ステンドグラスの深海で

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ステンドグラスの深海で

 チャイムの音に顔を上げ、ふと目に入った窓の外が赤く染まりつつあることに気付き手を止めた。

 朝焼けや夕暮れは太陽と自分との間にある大気が厚いため、遠くまで届く赤い光のみが目に見えるらしい。その光に俺は手に持っていた青いガラスを翳す。絵の具みたいに単純に赤と青で紫色になることはなく、光の届かない海のように深い色になって俺の網膜に色を残した。

 ステンドグラスに使うガラスで歪な形にはなっていたが、切り取られた他の部分は今頃太陽なり電灯なりに照らされて同じように深い青の影を作っていることだろう。この残った小さいガラスも、その内誰かが使うに違いない。俺が使う可能性も大いにある。

「今日は片付け終わったらさっさと帰れよー」

 学生たちに言いながら、青いガラスを寒色ばかりを集めたガラスの置き場にそっと置く。夏の日差しを受けた風鈴のような涼やかな音が、微かに鳴った。

「日蝕のときみたいな?」

 同じく涼やかな声の学生がそう言いながら、俺を真似して直前まで使用していた緑色のガラスを目線に掲げている。髪の短いこの学生の名前は、確か枝星美登里というのだったか。名前にちなんでか、今回製作していた電灯も緑色を基調にしていたし、植物モチーフのピアスをいつも身に付けている。

「眩しいな」

 その言葉には、彼女についての眩しさについても包含していたのだが気付くことはなかった。

 俺は海月かいげつ音楽芸術大学の油彩科壁画研究室の講師をしていて、今日は一年生向けにステンドグラスの授業をしていた。他科を横断的に受けられるためこの授業には油彩科以外の学生も多く、先ほどの枝星も声楽科のはずだった。

 最終の六時間目の授業は午後六時に終わるため、受講する学生はそう多くない筈なのだが、ありがたいことにうちの講義の枠はほぼ定員人数で埋まっている。

 この後に授業は無いから、駄弁っていく学生が多い。ノリで飲み会に誘われることもあり、調子のいい奴らだなとつくづく思う。俺をなんだと思っているのかと思わなくもないのだが、学生たちには年が近く見えるだろうからこの距離感も悪くはないと当人たちには言わないが思っている。

 俺は日が落ちてから帰るため、教室で駄弁る分には特に問題ないのだが、今日に限っては頼まれた仕事があるから帰ってもらわなくては困るのだ。

「今日はすぐ鍵閉めるぞー」

「友達とカラオケに行くから、すぐ帰りまーす!」

 枝星が言いながら四、五人の学生を引き連れて教室を出ていった。

「せんせーい、また明日ー!」

「また来週、な」

「そうだった」

 こんなに日が照ってるのに毎日来てられるかと心の中で毒づきながら、ヒラヒラと手を振る学生に半ば追い払うように振り返した。



「これで最後です」

「鍵野くん、手伝ってくれてありがとうね」

 夏雲は赤に染まり、足許から伸びる影は長い。押していた台車を少し持ち上げて入り口の段差を越えると、クーラーの涼しい風が迎えてくれた。声を掛けたその人は背後で扉を閉めて、俺の台車を一緒に押してくれる。

「音楽祭の準備は大変ですよね。水倉さんにはいつも世話になってますし、この講堂のことなら尚更」

 九月上旬に行われる音楽祭の準備が行われていた。今日は音響機器の搬入があり、授業が終わったあと手伝いを頼まれていたのだった。

 水倉さんは学生課の気のいいおじさんで、俺がこの大学で講師をすることになったきっかけになった人でもある。

 講堂の関係者通路から舞台上へと出る通路を進み、舞台脇に台車を止めて機器を所定の場所に置いていく。手伝いに来ていた他の学生もいるが、俺はよく手伝いに駆り出されがちなので教員の俺がいることに疑問を持つ学生はいない。

