろうと攻撃だろうと上位の術を、さっさと覚えてしまえばよい。強力な術を使えれば、それだけ小娘のことも守れるのだから。それが解らぬお前ではないだろう。それなのに、お前は拒む。なぜだ?」
「…………」
ロアンは答えない。答えることが、できなかった。
「おまえはどうやら、『小娘が傷つくこと』というより、『己の存在が小娘を傷つけること』をひどく恐れている。違うか? それは、思うに……」
「うるさい!」
ロアンは怒鳴った。と同時に水の刃が跳び、白魚の手が地面に落ちる。シノは切り落とされた自らの腕をしげしげと眺め、嬌声をあげた。
「は……はははっ。それで良い! ロアン!」
「っ……」
どす黒い衝動が、ロアンの底から湧き上がってくる。リシュを傷つけた、目の前の皇鬼が憎い。消してしまいたい。全てを壊してしまいたい。
「小娘がそうなったのは、儂だけのせいか? 違うだろう?」
「それは……」
シノは嬉々として、ロアンをあおる。
「よぉく考えてみよ! お前のせいじゃ。そして、お前のためじゃ」
「うるさい! ……リシュを!」
ロアンは思った。リシュを『また』傷つけてしまった、自分が憎い。
「愛しいロアン。……お前に、その娘は、必要ない」
シノの言葉に、ロアンの目の前は真っ暗になった。
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