迷いの帰り道

朝倉亜空

第1話

 久々に連休がやってきて、日々の労働過多による疲れをいやすのに、ひたすら家でゴロゴロ寝転がるだけの休息方法も悪くはないが、ここは気分一新、のんびりゆったり体を動かし、ちょっと遠出の気まぐれ散歩旅と行こうじゃないかと決めた。きっとそのほうが心も身体もリフレッシュできるに違いないはずだ。

 机の上に広げた日本地図を前にして、両目をつぶった私はエイヤッ、と右手人差し指を無造作に日本地図の上に突き落とした。ふーむ。H県S市か。悪くない。朝一番に出発することに決め、早々に就寝した。

 電車を乗り継ぎ到着したS市は、さすがに駅前の開発地域こそ商業ビル群が立ち並び、都会的な雰囲気を醸し出してはいたが、それでも到底、大都会の喧騒さとは比較できないほど落ち着いたものだった。

 そこから私は思い付きで市バスに乗り、三、四十分ほど揺られたあたりの場所で思い付きで降りた。そこは誰もいない一本道。

 あー、気持ちいい! 

 どこまでも澄みきった青空に、綿菓子のような弾力性を感じさせる真っ白い雲。心地よい秋風を顔一面に受けながら、他人とすれ違うことのない田園風景の中を一人で歩く贅沢すぎる解放感を大いに満喫した。私はわけもなく、おおーい、と叫びたくなった。ので、すうーっと深く息を吸い込み叫んだ。

「おおおーい!」

 どうやらこれをきっかけに私の心が童心に帰ってしまったようだ。

 私は道をそれ、子供のような笑顔になって、草が覆い茂る原っぱの中に走って入った。そして、もう一度大声で、「おおおおーい!」

 さらにワハハハと大笑いしながら、ひたすら茂みの中を走り回った。右に曲がり、左へ向かい、その時の私は息苦しい都会人の自覚を投げ捨て、完全に広々とした大自然そのものになっていた。

 と、その時、何やらカサコソと動くものが私の目に入った。雑草の間をすり抜けて、私はゆっくりとそれに近づいて行った。

「あらら、こりゃ、なんてこった」

 それは、手製の罠に捕まった仔犬だった。後足の一つに輪っか状に作られた細い針金が食い込んでいて、仔犬が逃げようともがけばもがくほど余計にそれがきつく食い込んでいた。そこからにじみ出てくる血がなんとも痛ましい。

「かわいそうに。……誰のいたずらだよ。こんな、のどかな場所にも悪ふざけするような奴っているんだな……」

 私はその罠を外して、仔犬を逃がしてやった。「さあ、もう大丈夫だぞ」

 クゥーと鳴いて、そいつは嬉しそうに草原の奥へと走り去った。私の心も嬉しくなった。

 原っぱを抜けて、一人気まぐれ散歩を再び楽しむ。しばらく行ったところにポツンとあった小さな蕎麦屋で昼食休憩を取ることとした。

 土地の名産品をふんだんに使用しているのだという、名物の五目そばと地ビールを注文する。私にポンポンと舌鼓を打たせるそれらの美味を、私は大いに堪能した。あー、やっぱり来てよかったー。

 腹を満たして一息ついた後、私は店のおかみさんに、この近くに鉄道は走っているか、また、そうであれば駅まで歩いていける程度の距離かを聞いた。

 駅ならあるとのこと。ただ、距離は、土地の者には何でもないが、都会の人には少ししんどく感じるかもしれないが、いけない距離ではない、とのこと。前の道を、途中の枝分かれを気にせずにそのまま真っすぐ、目印として、コンビニを過ごし、郵便ポストを過ごし、雑木林を突き抜け、しばらく進めば駅にたどり着くと教えてくれた。

 その時、店の扉がガラガラっと開き、出前帰りの大将が入ってきた。機嫌がよくない様子で、店の奥で何やらおかみさんに愚痴っているようだった。その後、大将が私のもとへお茶のお代わりを持ってきてくれた時に、私は、何かあったのかと軽く話を向けた。大将は少し恥ずかしそうにすみませんねえと一言いい、話してくれた。

 ここら辺はキツネによる獣害が多く、畑や畜産物が被害を受けて困っている。そこで、害獣駆除のために罠を張っているのだが、それが何者かによって外されていた。それでつい、機嫌の悪い顔をお客さんに見せてしまい、申し訳ないと、しきりに恐縮していた。

 あれか! 仔犬じゃなく、キツネだったんだ!