 手伝いを終えたところで一度舞台上に出ると、俺自身が深い色に染まった。見上げれば青いステンドグラスが舞台正面にあり、夕焼けを通した青いガラスは先ほどの俺が翳したガラスと同じ色で舞台上を彩っていた。これは五年前に俺が手掛けたステンドグラスだった。

 半分地下になっている南向きの講堂にある、深海を模したステンドグラスだ。この大学が海に近い場所にあるため、海をモチーフにと頼まれたのだった。当時はただステンドグラス職人として細々とやっていたのだが、そのときの縁で今こうしてここで教員をしているのである。

 俺はそのまま舞台を降りて客席の左側、日の当たらない席に座る。

「大丈夫? 熱中症になってない?」

 問題は俺があまりにぐったりしているため、心配を掛けてしまっていることだった。今日搬入するものは大体入れ終えたところで俺の体力は尽きてしまった。

 西日の届かないところで俺は前の席に頭を預けて項垂れる。

 水倉さんに渡されたお茶のペットボトルをありがたく受け取り、蓋を開け口を潤わす程度に含むと口の中がヒヤリと冷える。蓋を閉めて頬と肩で挟んで頭を預けるようにペットボトルを枕にすると、じわりじわりと頭が冷えて幾分か気分がましになっていった。

「本当に暑さに弱いんだね」

「最近の夏は特にダメです」

「冷房に頼ってばかりいるからそんなことになるんだ」

「この暑さじゃ無理ですって……体質のせいも大いにありますし」

「……君はそうなのだろうね」

 言いながら水倉さんは持っていたもう一本のペットボトルも俺の冷えていない方の頬に押し当てる。ヒヤリとした感触に「んー」と返事とも唸りとも取れる声を上げながら、そのペットボトルを受け取った。

 本当は水倉さん自身が飲む分だっただろうに、優しいなと思いながらありがたくもらうことにする。帰ったら家の冷蔵庫に入れておこう。

 手伝っていたのは学生ばかりで、俺の他に教員はいない。若いから呈よく使われている、という訳でもなんとなくないような気はしていた。

「水倉さんは俺をなんだと思ってるんですか?」

「労働力」

「間違いではないんですが」

「君、頼られるのが好きそうだから」

「……否定はしないでおきます」

 この人も本当に調子がいいよなぁと思いながら、俺は苦笑いを溢した。



 しかしながら身体を冷やしたところでダメージは蓄積していて完全に治るわけではない。食べて寝ればすぐ治るだろうが、それが容易に出来ないことが問題だ。

 薄ぼんやりとした意識の中で、体が覚えている道を進み家へと帰る。

 家の側にある広い橋を渡ると、丁度太陽が海に沈むところだった。マンションや隣家の明かりが水面に映っている。

 この街は海に近いから、海に近づくに連れて川に海水が混ざるのだという。

 立ち止まり、夕焼けのステンドグラスもいいかもな、と眺めていたのが悪かった。夕陽が網膜を焼いて、目が眩んだ。目から入った光は、脳に届き頭の中までもぐちゃぐちゃに拡散させた。平衡感覚を失い、ぐらりと体が傾ぐ。

「あ、やば」

 そう呟いたときにはもう重力には逆らえない状況になっていて、頭から水の中へと落ちていった。空中を浮遊した後、重力のままに水が俺を包み込む。そのまま俺は流されていく。

 目の中には俺を焼いた日の光が残像として残っていて、目を開けても何も見えない。まぁ死ぬことは無いだろうしいいか、と適当なことを思いながら身体の力を抜いた。口には水が入ってきたし、気持ち悪いし意識は朦朧としていたが、構わない。死の予感を明確に感じるが抗う程の体力もない。河童の川流れの如く、流れに身を任せるのも良いだろう。その内回復したら下流の方で上がればいいのだ。回復に多少時間はかかるだろうが、明日の授業に間に合うならそれで。

 そんな適当なことを考えていたら腰を誰かが抱くように掴む。水よりは暖かいが人よりは冷たい感触で、誰かが俺が落ちるところを見ていて助けてくれたんだなと思い、ありがたさと申し訳なさでいっぱいになる。

