23:シノ

 シノという皇鬼は、とても美しい人だった。


 正確には、『綺麗だ』と、リシュは思った。思わず挨拶を忘れて見とれてしまい、ハナから注意されてしまったほどだ。彼女は顔を薄い布で隠しており、その美醜は見た目で判断しようがない。しかしその凛とした立ち振る舞いや、艶やかな髪、匂いたつような身体つき、彼女の醸し出す存在そのものが『美しい』のだ。


 そしてやはり、「とても強そうな人だな」とも思った。リュウやハナにも感じていることだが、どんな分野でも『一流』の実力者は、纏う空気が美しいのだ。リシュはそう思っている。

 ハナに再び促され、リシュはあわてて腰を折った。しかし頭の位置を戻してからも、ぽかんと口を開けては見とれ、息を吐いた。


「リシュ。お前がシノの色香にかかってどうするんだ」


 呆れかえったリュウが、小声で指摘してくる。リシュは小声で言い返した。


「だって、綺麗なんだもの!」

「こら! 二人とも! 失礼でしょ!」


 同じく小声でたしなめたハナの横で、ロアンは小さく唸って縮こまっている。


「ぐぅ……リシュの馬鹿」

「だって!」

「だってもヘチマもないだろ! この脳筋!」

「うぐ……」


 実はリシュは前もって、リュウとハナからシノの前で目立たないようにと釘を刺されていたのだ。しかしその試みは失敗し、すでに取り繕いようもない。自分の失敗がこの後どう影響するか分からない。リシュは内心、冷や汗をかいた。

 しげしげとその様を眺めていたシノだったが、しかし意外にも声をあげて笑った。


「ふうん。お前が件の鬼子の片割れか。女子と聞いて、どうしてくれようかと思っていたが……なかなか面白そうな娘じゃな」

「……」


 意味がわからずリュウへ視線を送ったが、「知らん!」とばかりに目をそらされてしまった。


「娘。名は?」


 身から出た錆ではあるが、訊ねられれば答えるしかない。


「リシュ、と言います」

「そう。儂を見て、見とれる女子は珍しい。大抵は一目見て、目をそらす。逆に男は見とれる者ばかりだが……」


 ころころと笑いながら、シノはリシュとロアンを見比べた。


「それなのに、なんじゃお前たちは。当の鬼子は儂を見て視線をそらし、女子のお前が見呆けるとは。なるほど。ロウザン主が目をかけるわけだ。なかなかの変わり種らしい」

「……」

「……」


 どういう意味なのか量りかね、双子は黙ったまま視線を交わした。ロアンは元より、リシュも「これ以上、余計なことはするものか」という心意気だ。


「ふん。お前たちは『見込みがある』ということじゃ。見た目に惑わされなかっただろう? ロアンと言ったか、そっちの鬼子は儂を『女』と見るより前に『力』を恐れた。儂のような者との力量差を一目で測れる者は、そもそも稀じゃ。リシュも儂を『綺麗』と言いながら、見とれていたのは『女の色香』ではないのでは?」


「確かに……綺麗だけど、怖いと思いました」

 ぼそりとロアンは本音をこぼし、


「その……あの、」

「なんじゃ。言うてみい」


「草原を走る馬とか、急降下してくる鷹とか、木の上に寝そべるヒョウとか……そういう『綺麗』だと、思いマシタ」


 言葉を濁したところを促され、リシュは口を滑らせた。

 さすがにギョッとしたハナとリュウだったが、シノの心証はそれほど悪くないようだ。「なかなか嬉しい例えじゃな!」と、肩を震わせている。

 そうしてひとしきり笑い終えると、彼女は脚を組みなおした。


「よろしい。いいだろう。そちらの鬼子、面倒を見ようじゃないか。……望んでいるのは水属の術だったか。どの程度、使えるようになりたい?」


 シノの了承に表情を輝かせたロアンとリシュは頭をさげ、答えた。いや、答えようとした。

 双子の言葉をさえぎったのはリュウだ。


「できるだけ多くの、そして水を操る術を。水属ならではの術のコツを、教えてやって欲しい」

「ほう。具体的には?」


 シノの声色に棘がにじんだ。意図的にリュウが割り込んだことに気がついたのだろう。しかし何でもないように交渉は続く。


「そうだな。ひとまず『雨を降らせることができる』程度に、水を操作できるようになることが目標、だな」

「それを五年でか? 無茶を言うでない」


 シノは肩をすくめて手を振るった。いわく、術でもって雨を降らせるというのは、なかなか高度な技とのことだ。水を大量に持ち上げて、はじけ飛ばせば良いのでは……とリシュは思ったのだが、そういうことではないらしい。「空気の中の小さな水の粒を集めて雲を作り、水の粒を大きくすることで落下させる」と言われたが、例のごとくリシュの頭では、何のことだかさっぱり分からなかった。要は、一朝一夕では習得できない難しい術、ということだ。

 シノはロアンに近づき、その固まった面をのぞきこんだ。


「確かにこの鬼子には、才もありそうじゃが……ふむ。リュウが言っておったように、水属に振りきっておるの。しかし……それでも五年では厳しいと思うぞ? せめて七年か、十年は寄越せ。それでも足りないかもしれん」


 覚悟はしていたが、その数字の長さに双子は嘆息を隠せない。たまらず、ロアンは口を出してしまった。


「あの! 俺、頑張って修行します。その分、厳しくてもいい。だから、なんとか五年でお願いできませんか?」

「……なんじゃ。修行が長引くのは嫌か? 何ぞ、早く終わらせたい理由でもありそうじゃの」


 シノの声色が、意地悪く響いた。

 ロアンは焦る。まずい。余計なことを言ってしまったかもしれない。ただの興味かもしれないが、相手に弱みを握られるのは交渉上、悪手だ。


「それは……その、」


 しかし言いあぐねるロアンを前に、シノは「まあ、いい」と、顔をそむけた。やけにあっさりと引き下がるものだ。事前にリュウとハナ、シノの三人で、大まかに話しをつけていた気はあるが、いったいどういう条件で、リュウはシノに話をのませたのだろう。今更ながら、不安になってくる。布に隠されてシノの表情が見えないことが、逆に恐ろしかった。


「では、まずは五年の期限を設けよう。ただ儂も、引き受ける以上は矜持と意地があるからな。五年経ったとき鬼子が、雨を降らせることができればよし。できなければ七年に延ばす。七年で無理なら十年。それでどうじゃ?」


 リュウは手のひらであごを撫で、しばし思案する。


「ふむ。それでいい。……ロアン。異論はあるか?」

「いえ。ありません」


 ちらりとリシュと視線を交わし、ロアンは言いきった。これから何年もの間、片割れと離れて暮らさなければならない。いざ直面してみると、それは想像以上に恐ろしく、胸中を冷たいものが広がった。隣に目を向けると、リシュも表情を強ばらせている。たくさん話して、互いに納得したはずだが、同じような思いをしているのかもしれない。ふいにリシュが、ロアンの手を握った。ぴりりとした痛みが、ロアンの手のひらに広がる。そうだ。ここで引き下がってしまっては、本末転倒だ。

 ロアンはリシュの手を一度二度、強く握りかえすと意を決し、その手を離した。次に会うときには、この痛みを感じなくなっているはずだ。

 そう願って、手を離した。



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