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第10話 朝市
東の空が白み始めた頃、フランカたちは人気のない裏路地にこっそりと降り立った。
路地には雪が積もっていて、建物の軒には大きな氷柱が伸びている。
フランカたちに驚いてバタバタと逃げていった鳩たちは白い息を吐いていた。
「一応魔法であったかい結界張ってるんだけど、寒くない? だいじょぶ?」
背中を丸めてフランカの顔を覗き込んでくる。整った眉毛がへにょっと下がっているのが存外かわいかった。
全く寒さを感じないのはその暖かい結界のおかげというのもあるだろうけれど、地面に足をつけてもしばらくマーディンさんに抱きしめられていたからかもしれない。
思わずそう呟けば、マーディンさんが嬉しそうに笑った。
歩きながらマーディンさんが体を寄せてきて、にぎやかな朝市に少しだけ尻込みしたフランカの手を引っ張ってくれる。
手袋越しでもマーディンさんの手は温かい。悪魔とはこんなにも体温が高いのだろうかと思いつつ、フランカは少しだけ繋いだ手に力を入れた。手袋の厚みでふかっとした手応えが返ってくる。
「おかげさまでとても暖かいです。ありがとうございます。マーディンさんは……」
そう言ってマーディンさんの顔を見上げて、ハッと気づく。いつの間にかこめかみから生えていた金の巻き角がなくなっていた。背中に生えていた羽も消えている。コートの背中のもこもこだけがかわいく揺れていた。
「角が……羽も……」
「人に見られるとめんどいし、そんくらいの力は溜まったから隠した」
「そう……ですか」
朝市は開始直後から体をずらさなくては人とすれ違えないほどの人出だった。
確かにマーディンさんの羽と角は目立っただろう。だけどそれを隠してもなお、その人外の美しさは朝日の中で際立っている。
『神に寄り添う宝石龍』の彫刻がある中央広場から出発し、軒を連ねる露店を二人で手を繋いでゆっくりと見ていく。
魚屋では木箱にぎっしり詰まった凍った魚の鱗が、朝日を反射して銀色に光っていた。
その隣は肉屋だ。ハムやソーセージが吊り下がり、大きな肉の塊や皮を剥がされた豚の頭などが山のように机の上に積み上げられている。
「えー、すご。人殺せそうなくらい分厚いモモ肉売ってる! 板みたーい! ちょっと欲しいかも!」
「マーディンさんが欲しいのなら……と言いたいところですが、今は持ち合わせが……」
「もちろんオレが払うよ。この世界の通貨いっぱい持ってきたんだよね」
続けてわくわくを隠さずに「買ってみよっか! 棍棒みたいな生ハムにしよ!」と言って、マーディンさんがフランカと手を繋いだまま弾むような足取りで肉屋に寄っていく。
「おっちゃんおまけしてー! あ、だめ? じゃあ肉屋のプライドに懸けて、絶対おいしいのにしてね」
コートのポケットから硬貨を取り出して払ったマーディンさんが、肉屋の店主から大きな生ハムを受け取った。
「ごめんフランカ、おつり受け取って~」
「は、はい!」
両手で生ハムを抱えるマーディンさんに代わって、おつりを受け取る。
〝じゃないほう〟と呼ばれてハズレ扱いされていても、一応フランカは愛し子候補であり貴族の娘だったので、こうした露店で小銭のやり取りをしたことがない。
目の前でお金を払って、すぐに商品を受け取るというのも新鮮だった。
「それ持っててね」
生ハムを抱えて空中に金色の文字を書いていたマーディンさんが、おつりを返そうとしたフランカに言った。
宙に書いた文字の周りが歪んでいる。その歪みに押し当てられた生ハムが、まるで溶けるようにするすると消えていった。
なぜか誰もそれに注目していないが、フランカはその不思議な現象に驚きすぎて見入ってしまい、おつりを返しそびれてしまった。
「んじゃ次の店見に行こ!」
手ぶらになったマーディンさんがフランカの手を取って歩き出す。
「買いたいものあったら言ってね、オレが払うし。そのおつりも少ないけど自由に使って!」