 俺はいつだって、人に助けられてばかりだ。

 川岸に上がり、横たえられた。意識だけはあるがまだ体と遠いところにある。目が開けられなくて、音もどこか遠くて、誰かが必死に俺の体を叩いて起こそうとしている。

 心配させているから起きないと、と思うも指先さえ動かない。僅かに水を吐くもまだ動けなくて、尚もその人は人工呼吸を試みる。

 僅かでも肺に空気が送られて、脳がまともな思考を始め、死にかけの体がまず考えることといえば生存本能についてで、俺はそれに従い手を添え――唇に歯を突き立てた。

「痛!? ……え?」

 驚いて弾けるようにその人は俺を突き飛ばす。やっぱり女だった。匂いでそうかとは思っていたが、予想よりも若そうな女だ。

 柔らかい肉の感触と血の味が口内に広がり、体が栄養を喜んでいるのを感じる。

 焦点を合わせると、目の前の程近いところに口許を押さえ放心している少女がいた。

 罠に掛けたようになってしまい悪いことをしたなと思うと同時に回復のためには仕方ないしと、俺は少女の身体に覆い被さるように少女を濡れた地面に寝転ばせた。少女は体を縮こませていて怖がらせてしまっていることは分かったがが構わない。記憶なんて消してしまえばいいのだし。

「ごめんな」

 そうして俺は食事を再開した。

 血は甘く、舌に絡み付くように甘美な味をしていた。こんなに美味しい血を飲んだのは初めてで、飲み尽くしてはいけないと分かっていつつも、もう少しもう少しだけと思わず飲んでしまう。

