第3話 1989年1月8日その2

 そうして4月から始まった石塚の書道教室も、今月で10か月くれえだから約一年続いたことになんのか。随分、習ったもんだ。


 石塚は教えんのが上手い。かっつーとそうでもない。でも、普段の口の雑さからは想像できないほど、丁寧で怒んね。へたくそのあたしに根気強く付き合ってくれる。ええヤツだ。


「じゃ、早速書くぞ、『平成』!」


 机の上には石塚が用意してくれた硯と筆、墨汁、半紙。ちなみにだけど、紙と墨のお金はちゃんと払ってんだ。石塚はいらないって言ってくれたけど、さすがにそれはまずいと思って。石塚のお母さんに相談した。


 新聞に載る小渕さんの額を見ながら、石塚は平成と書いた。あたしはその美しい手をじっと眺めた。


「うーん、倉持のお手本になんねーなあ」


「じょーずだよ」


「ちげーんだよなあ。倉持も新聞見ながら書いてくれ」


 あたしには写真そっくりの「平成」を書いたように見えんだけど、なんか違うらしい。言われた通り、あたしは新聞を見ながら筆を運んだ。


「お、いいじゃんいいじゃん。読めるぜ」


 入門当初は解読不可能だったあたしの字も、一応、ほとんどの人が読めるほどには整ってきた。「読める」はあたしにとっては誉め言葉。


「そ、そう?」


「うん、めっちゃ上達したよ。この一年で赤ちゃんから小4くらいになった気がする」


「おお、一年で10歳成長したんか……来年20歳になれっかな」


「こっからが難しーからよ。約束はできねーけど、続けてればなれるよ。俺だってそこそこ上手くなったんだし」


 言いながら、石塚は「平」と書いた。その字に満足はしてねえようだけど、続けて「成」。


「なんで今日のお題は平成なの?やっぱ新しい元号だから?」


「それもあるけど、一番はおれが書きたくなったから。元号書くってかっこいいじゃん。おれもいつか書きてーな」


「書いてんじゃん」


「そういうことじゃなくて、おれも将来、新しい元号を書く人になりたいなーって」


「つまり、小渕さんが掲げてる額の字を書く人ってこと?」


「そう。昨日、おれの将来の夢が決まった」


 考えもしねかったけど、あの字を書いた人ってのがいる。そりゃそうなんだけど、「平成」の額を見て夢を持つ高校生がいんだなって。あたしはちっとめずらしーもんでもみたような気がした。


「へえ。あれってさ、誰かいてんの?」


「母さんに聞いたらさ、字を書く公務員ってのがいるんだってよ。その仕事に就けば、元号を書ける可能性があるんじゃないかって」


「そんな公務員いんだ!?知らねかった!」


「おれもだよ! 書道好きだけど、書道で食ってけないしって思ってた。でもさ、もしかしたら仕事にできるかもしんない。しかも元号なら日本国民全員見るだろ?平成のおかげでわくわくしてきたー!!」


 石塚は筆を手にしながら、両腕を上げて叫んだ。園児みてーに無邪気な笑顔で。


 元号が変わったからといって、あたしの生活は変わんね、新しい時代なんかいつ来んだか。そう思ってたけど、ここに「平成」の影響をもろに受けた人間がいた。石塚は平成になり始めてる。


 その姿を見てたら、あたしも早く平成に、新しい時代の人間になりてーなって。まだ初日だけど、時代に取り残されちっまたようで、自分にいじやけてきた。


 でも、新しい時代の人間って?平成の人間ってどういう人? 


 全然わかんね。


「なあなあ、倉持は?」


「何が?」


「俺は字を書く公務員になって元号書くけどさ、倉持は何やるの?」


【用語解説】

 いじやける=腹が立つ

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