1:日常

「ロアン? ロアン! どこにいるの?」


 リシュは台所の裏口から顔を出し、庭を見まわした。しかし、目当ての人物の姿は見えない。


「ったくもう! 今日は、カイさんも一緒なのに」


 ぶちぶちと文句を言いながら、リシュは前掛けをはずした。


「おじいちゃん。カイさんと先に食べてて。私、ロアンを探してくる」

「おや。ロアンはまた、消えたのかい」

「うん。そうみたい。さっき『カイさんから珍しい本をもらった』って庭の方でニヤニヤしてたから。たぶん、裏山のどこかだと思う」

「おやおや……」


 すっかり白くなった髪を撫で、祖父は呆れた表情を見せた。


「カイさんも。おかまいできず、ごめんなさい。料理、冷めちゃうからお先にどうぞ」


 リシュの言葉に、祖父の向こう側に座っていた男が顔を出した。祖父よりひとまわり、ふたまわりは大きいだろうか。筋骨隆々の大男だ。


「いやいや。どうせなら一緒に食いたいし、待ってるよ。すまないな。本を渡すのは、飯の後にすればよかった。……手伝おうか?」

「大丈夫。見当はついてるから。それに、ロアンの『アレ』はいつものことだもの。カイさんの本は、あってもなくても変わらなかったと思うわ」


 宙を仰ぎながら眉を寄せると、リシュは外套を羽織った。


「そうか。まあ、リシュが探した方が早いからなぁ」

「寒くなってきた。気をつけて行きなさい」


 申し訳なさそうに頬をかく大男と、寒さを労う祖父に見送られ、リシュは

「うん。いってきます」と、外へと駆けて行った。


 すばしっこく山へと消えた後ろ姿に、カイは感心した様子で訊ねた。


「リシュは、しっかりしてきたな。ロアンはまだまだ子供っぽいようだが。二人は十三歳だったか?」

「ああ。この秋、十三になった。リシュはリシュで幼いところもあるんじゃが。ロアンがあの調子だからな。しっかりせざるを得んのじゃろう」


 男二人は笑って目を見合わせた。


「まあ、子どもは女のほうが成長が早いと言うしな。見違えたぞ。リシュは女らしくなった。チビの頃は、全く見分けがつかなかったのに」

「……リシュの前では、茶化して口にせん方がええぞ。武術の腕も相当に上がっておるからな。カイでも『廻される』かもしれん」


 旧友の忠告に、カイは肩をすくめた。


「おう。それほどか」

「ああ。まったく、末恐ろしいぞ。先日、うちに来ていた『現役』をひっくり返したからな。体術に限れば、儂でもあやういくらいだ。ただ、あれでは嫁の貰い手に苦労しそうだと思ってな。いっそロアンと性別が逆であれば、と思うことすらあるよ」

「なんだ。ぶつぶつ言うわりには、嬉しそうじゃないか」


 その顔をほころばせる様子を茶化すと、相手は「あたり前だ!」と息巻いた。


「嬉しいに決まっておる。武に男も女もあるか。これは、何と言ったものか、ままならぬ『爺心』のようなものだ。ロアンも武術の才はあるのだから、もう少し鍛錬して欲しいものだが!」


 しみじみと愚痴をこぼす友を、カイは笑う。


「そう言うな。ロアンはロアンで、あの頭の良さは大したもんだ。ああやって本を持つと見境がなくなるのも、集中力の賜物だろうよ。何より『俺が話していて面白いと思う』というのは、なかなかに見所がある。もう少しでかくなったら、上の学舎に通えるように口添えしてやろうか?」

「そうさな。『ロアンが望めば』それも良いと思うが。しかし、もう少し周囲に目を向けんと、自らの身が危うい。……リシュの気苦労もな」

「……それは、確かにそうだな」


 そろってため息をついた二人の視線の先に、白いものがチラつきだした。



「ああ。降ってきた」


 チラチラと雪が舞いだしたのを見て、リシュは忌々しげに息をついた。吐いた息は白く広がり、手足の指先はちりちりとかじかんでいる。空を見上げると、分厚い灰色の雲はずいぶん遠くまで続いていた。


「雪、酷くなりそう。カイさん、今日は泊まっていってもらった方がいいかも」


 そう独り言ちると、リシュは山道を外れ、獣道へと足を踏み入れた。リシュにとっては慣れた山だが、山道を外れれば危険は増える。祖父からは使わないように言われている獣道だったが、今は仕方がない。