 お茶程度では乾いたままだった喉が徐々に潤っていく。

「ね、え……なに…………やめ、て」

 吐息混じりに耳許で直接吐かれた声に、俺は我に返り体を起こす。

「……ごめん」

 呼吸は浅く、頬の紅潮した少女が腕の中で涙目になっていた。髪は長く、ウェーブがかったそれが泥濘で汚れてしまっている。

 やっとまともな思考を取り戻し罪悪感に苛まれつつ、目の前の少女をちゃんと観察する。年はおそらく高校生か大学生かというところ。

 服はどこかにあそびにいった帰りなのかラフな格好をしていて、スカートからは足――足ではなく、魚のヒレが伸びていた。

「…………人魚?」

 口を引き結んだまま少女は答えない。

「離し、て」

 言われるがまま体を起こし、ついでに少女の腕も引いて座らせた。

 少女の目に涙が浮かぶ。腕を使い、腰をくねらせなんとか川の方へと行こうとする。地上では、人魚のヒレは移動に不便だ。

 俺は少女の腕を持ったまま引き留めた。

「やめてやめてやめて」

「待って」

「無理!」

「大丈夫だから。似たようなものだから」

「似たようなって、何が」

「俺は吸血鬼だ」

「でしょうね……やっぱりダメでは!?」

「食わないし」

「食べたあとでは!?」

「一理ある」

 少女はこちらを睨み付けていたが、俺がこれ以上は何もしないと察したのか観念したように大きく息を吐いた。

「悪いようにはしないから。説得力なんて無いかもしれないけど」

「あなたが生きてて良かったって思ったのに……なんでこんなことに」

「怖がらせたなら、記憶だけでも消させて」

「それで自分がしたことが無くなるとでも?」

「そうは思わないけど、怖い記憶が無くなるのは良いことじゃない?」

「……じゃあ、お願いします。それが終わったら、知らない人ってことね?」

 少女の耳元で、母国語で記憶が消えるよう唱えた。しかし少女には何も掛からず首を傾げた。更に二度試してみたが、やはり大きく首を傾げている。

「……効かないですが」

「……人魚って効かないんだな」

薄々効くのかなとは思っていたが、やはり効かないようだった。

「ごめん、助けてくれて本当にありがとう」

「それで全て終わるとでも……? 私、先生のこと知ってるよ?」

「お前……まさかうちの学生か」

 顔に見覚えはないが、人数の多い大学なので仕方ないだろう。学舎が違えば、顔を会わせることも無いだろうし。

「人魚までいるとは」

 世界は意外と狭いということか。

「本当に助かったから、礼はさせてくれ」

「いいよそんなの」

「せめて家まで送る」

「今死にかけだった人に送られても。家すぐそこだし」

「この近くなら俺の家とも近いか?」

「そうかもね。ほら、そこ」

 指差されたのは川の下の段ボールハウスだった。とてもじゃないがあんなところに女子大生が住んでいるなんて考えたくなかった。

「お前本当にあそこに住んでるの?」

「うん」

「……いいから、俺の家に一回来てくれ」

「えっなんか、ダメ?」

「ダメに決まってるだろう! いいから一旦来い」

「分かった。じゃあヒレを足にするから三十分くらい待ってくれる?」

 ヒレを十分に乾かすと、スカートから伸びるのは脚線美の綺麗な足になった。段ボールハウスから少女は数センチの高さのパンプスを履いて戻ってくる。

 うちは橋から三分も掛からなかったので、少女を連れてマンションの二階の角部屋に帰って来た。

 人魚はテーブルの前に足を伸ばして座っている。

「人魚は飲み物は、水でいいのか?」

「なんでも飲めるよ。人魚特有の好き嫌いはあるけど基本的には雑食だから、人間と一緒」

「じゃあお茶でいいか」

 冷蔵庫からペットボトルを出し、少女に渡す。それは過去に水倉さんに貰ったお茶だった。今日貰った分も冷蔵庫にしまっておく。

「俺は鍵野かぎのかげりだ。」

「花笠蒼依です! 声楽科に今年入ったうら若き一年生」

 うら若きと言っている辺り、怪しいなと思う。そういえば、吸血鬼と同様に人魚も長命なんだったか。こんな見た目で案外俺よりも年上だったりする可能性もあるわけだ。

「お前、何歳?」

「十七歳」

「見た目じゃなくて」

「十七歳だよ?」

「……本当に?」

 確かに長命な人魚でも年若い時はもちろんあるものだからまさかそんな。なんせそもそも。

「……大学生だったよな?」

「通いたすぎて鯖を読んでしまいました! いいよね、魚だし」

「どうなんだろうなぁ……」

 入ってしまったのでもう仕方ないのだろう。バレることもまずないだろうし。

「先生は?」

「俺は見た目は二十六歳で止めてるけど、今の設定上は三十一歳だよ」

「実際は」

「五百飛んでそのくらい」

「うっわ」

「うっわとか言うな」

 ちょっと切なくなるから。

「家は?」

「借りるお金無くて」

「まぁ仕方ないか……」

「講堂の先生のステンドグラス好きだよ。元々住んでた海にちょっと似てる」

 それなら、と俺は本棚から一冊出して少女に見せる。海の底の生物の載った写真集だった。海外の写真が多く、ステンドグラスを作るときにはこの写真集を参考にしたのだった。

「この辺通ったことあるよー!」

「お前なんで人間の世界に来たの?」

「迷子で」

「……は?」

「家の大体の場所は分かってるんだけど、帰り方までは分かんなくてね。人間の世界に興味あるし、世界的に有名になったら迎えに来てくれるんじゃないかと思って大学に通ってみた」

 前向きなんだかなんなんだか。

「こんな目に遭って地上に来なけりゃ良かったって思わなかった?」

「まだ思ってないよ」

「それなら良かった。流石に段ボールハウスに住んでる学生のことは放っておけないので、しばらくうちに住んでくれませんか。寮かマンションに入れるように都合付けるから頼むからそうして。代わりにちょっと血を下さい」

「ちょっとってどのくらい?」

「月に一回くらいでいいよ。無理はさせたくないし」

「家に住めるのは嬉しいけど、そこまでしてくれなくても。とはいえ悪くない条件ではある……血か……」

「痛くはなかっただろ?」

「痛くはなかったけど」

 最初は突発的に噛んでしまったため痛がらせてしまったが、蚊と同じように血を飲むときに麻酔のような体液を入れるので痛みは感じないのだ。その体液によって、前後の記憶や行動を操作することも可能だった。

