第32話 舞踏会の裏側で(後編)
(ああ、そうだ。俺にはそんな言葉を口にする資格はない。たとえ嘘でも、言えるはずがない)
自分が酷い夫であることは、誰の目から見ても明らかだ。
それに、ジークフリートの話を信じるならば、エリスは祖国でとても辛い思いをしてきたはずだ。
沢山の傷を負ってきたはずだ。
その傷にとどめを刺したのは自分。
「お前を愛する気はない」と冷たく吐き捨て、逃げ場を封じてしまったのは、夫である自分自身。
だからエリスは家族の話をしなかったのだのだろう。
自分のことも、シオンのことも、彼女は話さなかったんじゃない。話せなかったのだ。
――そう。
(言えないようにしたのは……この、俺だ)
その過ちを、今さら悔いてももう遅い。
エリスは自分を恐れている。その現実は変わらない。
ならば、自分ができることは一つしかないではないか。
シオンの言うとおり、エリスをここから解放してやる。それが、最善の道。
――なのに。
「……っ」
どうしても、手放したくないと思ってしまう自分がいる。
彼女を失いたくないと、強く心が訴えている。
(なぜだ。……どうして)
もしや自分は、彼女を自分の所有物だとでも思っているのだろうか。
だからこんなに不快な気持ちになるのだろうか。
玩具を取り上げられたときの、子供のように――。
――すると、そのときだった。
何の前触れもなく、パンッ、と空気を切り裂くような音が大きく鳴り響き――三人は揃って動きを止めた。
その音が銃声とよく似ていたからだ。
――だが幸いなことに、それは銃声ではなく、ただの拍手だった。
三人が音のした方に顔を向けると、そこに立っていたのは第二皇子のクロヴィス。
クロヴィスは、武装した側近と灯りを携えたセドリックを引き連れて、胸の前で両手を合わせながら、呆れた様に三人を見据えていた。
「やめなさい、君たち。ここは王宮だよ」
クロヴィスの声はいつも以上に落ち着いていた。
まるで幼い子供の喧嘩をやんわりと注意するかのごとく、冷静な声だった。
けれどその瞳は氷の様に
「兄上、なぜここに……」
「セドリックに呼ばれてね。大方説明は受けたが……なるほど、確かにこれは穏やかじゃない」
クロヴィスはまず地面に横たわるエリスに視線を向けてから、続いてジークフリートとシオンの顔を順に見やった。
すると、まるで蛇に睨まれた蛙のように、二人は一瞬で口を閉ざした。
ジークフリートはピクリと眉を震わせ黙り込み、シオンも唇を固く引き結んだのだ。
(相変わらず、兄上の眼光は恐ろしいな)
――クロヴィスの絶対零度の眼差し。
普段は穏やかな彼だが、ほんの極たまに、その青い瞳に静かな殺気を湛えることがある。
アレクシスの怒りが動であるとするなら、クロヴィスは静の怒り。
アレクシスを燃え盛る炎にたとえるなら、クロヴィスは極寒の
相手の心を一瞬で凍らせ、同時に畏怖を抱かせる。
アレクシスは兄クロヴィスから放たれる殺気をビリビリと全身で感じ取りながら、兄の言葉を待つ。
するとクロヴィスは数秒何かを考える素振りをして、薄く微笑んだ。
「アレクシス、ここは私が引き受けよう。お前はエリス妃を連れて宮に戻りなさい。このままでは彼女が風邪をひいてしまう」
「……!」
“私が引き受けよう”――その言葉に、アレクシスはさっと顔を強張らせた。
なぜならクロヴィスの提案は、二人の処分は私が行う、という意味に他ならなかったからだ。
「この二人を……どうするつもりです?」
つい、そんなことを口にしてしまう。
この期に及んで敵の心配をするなど我ながら馬鹿げているが、クロヴィスは時として驚くほどに残酷だ。
だからアレクシスは、クロヴィスがどのような采配を下すのか咄嗟に不安を抱いたのだ。
が、アレクシスの予想に反し、クロヴィスは「ははは!」とさもおかしそうに声を上げる。
「お前は優しい子だね。だが心配はいらない。ここは王宮で、彼らは他国の王侯貴族。少し話を聞かせてもらうだけだ。――だから、さあ、お前はもう帰りなさい」
「…………」
ここまで言われてしまっては、反論の余地はない。
アレクシスはエリスの元へ歩み寄ると、地面に
――外傷はない。脈も呼吸もしっかりしている。薬が切れればきっとすぐに目を覚ますだろう。
アレクシスは安堵しながら、エリスをそっと抱き上げる。
シオンの方を振り向けば、彼は苦虫を嚙み潰したような顔でこちらを睨んでいた。
が、手を出してくる気配はない。
アレクシスは、再びクロヴィスに向き直る。
「では、これにて。あとはよろしく頼みます、兄上」
その声に、にこりと微笑んだクロヴィスの笑顔を最後に、アレクシスは王宮を後にした。
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