 ロアンが雪に気がついて、自ら戻って来てくれれば良いのだが。その望みは薄いだろう。彼が凍える前に、見つけ出さなくては。リシュは地面を蹴る脚に力を込めた。


 リシュとロアンが祖父と暮らすようになって、十年の時が過ぎた。双子の手足は伸び、子どもから大人へと、日々変化している。祖父を訪ねてきた者たちを軒並み悩ませた二人の容姿も、女と男に分かれ、近頃では間違われることはほとんどない。

 山奥での暮らしは慎ましく、多くが自給自足ではあったが、その分双子は逞しく育っていた。


 五つを過ぎた頃だったか。祖父は双子に、文字と武術の基礎を教えるようになった。自立と自衛のためだ。

 リシュは体術に興味を示し、嬉々として鍛錬の場に潜り込むようになった。祖父は苦笑いしながら相手をしていたが、彼女の天賦の才に勘付くと、いつしか厳しく、『基礎以上』のことを教えるようになっていた。

 逆にロアンは武術の鍛錬はそこそこに、祖父の書斎に並ぶ本を読み漁るようになった。彼の知識欲はおさまるところを知らず、今では月に幾度か街の学舎に通い、算術や歴史、政の本にも手を出しているらしい。リシュも文字は読めるし算術もいくらかはできるが、ロアンがいつも広げている本の文字は、正直ミミズがのたくっているようにしか見えなかった。

 そのことは、まあ良い。リシュもロアンも、それぞれに得意なことを学んでいるだけだ。


 しかし問題なのは、本を読むときの、ロアンの『クセ』だった。

 ロアンは本を読みだすと、周囲が全く見えなくなる。しかもどういうわけか様々な場所に隠れるように潜り込んで、本を読むのだ。せめて家の中であれ、とリシュは常々思うのだが、そうとも限らない。居間の棚と棚の間に挟まっていたり、空の風呂釜の中に入っていたり、裏庭の樫の根元、もしくは枝の上に腰かけていたり、と実に多岐にわたる。珍しく庭先で座って本を読んでいると思って差し入れた握り飯を、隣でスズメがついばんでいる光景を目にしたとき、リシュは「放っておいたら死んでしまうのではないか」と半ば本気で心配したものだ。


 結果、リシュは『隠れたロアンを探し出す』という、他所では全く役にたたないであろう特技を持つことになった。

 今もその『特技』を発揮し、リシュはロアンの居場所を裏山の中腹にある樫の木あたりだと目ぼしをつけていた。これまでの経験上、楽しみにしていた本を手にしたときは「ココ」だ。

 うっすらと白く染まった樫の木に辿り着くと、リシュは根本に立って幹を見上げた。

……居た。ひとりの小柄な少年が、一心不乱に本とにらめっこしている。ぼさぼさの黒髪に小枝をひっかけ、枝に隠れるように腰かけるその姿は、まるで大きな猫のようだ。


「ロアン!」


 声をかけたが、気がつく様子は微塵もない。


「まったく……この本の虫め!」


 悪態をついて地面を蹴ると、器用に幹の窪みを足場にして目的の枝まで駆け上がった。そしてロアンの肩をつかみ、乱暴にゆさぶる。


「こら! ロアン!」

「わぁっ!? ……リシュ?」

「『リシュ?』じゃないよ! 凍え死にたいの?」

「え? あ、雪」


 ロアンはようやく、雪が降っていることに気がついたようだ。予想通りのありさまに、リシュは呆れかえってため息をつく。


「まったく! それに、今日はカイさんも一緒にご飯にするって言ったでしょ? せっかく、ちょっと奮発したのに……」

「そうだった! カイさん! ……もう、帰っちゃったか?」


 尊敬する大男が帰ってしまったかと慌てふためく片割れを、リシュは思い切りねめつけた。


「待っててくれるって! それに、この雪だもの。今日は泊まっていってもらった方がいいよ」

「やった! じゃあ、ご飯のあとも話ができ……痛っ! なにすんだよ! リシュ!」


 リシュに頭をはたかれたロアンは、恨みがましく頭をさする。


「ったく! ほら帰るよ。ご飯を食べないと、カイさんと話すも何もないでしょ!」

「確かにそうだ」


 力強く頷くと、ロアンはリシュの後を追い、ひらりと枝から飛び降りたのだった。


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