29:消えたリシュ
「あれ……?」
リシュは戸棚をのぞき込み、思わず声をあげた。その小さな悲鳴に、ハナが首を傾げる。
「どうしたの?」
「やっちゃった。……チョウジ、切らしてたんだった」
リシュは「しまった…」と視線を落とした。ぐらぐらと揺れる鍋の中には、大きな肉のかたまりと香味野菜が踊っている。
あいかわらずリュウは、ハナに包丁を握らせることを一切良しとせず、普段の食事も世話していたが、リシュやロアンが料理する分には文句をつけなかった。今では「朝と昼はリュウ」「晩はリシュが用意する」という不文律があるほどだ。ハナがリシュの料理を気に入った、ということも大きいだろう。はじめのうちは頬を膨らませていたハナも、『弟子が師匠の食事を用意して、何が悪い?』という三人の主張とリシュの料理の味に、とうとう折れたのだった。
「ハナ。ちょっと買いに行ってくるね」
「わざわざ行かなくてもいいよ? これでも十分美味しそうなのに」
「駄目だよ。味の決め手なんだから。それに、今晩はリュウも来るんでしょ?」
「それはそうだけど。じゃあ、私が行ってくるよ」
「ありがたいけど……ハナが街に行ったら、捕まっちゃって御飯に間に合わなくならない?」
「う……」
「ね? 遠い所じゃないし、ちゃちゃっと行ってくる」
リシュはハナと話しながら、すでに前掛けをはずして、外套をはおり、小銭入れを手にしていた。準備は万端だ。こういう足腰の軽さは、彼女の長所だとハナは感心する。
「わかった。お願いするよ。私もリュウも待っているから、急がなくていいよ」
「うん。……あ、でも! お鍋は触っちゃ駄目だからね!」
「はいはい」
ハナは一抹の淋しさを胸中に、笑顔を返す。そしてふと、ひどく、嫌な感を覚えた。
「リシュ!」
「?」
鋭く呼び止められたリシュは、「どうしたの?」と振り返った。嫌な感は霧散する。気のせいだったのだろうか。ハナは訝しんだが、先ほどの暗い気配は、もう感じられなかった。
「あ、いや。ごめん。なんでもない」
「ふうん?」
「リシュ。……気をつけて」
「……うん。ありがとう」
リシュは小走りに、門を出て行った。
そして夜暗くなっても、家に戻って来なかった。
※
「ああ。やっぱりあの時、止めておけばよかった!」
ハナは嘆いた。『嫌な予感』を感じていたのに、無視するべきではなかった。そう叫ぶハナの肩に、リュウが手を置く。
「落ち着け、ハナ! ハナのせいじゃない」
「でも!」
「まずは、何があったのか調べるのが先だ。帰って来ないということは、『何か』があったことは確かだ。でも考えてみろ。リシュは、そんなタマか?」
リュウの言葉に、ハナは我に返った。確かにそうだ。リシュは見た目こそ十五の少女だが、腕っぷしも気性も、その通りではない。言い様のない不安は消えなかったが、すがる思いで上を向いた。
「……そう、だね。何か、事情があるはずだ」
「リシュは、街へ買い物に出たんだったか。まずは、そこからだな」
「ああ。頼むよ」
リシュはチョウジを切らしたと言っていた。ハナとリュウが香辛料を扱う店を訪ねると、確かに夕暮れ時に、リシュはチョウジを買っていったという。ならばその後に、想定外の『何か』あったのだ。リシュはハナの弟子として、ロウザンでは広く知られている。今日のように買い物に出るのも頻繁なので、街には顔見知りも多い。ロウザンに暮らす連中が、ハナとリュウの庇護下にあるリシュに危害を与えるとは考えにくかった。二人はチラリと視線を交わし、礼を言って店を出た。
周囲の店の者にも話を聞いたが、手がかりらしい手がかりは出てこない。こうなると街中をしらみつぶしに探すしかないだろうか。そうハナが考えたとき、リュウが舌を打った。
「少し、まずいな……」
「どうしたの?」
ハナは、リュウの袖を引いた。ロウザンの主は躊躇いながらも、今知った事実を告げる。
「フクロウにも探らせていたんだが……ロウザンの中に、リシュの気配がない」
「そんな!」
ハナは悲鳴をあげた。気配がないということは、リシュはロウザンから外へ出たということだ。しかしどうやって? いくらリシュでも、ほんの数時間でロウザンの山々を抜けることはできないだろう。彼女は転送陣を使えないし、武具や獣を使って宙を飛ぶこともできない。
二人の元へ、リュウのフクロウが舞い降りてきた。その脚に何やら小さな塊を掴んでいる。その見覚えのある小さな袋に、ハナは恐る恐る指を伸ばした。手にとってみると、やはりリシュの小銭入れだ。かなり年季は入っているが、彼女は綻びを繕いながら大切に使っていた。
「これ、リシュのだよ。……今日も、買い物に、持っていった小銭入れだ」
リュウも小袋を指につまんで持ち上げた。しげしげと眺め、それから忌々しげに吐き捨てる。
「……やってくれる」
「リュウ?」
ハナはリュウの変貌に目をみはった。怒っている。とても。
ここまで怒りを露にするリュウを見るのは、いつぶりだろう。怒気に圧されたフクロウが羽ばたき、しれとハナの肩に移った。
「俺のなわばりで、『ハナの大切』に手を出すとはな。どこぞの阿呆かと思ったが……なるほど? よほど死にたいらしい」
「リュウ……?」
「ハナ。ここを」
リュウは、リシュの小銭入れの一部分を指さした。見ると、ただの汚れとは異なる『黒いシミ』がついている。微かに漂う知った鬼の気配に、それが意味することを悟り、ハナは息をのんだ。
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