そんなわけには……とおつりを返そうとしたフランカは、さらに増えてきた人の波に邪魔そうな顔をされたので、仕方なく小銭をコートのポケットに入れた。
露店から威勢のいい声が客を呼ぶ。
こんなに大きな声を聞くのは軍事演習の見学くらいでしか機会がなかったフランカは、始終圧倒されながらマーディンさんに手を引かれるがままついていく。
何かの葉や乾燥した実を束にして売っているのは、スパイス屋だろうか。
黒いローブを羽織った客の老婆が、枯葉を指さして店主と値段の交渉をしている。まるでおとぎ話の魔女のように見えた。
その反対側の店には枯葉のような色の毛糸が、壁のように積み上げられている。
積み上げられた毛糸の壁の隙間からギョロッとした目がこちらを見ているのに気がついて、小さく悲鳴を上げてしまった。店主だろうか? ちょっと怖かった。
それから少し歩くと、柑橘類が木箱の中で三角錐の形に積まれていた。
暗い橙色のオレンジからギラッと光る黄色いレモンまで、木箱ごとに色のグラデーションを作って並んでいる。
「見ただけでツバ出るぅー!」
レモンを指さしてきゅっと唇を寄せたマーディンさんに、フランカは少し驚きながらも同意した。耳の下のくぼんだところがツキンとする。
「酸っぱいのはお嫌いですか?」
てっきり悪魔は人間の食べる物になど興味がないと思っていたけれど、この反応を見るかぎり、彼はレモンを食べたことがあるのだろう。
「嫌いってわけじゃないけど、レモンとかお酢メインの料理とかはちょっと苦手かも。てかそう聞くてことは、フランカも苦手なの?」
「――っ、あの……お料理は大丈夫なのですが、果物の酸っぱいのが苦手です。甘いと思って食べたら酸っぱいというのが、なんだか油断しているところを背後から殴られたような、やるせない気持ちになるので……」
イチゴのように、いかにも甘そうな匂いをさせながら裏切ってくる場合が特に苦手だ。
「あー、なんかちょっとわかるー。騙されちゃうよねぇ」
うなずきながら、マーディンさんは人にぶつかられそうになったフランカを庇ってくれた。
その拍子にマーディンさんの髪から薫った甘い匂いに、ああ……この悪魔になら騙されてもいいわ。とフランカは思った。
どんな騙され方をしてもいい、殺されたってかまわない……とすら思った。
だって優しかったから。
――フランカも苦手なの?
フランカのことに興味を持って聞いてくれたから。思えば会ってから今までずっと、フランカの話を、好みを、何をしたいかを聞いてくれていたから。
マーディンさんにとってはきっと特別なことはない会話だっただろうけれど、フランカにとってそれはあり得ないことで、とても嬉しかったから。
マーディンさんの顔をじっと見上げていたら、視線に気がついて「どしたの?」と首を傾げられた。
「……このオレンジを、食べてみたいと思ったのです」
「え、酸っぱいかもだけどいーの?」
「かまいません」
うなずいて、フランカはドキドキしながら果物屋の店主に声をかけた。
「このオレンジを二つ、いただきます」
「毎度!」
初めて実物を使用する硬貨をポケットから取り出して数え、店主に渡す。
赤味の強い橙色のオレンジを、木箱から二つ選んだ。
いろいろ種類がある柑橘類の中から、これがいいと思って選んだ。
心臓が痛いくらいに鳴っている。
「よろしければ、一緒に食べませんか?」
オレンジを自分で買うと決めて、たくさんある中から二つを選んだ。
フランカが、自分の意志を持って、誰にも邪魔されずに、自分だけで選んだオレンジだ。
マーディンさんのお金で買ったというのが情けないけれど、フランカが選んだ二つのオレンジからさらにおいしそうだと思うほうを選んで、マーディンさんに差し出した。
「喜んで!」
マーディンさんは弾けるような笑顔でうなずいて、フランカが差し出したものを受け取ってくれた。
ふと、マーディンさんのこめかみから生えた巻き角の、その綺麗な金色を日の光の中で見たかったなと思った。
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