第31話 舞踏会の裏側で(中編)

 瞬間、アレクシスは再び頭の芯が冷えるのを感じた。

 シオンの言葉の意味を図りかねている自分がいた。


 理解はできるのに、できない。

 いや、したくない、というのが正しいだろうか。


「エリスを望むと……? 弟のお前が? その意味を本当に理解しているのか?」


 もはや困惑を隠せないまま、アレクシスは問いただす。


 ”望む”――その意味は通常、ただ"欲しい"という意味で使われる言葉ではない。

 “自分のものにしたい”――つまり、"結婚したい"、という意味で使われる言葉だ。


 それにそもそも、エリスは自分と既に婚姻している。

 それなのに、このシオンとかいう男は、いったい何をほざいているのか。 


「エリスは俺の妃だぞ。お前はそれを――」

「別れればいいでしょう」

「……何?」

「姉さんを手放してください。あなたには、他にいくらだって妃候補がいる。姉さんでなければならない理由なんてない」

「なっ……」


(この男、正気か?)


 とてもまともな思考とは思えない。


 いや、そもそも、だ。

 ジークフリートの手引きがあったとはいえ、王宮に忍び込み、姉を攫い、眠らせるような人間がまともであるはずがない。


 とは言え、相手はエリスの弟だ。

 ただの暴漢ならばみぞおちに拳を一発ぶち込んでやれば済むことだが、今回ばかりはそうもいかない。


 対応に苦慮するアレクシスに、シオンは気持ちをぶちまける。


「僕はあなたのことをよく知りません。でも、あなたの女性嫌いのことは知っている。姉さんとの結婚が、あなたの望んだものではないことも。そんな男に、どうして姉さんを任せなくちゃならないんだ。僕の方が絶対に姉さんを愛しているのに」

「だからこんなことをしたと? 姉を攫い、眠らせてまで。――そこにエリスの意思はあったのか?」

「姉さんの意思だと? ――ああ、そうか。本当にあなたは何も知らないんですね。姉さんがどれだけ大変な思いをしてきたか。どれだけ辛い日々を送ってきたか。それなのに、愛した男に捨てられて……その上こんな場所に送られるなんて……可哀そうな、姉さん」

「…………」



(こいつ、いったい何を言っている……?)


 支離滅裂だ。話が通じない。

 これはやはり暴力に訴えるしかないだろうか。

 

 だが、アレクシスがそう考え始めた矢先だった。


 シオンはフラフラと数歩揺らめいて、憎悪に満ちた瞳でこう言ったのだ。


「聞きましたよ。あなたには思い人がいるんでしょう? ランデル王国に――初恋の女が」


「――ッ」


 刹那、アレクシスは全てを悟った。

 この件は、ジークフリートの起こしたものなのだ、と。


 初対面であるシオンが、そのことを知っている筈がない。

 それを知っているということは、ジークフリートが話したとしか考えられなかった。



「ジークフリート! お前、この男に何を吹き込んだ!?」


 ランデル王国に"思い出のエリス"がいることを知る人間は、自分とセドリックくらいなものだ。

 もしかしたらクロヴィスにも知られているかもしれないが、その程度のもの。


 だがジークフリートには、アレクシスが留学中に人を探していたことを知られてしまった。その対象が女性であることも、当然気付いていただろう。


 そもそも、シオンの在学証明書をあらかじめ用意していたということは、この件自体がジークフリートの計画の内だということだ。



「答えろ! お前、この男をたぶらかしたのか……!?」


 

 アレクシスは、怒りに任せてジークフリートの胸倉に掴みかかる。

 相手が他国の王子だろうとお構いなしに。


 すると、ジークフリートは悪びれもなく微笑んだ。


「僕はただ、親切で教えてあげただけだよ。彼があんまり姉を恋しがって可哀そうだったから。"アレクシスには好きな人がいた。どうせ政略結婚なら、お姉さんは返してもらえばいいんじゃない?"って」

「お前……!」

「だってそうじゃないか。君より、彼の方がずっと彼女を必要としているよ。いっそ哀れなくらいに」

「――ッ」


 ジークフリートは、アレクシスに胸倉を掴まれたまま、それでも笑顔を崩さない。


「アレクシス、君は知っていたかい? シオンは六つのときに母親を失くして、その後まもなく僕の国に捨てられたんだ。表面上は留学と銘打ってはいるけど、もう十年も国に戻っていない。彼の家の当主は実の父親だが、入り婿でね。正当なる後継者の彼が邪魔で、廃嫡しようと目論んでいる。それでも彼は、祖国に残るエリス妃のために必死に勉学を重ねてきたんだ。健気な話だろう?」

「……ッ、だからといって――!」

「それだけじゃない。祖国には継母と腹違いの娘がいて、エリス妃はそれはそれは酷い扱いを受けていたそうだよ。それでも彼女は王太子の婚約者であるということを誇りに、必死に生きてきたみたいだけど……蓋をあけたらこれだろう? 婚約者には捨てられ、君の様な男の元に嫁がされる。なんとも悲劇的じゃないか」

「……っ」

「だが、君が彼女を手放せばすべて解決だ。離れ離れだった姉弟は再会し、永遠に幸せに暮らす。悲劇が喜劇に変わる瞬間だ。――どうだい? 素晴らしいだろう?」



 まるで演説をするかのような滑らかな口調で、ジークフリートは平然と言ってのける。

 その口ぶりに、アレクシスは強く憤った。


 エリスのことを何も知らなかった自分に。

 何一つ知ろうともしなかった自分自身に。


 自分が知らないことを、目の前のジークフリートが知っている事実に。

 反論の余地を許さないほどに的を得た、その発言内容に。



「アレクシス。君は、シオン以上にエリス妃を愛していると言えるかい?」

「――ッ」


 ジークフリートの瞳が、アレクシスの視線をからめとって放さない。

 心の奥を覗きこむようなねっとりとした眼差しに、アレクシスは思わず口を閉ざした。


 エリスを愛している、と断言できない自分自信に、言い知れぬ苛立ちを覚えながら。


「姉さんを僕に返せ」と、自分をきつく睨みつけるシオンに――彼はただ黙って、拳を握りしめることしかできなかった。



(俺は……エリスを愛していると言えるのか……?)



 アレクシスは、心の中で自問する。


 彼は、自分がエリスに抱く感情の名前を今だ理解できずにいた。


 女嫌いの自分に嫁いできた、政略結婚の相手、エリス。

 初恋の少女と特徴が同じだったことで、本人かもしれないと勝手に期待し、落胆し、結果、手荒に抱いてしまった。


 その罪悪感から、多少は歩み寄ろうと努力し、今は同じ屋根の下で暮らしている。


 それは女嫌いのアレクシスにとっては考えられないほどの譲歩だったが、世間一般から見れば当然のことだろう。


 今夜のためにエリスに贈った宝石ジュエリーだって、自分はすっかり忘れてしまっていた。クロヴィスの指摘がなければ、エリスに恥をかかせていただろう。


 そんな自分が、どうして言えようか。「エリスを愛している」などと。

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