第30話 舞踏会の裏側で(前編)

 アレクシスが案内されたのは、灯りのない中庭だった。

 王宮内に多数点在する名もなき中庭の一つで、当然、この時間に立ち入る者はいないような場所である。



「こんな暗い場所にエリス様が……? 殿下、やはり衛兵を呼んで参りましょう」

「駄目だ。向こうの目的がわかるまでは下手に動くな。ここにはジークフリートもいる。大ごとにはしたくない」

「でしたら、せめて剣だけでも取りに戻られては」

「ハッ。今からか? 行って戻るだけでどれだけかかると思ってる」

「ですが――」

「それ以上言うな。お前はここで待て。何かあれば合図をする」

「…………」


 アレクシスはセドリックに中庭の出入り口で待機するように伝えると、ジークフリートと共に芝生に足を踏み入れた。



 ◇



 そこにいたのは、燕尾服を纏った年若い青年だった。

 暗がりのためにはっきりとはわからないが、顔立ちからすると歳は十五、六といったところか。


 身分は一目見て貴族だとわかる。

 その立ち姿が、全身から溢れ出る純然たる貴族の風格が、彼を貴族たらしめていた。



(こいつが、エリスを……。エリスはどこだ……?)


 男と対峙しつつ、アレクシスは視線を動かしてエリスの姿を探す。

 だが、見たところエリスの姿はどこにもない。


 いったいこれはどういうことだろうか。


「おい、貴様。俺の妃をどこへやった」


 アレクシスが傲然ごうぜんと問いかけると、男は大きく眉を寄せ、言い放つ。


「あなたには見えませんか? ――いますよ、ちゃんと、そこに」


 同時に男が身体を半歩斜めに引く。

 そしてゆっくりと右手を上げ、庭の奥を指差した。


 するとそこにあったのは、大木の根元に横たえられたエリスの姿。



「――ッ」


 さあっ――と、一瞬で血の気が引いた。


 地面に横たわり、ピクリとも動かないエリスを目の当たりにし、アレクシスの中で怒りが一気に膨張した。

 と同時に、頭は酷くクリアになり、どうやって目の前の男を殺してやろうかと算段をつけ始める。



「貴様……エリスに何をした」



 戦場で沢山の兵士が命を散らせたときも、砦が丸ごと敵の手に落ちたときでさえ、これほど心を乱すことはなかった。

 少なくとも表面上は、いつだって冷静であるように努めていた。


 そうでなければ、十歳のとき母親を事故で亡くし、後ろ盾を失ったアレクシスが王宮で生き残ることはできなかったからだ。



 他人に決して弱みを見せてはならない。隙を与えてはならない。感情を読まれるなどもっての外。

 笑うことも、涙を流すことも、アレクシスには禁忌だった。

 相手に恐れを与えるための荘厳しょうごんな態度を、決して崩してはならならない――そのはずだった。


 だが今のアレクシスは、それを忘れてしまったとでもいうように、怒りに身を打ち震わせている。

 仲間が目の前で吹き飛ぼうが、冷静さを崩さなかったアレクシスが、今、明確な殺意に囚われていた。



 ――目の前の男を殺さなければ、と。



 右手が無意識に腰へと伸びる。

 だが当然そこに剣はなく、そこでようやく、彼は自身が丸腰であることを思い出した。


「――!」


 ああ、そうだ。今夜は舞踏会である。剣がないのは当然だ。

 こんなことならセドリックの言うように、剣を取りに戻るべきだった。


 アレクシスは大きく舌打ちし、再び男に向き直る。


(頭を冷やせ。エリスは人質だ。ここで隙を見せれば相手の思う壺だぞ)


 いつも部下に口酸っぱく言っていることを自分自身に言い聞かせ、彼は冷静さを取り繕おうとした。


 するとそんなアレクシスを前に、男はようやく口を開く。


「まるで姉さんを心配しているかのような口ぶりですね。安心してください。眠っているだけですから」――と。


 刹那、アレクシスは顔をしかめた。

 姉さん――その言葉に、大きな違和感を覚えて。



「名乗り遅れて申し訳ありません。僕はスフィア王国ウィンザー公爵家嫡子ちゃくし、シオンと申します。……エリスの、弟です」

「……弟、だと?」


 アレクシスは驚いた。

 まさかここでエリスの弟が登場するとは思ってもみなかったからだ。


 そもそも、アレクシスはエリスに弟がいることを知らされていなかった。


 結婚が決まったときにクロヴィスから渡された書類には、シオンの名は記されていなかった。

 それに、エリスとは家族の話をしたことが一度もない。


 だから、目の前の男がエリスの弟であるということを、すぐには信じることができなかった。


 するとシオンは、そんなアレクシスの困惑を感じ取ったのだろう。

 片方の頬を引き攣らせ、小さく呟く。「ああ、何も知らないのか」と。

 そして、こう続けた。


「僕は今ランデル王国の王立学園に通っておりまして。僕がエリスの弟であることは、そこにいらっしゃるジークフリート殿下が証明してくださいます」


「――!」


 その声にアレクシスがジークフリートの方を振り向くと、ジークフリートは胸元から一枚の紙を取り出した。

 暗くてやはりよく見えないが、それはシオンの在学証明書だった。戸籍の内容も記されている。


 つまり、シオンがエリスの弟なのは事実だということだ。

 となると、次に問題になるのは――。


「エリスの弟が、いったいなぜこんなことをする? 目的を言え」


 そう。すべては目的だ。


 アレクシスは、シオンが自分をおびき出すために、ジークフリートに頼んでエリスを連れ出したのだと考えていた。

 エリスを人質に、自分に何か要件を突きつけてくるものだと。

 姉を連れ出し、眠らせる――そうしてまで、叶えたい望みがあるのだと。



「お前は俺に、何を望んでいる?」


 

 月明りの下、二人はしばらく睨み合う。


 舞踏会の音楽を遠くに聞きながら、シオンは口を開いた。



「僕は、姉を望みます」――と。

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