30:矛先

 目を覚ますと、そこは薄暗い洞だった。リシュがそう思ったのは、地面がごつごつとした岩肌で、間近にある壁も同じような手触りだったからだ。しかし人の手は入っているようで、蒼い炎がゆらゆらと浮かび、ほのかに周囲を照らしている。奥のほうに通路は続いているようだが、自身の他に誰もいない。


 どうして、こんな場所にいるのだろう? 確か、チョウジを買いに街に出たはずだ。近道をしようと裏路地に入ったところまでは覚えているが、その後の記憶は曖昧だった。気付かないうちにロウザンの術にかかってしまったのだろうか。それならいずれ、リュウが見つけてくれるだろう。

 しかし、否とリシュの勘は告げていた。理屈も根拠もないが、ここはロウザンではなく別の場所で、理由も目的も分からないが、『何か』に無理やり連れてこられたのだ。

 リシュはゆっくりと立ちあがり、身体が動くことを確かめると、今一度あたりを見回した。天井を見上げると、かなり上のほうに天窓のようなものが見える。


「……登れるかな?」


 呟いて壁に触れたが、早々にリシュは諦めた。先ほどは気づかなかったが、洞のいたるところに水が流れていたのだ。岩肌に薄くにじみ出ているだけの所もあれば、滝のように流れ落ちている所もある。登れないわけではないだろうが、下手に挑戦するより洞の奥へと進んだほうが良さそうだ。そう考えたとき、暗闇から声がした。


「なんじゃ。もう目が覚めたのか?」


 鈴のような声を転がし、姿を見せたのはソウコの皇鬼、シノだった。


「シノ、様?」


 リシュは目を疑った。シノがこの場に現れたから、ではない。彼女の姿が、以前会った時とは全く違って見えたからだ。今も面布で顔を隠していて、その表情は見て取れない。艶やかな髪やしなやかな肢体はあいかわらずだ。しかし彼女の造形そのものが変ったわけではないだろうに、どうしても、リシュは以前のように『美しい』と思えなかった。


「ふん。曲りなりにも仙か。あそこから落ちて、もう動きまわれるとは。丈夫なことだ」


 シノはチラリと天窓を仰ぎ、忌々しげに吐き捨てた。


「落……?」


 リシュの背中を冷たいものが這う。あの高さから落ちた、というのだろうか。怪我は治るとはいえ、よく無事だったものだ。それにシノの視線には、棘があるように思える。リシュは慎重に問いかけた。


「あの、シノ様は、どうして私を?」

「ああ。お前と少し、話がしたくてね。悪いが連れて来させてもらった」

「……」


 その言葉をそのまま信じるならば、ロウザンからリシュを攫ってきたのは『シノの意志』ということになる。状況を見るかぎり、おそらく事実だろう。しかし問題は『何故そのようなことをしたのか?』だ。『話がしたい』と言うが、それならリュウを通して場を設ければいい。リュウやハナには知られたくない事情があったとしても、リシュをこの洞に『落とす』必要はないはずだ。

 何よりシノからひしひしと伝わってくる『悪意』に、リシュは身を強ばらせた。彼女の声色は甘く響くが、その気配はちっとも優しくない。いったい何がどうなっているのか、リシュにはとんと分からなかった。

 警戒を見せるリシュを鼻で嗤い、シノは苛立たしげに口を開く。


「まったく。生意気な小娘だこと。やはり、これではロアンは……」


 リシュはロアンの名前に反応した。ソウコでの修行で何かあったのだろうかと、不安の色を見せたのだ。

 その様子が、シノは気に食わない。憎々しげにリシュを睨みつけ、歪んだ感情を吐露した。


「お前のせいじゃ。お前のせいで、ロアンは『一線』を越えられん」


 どういうことだろう。リシュはさらに頭を悩ませた。シノの言う『一線』が何を指すのか分からないが、『お前のせい』とは聞き捨てならない。


「……どういう、意味ですか?」

「言葉の通りじゃ。ロアンには才がある。もっと上級の、もっと威力のある術を、使いこなすだけの素養がある。儂も、それをロアンに伝えたい」

「……」


 シノの声が静かに、しかし重々しく響いた。


「じゃが、ロアンはそれを拒んだ。攻撃の術は要らぬ、水を操る術だけでよい……とな」

「それは……」


 それは、いかにもロアンがやりそうなことだと、リシュは思った。想像するに、シノが勧めた高威力の術を、ロアンが嫌がったのだろう。しかしそれがどうして『リシュのせい』につながるのだろうか。

「リシュ。お前はロアンの『何』なのだ? ただの双子の片割れであろ? アレはお前のことを慈しみ、畏れている。お前の存在が、ロアンの『もう一歩』を妨げる」

「どういう……」

「お前さえいなければ、ロアンはもっと、強くなれる」


 シノがゆっくりと手をあげた。


「……っ!」


 彼女の周りに勢いよく水が集まってゆく。それは面布を揺らし、ソウコの主の顔を露にした。その歪んだ恍惚に、リシュの全身が総毛立つ。


 シノは静かに、重く、暗く、澱んだ言葉を紡いだ。


「ロアンに、お前は、必要ない」



 そして、リシュの意識は途切れた。


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