「では、お願いします」

「俺はあまり元気ではないので、明日の夜にでも荷物をうちに運びいれるか」

 そうして人魚の少女が一時的な居候に来ることになったのだった。



 丸一週間が経った。日中に授業があるのはどうしても堪えてしまって、やはり家に着く頃にはぐったりとしてしまっていた。前期は授業を入れるつもりは無かったのにミスったなと思う。

「なぁ、ごめん。ちょっとだけ飲ませて」

 帰って来てすぐにやむを得ず少女にそう伝えると、少女は素直に首筋を差し出すように頭を傾けた。俺は浅めに歯を皮膚に食い込ませ、少女の血を啜った。

「先生は飲むときにいつも謝るんだね」

「人間も言うだろ? いただきますって」

「あーそういう感覚なんだ」

 口を離し、噛んだ後を見ると小さく穴が空いていた。このくらいなら目立たないし、数日で痕も消えるだろう。

「先生はなんで人間の近くにいるの?」

「別に俺一人でも生きていくことは出来るよ。けどそれで生きていることを実感できるかと言えば別の話でね」

 なんとなく生きていた時期もあったけれど、他者と接することで満たされる感情があることを知った。最初は、自分の作ったステンドグラスを見ている人の顔を見るのが好きだと気付いた。

「長く生きている故に生きている意味を考える時間も長い。楽をして、めんどくさがって、結果的にちょっと頑張ったら得られる達成感をなんとなく継続している。俺にとってはそれがステンドグラスを作ることだったし、今は先生をすることだったりする」

「なるほどね。だからって無理し過ぎじゃない?」

「こんな筈ではなかったんだ。今日のこのコマについては全部水倉さんのせい」

 普段は日が落ちるのが早い後期のみに授業を入れてもらっていた。昨年度末に前期に仕事の予定はあるかと聞かれてっきり大口の仕事をくれるのかと思ったら、まさか授業を入れられるとは思っていなかったのだった。人気だからと言われるのは嬉しいが、困るのは困る。