 ああ、そういうことですか、大変ですねと言いながらの私の作り笑いはさぞや固かったことだろう。

 食べて元気も出たところで、大将とおかみさんにお礼を言い(大将には心の中でお詫びも言い)、お代を払って店を出た。

 おかみさんに言われた通り、ただ、ひたすらまっ直ぐに歩いて行った。ひたすら歩いて行った。何もない道をただまっすぐに歩き続けて、本当に合っているのかちょっと不安になったころ、遠くに小さくコンビニエンスストアの看板が見えた。ほっとした。

 コンビニの前を通過するとき、どれほどの時間を歩いたのかが気になり、私は腕時計を見た。2:34。蕎麦屋を出たのが二時前だったので、ここまでで四十分ほど歩いたことになる。こりゃ、駅に到着するまで二時間前後というところか。 

 なるほど結構かかりそうだな。まあ、散策を楽しみに来たのに、歩く時間が長引きそうだと不満げに思うのも勝手だぞと自分を戒めて、私は歩き続けた。

 やがて、郵便ポストを通過した。やはり、二、三十分は掛かっただろうか。そのまま歩き続け、程なく雑木林にたどり着いた。おかみさんの言った通りだ。よし、まっすぐ突き進もう。

 一面木陰の中はかなりひんやりとして、そして、かなり薄暗かった。

 道らしい道のない中、私は真っすぐを意識しながら歩き続けた。涼しい分、歩きやすかったが、足元が不安定な分、歩きにくかった。私は直進を心がけ、歩いたつもりだった。

 四、五十分ほどの時間を費やし、私は雑木林を突き抜けた。かなり疲れを覚えてきたものの、さあ、あとはこの道を真っすぐ、駅に向かうだけだ。私は歩いた。

 しばらく歩き続けて、私は大変驚いた。なんと、見えてきたのは駅ではなく、コンビニだった。先ほどと同じく、コンビニが道沿いに見えてきたのだ! なぜ、どういうことか? 

 人は、砂漠や山中など、はっきりと方向が分からないような場所を歩くとき、自分では真っすぐに歩いているつもりでも、緩やかな右旋回になる、というのを聞いたことがある。先ほどの雑木林の中で、私はゆっくりと右に曲がって歩き、初めのコンビニにつながる道に出てしまったか⁉ 雑木林が大きなUの字の形で形成されていたなら、その可能性は考えられる。

 私は再びコンビニの前で腕時計の時間を見た。4:32。二時間のタイムロスじゃないか。

 嘆いても仕方がない。歩くしかない。

 三十分ほどたって、郵便ポストが見えた。さらにしばらく歩き、雑木林に突き当たる。入る。慎重に、まっすぐ、歩いた。約、小一時間。雑木林を突破。

 私は、かなり注意深く歩いたので、雑木林を直進したという自信はあった。そのまま道なりに進んだのだが、なぜだ⁉ コンビニが見えてくる! 訳が分からない。まるで、キツネにつままれたようだ……。

 あッ、キツネ!

 まさか、これもキツネによる獣害の一種? 化かし獣害ってか?

 三度目のコンビニ通貨時点での時刻は6:44。私は無事、家に帰れるのか、身体的疲労も相まって、不安になってきた。恐怖心に近いような不安。

 三度目の郵便ポストを過ぎゆき、三度目の雑木林に挑む。嫌な汗を一度ぬぐった。

 さらに慎重に歩いて、約一時間後、雑木林を向ける。心の中で、頼むからコンビニは出てくるなよと言った。もし、出てきたら、本当に大声を出したことだろう。だが、しばし歩いたのちに、今回見えたのは駅の入り口だった。助かったぁー。

 駅構内の待合室にある長椅子の上に腰を下ろし、私は時間を確認した。8:45。嫌というほど歩いたわけだ。汗を拭いている私に、駅員が、この道は大変だったでしょうと、話しかけてくれた。コンビニ、ポスト、雑木林が繰り返されて、ちょっと戸惑われたんじゃないですか。

 駅員はそう言いながら、待合室の壁に貼ってある周辺地図を指さした。

 なんだ、別に雑木林で迷い道したわけじゃなく、ちゃんと真っすぐ歩いていたんだ。

 私は安堵しながら立ち上がり、その周辺地図に近寄り、見た。

 うん、確かにその地図には、蕎麦屋から続く道に、コンビニ、郵便ポスト、雑木林、しばらく先にまた、コンビニ、郵便ポスト、雑木林があり、更にその先には駅……。え!

 い、いや、私は確かに三度繰り返したんだが……。

 その時、構内に臨時放送が入った。当駅七時三十一分発上り列車が踏切上で大型車両との衝突脱線事故を起こした模様。規模の大きさより復旧作業には相当な時間を要することとなる見込み……。

 ええっ! もし、三度目の雑木林を抜けるという行程がなければ、私はそれに乗っていたはずだ! 背筋がぞわっとした。

 不意に、何者かの視線を感じ、私は駅の出入り口の方を振り返った。一匹のキツネがこちらを向いて、立っていた。コン、と一声鳴いて、立ち去ったそいつは、昼間、私が助けたキツネだった。

 


 

 


 

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

迷いの帰り道 朝倉亜空 @detteiu_com

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