第2話 1988年4月

 あたしは石塚と同じクラスだけど、隣の席でもないし、同じ委員会でも部活でもない。それなのに、クラスの中で真っ先に懐かれた。


 その理由が書道。あたしたちはともに芸術の選択授業が「書道」なんだけど、授業初日、あたしの字を見た石塚が言った。


「お前の右手、おれに預けろよ」


「は?」


 あたしは嫌そーな顔で石塚を睨んだのを覚えてる。この時はまだ一度も話したことがなくって、初めての会話がこれだった。


 そしてその日の放課後に連行されたのが、ここ「石塚書道教室」。その頃はまだ開室したてで生徒さんは1人、2人だったかな。


「石塚君、なんであたしを家に」


「言っただろ、右手預けろって。お前の右手、おれに預けろ」


「まったく意味がわかんねんだけど」


「倉持の字が下手すぎるから、おれが教えんの!」


 石塚の言うとおり。あたしの字は小学校1年生より幼稚園児より下手と言っていい。あたしにしか読めないような字だから、同級生からは皮肉たっぷりに「達筆」と言われてる。


 なんでそんな字で書道を選んでのと思われるだろーけど、絵はへのへのもへじしか書けないし、音楽は音痴を通り越して何も理解できねんだもん。


 消去法で書道しかねえべよ。


「い、いいよ別に上手くなんなくても。書道教室に通うお金もねえし」


「俺が教えるからタダだよ」


「石塚君がせんせー?」


「何回も言わせんなよ、俺に右手預けろって言ってんだろ。ただの高校生が教えるんだから、無料だよ」


 タダより高いものはないっておじちゃんが言ってた気がすっけど、あたしは「無料」に惹かれて、その日のお稽古を受けることにした。せっかくの好意だし、たまには字の練習したっていいかなって軽い気持ちだった。


 書道の授業中、あたしは自分のことに必死で他人の書などまったく、一切、ちらとも見てない。隣の席の子の字を見て「うめえな」くらい。つまり、石塚の書がどんなもんか知らねかった。


「今日の授業で書いたやつ、あれ書いてみっから。今日はそれ練習な」


 そう言って石塚は筆をとり、半紙に向かった。


 目の前にいるのはどう見ても、いつもの田舎のガキんちょ。なのに、筆先から現れる黒の線は大人びてた。


 石塚は半紙に「清風」と書いた。


 美しい書。


 そう、見た目は絶妙にダサい石塚は、字はカッコいい。洗練されてる。なんだかオシャレ。


 あたしはコイツの「書」に一目ぼれした。


 


 書に惚れちったあたしは、石塚に書道、というより「字の書き方」を習い始めた。学校や部活もあっから不定期だし、加えて石塚の気分次第で開講される、あたしだけの書道教室だ。


 筆だけじゃなく、そもそも鉛筆の持ち方もおかしいってことで、第一日目は「清風」ではなく鉛筆と筆の持ち方で終わった。


 稽古の始めのうちは手取り足取り、文字通り「右手を預け」てた。石塚に特別な感情ってのはねえけど、ヤツの手があたしの右手を矯正してくれると、その手の美しさに見惚れっちまうことがあった。


 どこがどう美しいかって言われっと、むつかしい。白く長い指、なんつー洒落たもんじゃねし。伸びた分をとりあえず切っただけの爪、うっすら指毛の生えたごつっとした指。キレイのかけらもない手なのにそう感じる。


 書道教室の主、石塚のお母さんからも教えを受けたことがある。失礼だけど、美しい手とは感じなかった。


 書もそう。先生なだけあって素晴らしい文字をお書きになる。石塚より上手いんだと思う。だって石塚や他の生徒さんがそう言ってるし。


 でも、あたしには石塚の書の方が美しく、素晴らしく感じた。


【用語解説】

 おじちゃん=祖父

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