「先生の授業、楽しそうだから来期に取ろうと思ってたんだよね。今期に友達が取ってて」

「友達いるんだな」

「いるに決まってるでしょう! 枝星美登里って知ってる?」

「ああ、枝星か。確かに声楽科だったな」

「先週もカラオケ行ったんだよね。丁度先生に会った日」

「ああ、あれのメンバーの一人だったのか」 

「……人魚ってバレたら友達も終わるのかな」

「どうだろうな? 捕まえられて研究所に送られないことを祈ってるよ」

「助けてよ!」

「可能な限りはな」

 そう軽口を言いながら二人で笑っていた。



 前期の授業が終わった次の日に、嬉しそうに少女は帰って来た。

「ちょっとそこの海行ってくるー! 友達と行くのは初めてなんだよね!」

「……それは大丈夫なのか?」

「大丈夫。私は泳がないって言ってるし!」

「誰と?」

「美登里ちゃんとか伊織くんとかその辺ー」

「あーその辺か……」

 二人とも俺の授業を取っているから、大体の雰囲気は知っていた。

「え、何。ダメとか言う?」

「無理矢理海に入れられないよう気を付けろよ……」

 些か調子に乗りやすいなところがあるから少し心配だが、俺がとやかく言うことでもないかと見送った。

 それが二時間ほど前のことで、スマートフォンに花笠蒼依の名前が表示されたときは嫌な予感がした。

「先生助けて!」

 言わんこっちゃない、と呟き俺は頭を抱えながらすぐに家を出た。



「今から言うところに車ですぐに来てくれない?」

 言葉の後に続けられたのは、遊泳区域から少し離れたところだった。

 案の定人魚に戻っている花笠がいて、その側には気を失った枝星美登里がいた。その状況で大体のことを察し、なんだか既視感を覚える光景だなと思う。

「美登里が溺れたから、助けに行ったんだ。私の足は戻るのに三十分は掛かるし、それまでに起きたり他の誰かに見付かったらどうしようかと思って」

 なるほどな、と思いながら枝星の状態を確認する。息もしているし、問題はなさそうだ。程無くして起きそうだなと思う。

「……美登里にバレたかもしれない」

「――記憶消しとくか?」

 そう提案すると、驚いたようにこちらを向いた。その手は考えていなかったらしい。

「美登里の血を飲むってこと?」

「そうだな。少しだけ飲んで、前後の記憶を忘れさせてしまえば、お前たちの関係は元通り」

「ちょっとだけ待ってくれる?」

 ひとまず二人を家へと連れて帰った。

 目覚めたとき、枝星はまず花笠の顔を見て

「蒼依って人魚なの……?」花笠は「そんなわけ――」と一度否定しようとしたが、ゆっくりと頷いた。

 続いて出た言葉は、俺の予想とは全く違った言葉だった。

「人魚だから歌が上手いってこと……?」

 そうだ、彼女は声楽科で、その声を持って成功するためにこの大学に来ているような子なのだ。

 人魚の歌声は人を惑わす程に甘美なものだ。そんな声を持つ者が、同じ学内にいるというのはどういうことなのか。

「そりゃあ上手いよね。前提から違うんじゃん」

 落胆した表情で、枝星は言う。

「ごめん、助けてくれたのはありがとう。けどちょっと考えさせて」

 そうして枝星は帰っていった。

「なぁ、本当にいいのか?」

「消さないで大丈夫」

「これはそういう問題じゃないから」

 花笠は静かにそう言った。



 それから二人はあまり連絡を取らないまま、音楽祭の日になった。音楽祭の前半は声楽科の学内コンクールで、後半は管楽器科や鍵盤科の演奏がメインになっている。つまり朝の内に見に行かなければいけないのだった。

「鍵野先生、眠そうね」

「俺は元々夜型だからな……」

 順番前に会った花笠にはそう言われてしまった。朝の優しい日差しを受けたステンドグラスは、また違った表情をして我ながらいいなと思う。

 順番は花笠が先だった。講堂の舞台の中心に立つ。ステンドグラスの深海の海で人魚は歌う。

 歌声は青く光のように降り注ぐ。少女の歌声を聴いた者には少女の周りに泳ぐ魚も見えることだろう。

 そして圧倒的な歌唱力を見せた花笠が優勝した。今回に関しては、この講堂で歌ったことも大きかったように思える。枝星は二位だった。

 優勝したにも関わらず、どこか心から喜べないでいる花笠の元に、枝星がやってきた。

「友達が人魚だから何? 私はあんたが人間だから友達になったんじゃなくて、あんただから友達になったの!」

 枝星は目に強い光を灯して花笠を見やる。

「人魚様なら尚更やってやろうじゃん! 絶対に正式なコンクールでは勝ってやるんだから」

 そう宣戦布告したのだった。



 花笠の入寮が決まり、後期の授業が始まる一週間前が入寮日となった。

「美登里も実家から遠いから入ることになったんだよね! だから同じ部屋なんだ」

 やったー、と嬉しそうに荷物を下げた少女は言う。枝星が一緒なら、毎日が修学旅行のようでさぞ楽しかろうと思う。きっと二人で練習がてら部屋で歌うこともあるのだろう。

「俺はさ、お前が人魚であることがちょっと嬉しかったんだよ。俺みたいな奴が他にもいるんだなって。だからお前がそうやって楽しそうにしてくれてると、俺も嬉しい」

 水倉さんに講師をしてくれないかと頼まれた日のことを思い出す。

「バレたり困ったりしたら、またうちにおいで」

 うん、と大きく少女は頷く。

「この世界楽しんでくる!」

 朝の光に向かう少女を、その未来がいつも光に満ちていますようにと願いながら見送った。

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