声を届けるのは俺ではない

沈沢 こう

 

 定期試験、というのは一部例外を除いて学生の敵である。特に、普段授業を真面目に受けない人間ならば尚更。

 真面目に受けない筆頭の春は机に項垂れる。目の前にある課題が全くわからないのだ。いや、きっと参考書を開き真面目やれば解けないことはない。ただそのやる気が湧かないのである。

 流石の自分でさえ焦るほどにはやる気が出ない。現に右手にあるシャーペンは何も書こうとしなかった。持っているだけのそれは芯さえ出されていない。上の突起を押すさえ億劫なのだ。

 「……やらなきゃなぁ」

 空き教室で呟く。夏の割に涼しいここに集中するために来たのだが、愚策だったかもしれない。静かすぎて落ち着かない。こんなことなら、美月達について行けばよかった。

 ここに来る前に誘ってくれた優斗と沙耶の事を思い浮かべる。彼らも大概不真面目で、試験勉強はいつも余裕がない。そんな中、自分を心配し誘ってくれたのに断ってしまった。申し訳ないな。良くしてくれる人間をうまく受け入れられない自分が嫌になる。

 春は机に上半身を倒し、目を瞑る。もう何も考えたくなかったのだ。目の前の課題も試験も人間関係も。全部自分のせいだが、今は他責にして忘れたかった。

 「……はぁ、めんどくさい」

「何が面倒なんすか?」

 独り言のつもりだったそれに、言葉が返ってきた。それに驚いた春は急いで体を起こし声の方向に視線を向ける。目の前に一個下の後輩である薫が立っていた。いつのまに教室に入っていたらしい。

 急に目の前にいた後輩に驚いた春は固まり、言葉をなくす。それを見た薫は笑みを浮かべている。本当にいつからここにいたのだろうか。飛び跳ねた心臓を落ち着かせるように、春は深呼吸を行う。

 そうして、ようやく「なんで」と小さく呟いた春に、薫は楽しそうに返してきた。

 「先輩、一人で勉強すんの苦手だと思いまして」

「そ、うだけど……驚かさないでよ」

「それはすいません。でも、俺驚いてる先輩好きっすよ」

「……あくしゅみ」

 拗ねる春を他所に薫は机と椅子を一つ動かしていく。その行動に春は疑問を浮かべる。たしか、彼は優斗に誘われていたはずだ。ここに来る話など聞いていない。

 「か、かおるくん?」

「なんすか?」

「なにしてるの?」

「え? 聞いてませんでした? 一人で勉強するのが苦手な先輩のお手伝いするって言ったじゃないですか」

「優斗が誘ってなかった?」

「別に誘われただけですから」

「だけど……」

「あーもうそんなこといいですから、勉強やりましょ。課題、やばいんじゃないんですか?」

 そう言われたら春は黙るしかなかった。図星でしかない。春は渋々納得し、目の前の課題に目をやる。見るだけで頭痛がしてきた。

 少し痛む頭を無理矢理動かして考えるが答えは何も出てこない。何か掴めそうになるが、別の思考が全てを掻っ攫っていくのだ。うるさい。

 ここ最近ずっとこうだ。勉強もままならない。これでは後輩に迷惑をかけてしまう。それは嫌だ。

 そう思えど、頭はうまく回ってくれない。

 「……先輩、これ解けてませんでした?」

 不意に、目の前の課題が視界から消えた。どうやら、目の前に座る彼が取ってしまったようだ。春は自身の課題を眺める薫をぼんやりと見つめる。春の課題を凝視する薫の眉間がどんどん深くなっていく。何を悩んでいるのだろうか。

 「……先輩」

「……んぁ? え、あぁ、何?」

 急に呼ばれた春は間を置いて返事をする。彼の言葉を認識するのに少し時間がかかってしまったのだ。たった二文字であるというのに。

「やっぱり前に難なくできてたとこっすよ、これ」

「そう? 駄目だなぁ、衰えてる」

「……そんな問題じゃないと思いますけど」

「薫くん?」

「最近の先輩、おかしいんですよ。いつもどこか上の空で」

「そう?」

「はい」

「自覚ないなぁ」

 嘘だ。最近、いつも何かぼやけているのだ。自分が立っていたはずの世界がぼやけて、自分を責め立てる声だけが輪郭を持っている。気を抜くと直ぐに周りから隔絶されてしまう。

 しかし、それを目の前の後輩に言ったところで迷惑をかけるだけだ。ならば、知らない振りすればいい。

 春は十八番の笑みを浮かべ、薫へ謝罪する。「気をつけるよ」と。どうしようもできないというのに。

 「……嘘っすよね」

「そんなことないよ?」

「そうですか…………先輩って嘘つくと左手の小指、上がりますよね」

 春は咄嗟に左手に視線を向ける。それはいつも通りで、上がってなどいなかった。嵌められた。これでは嘘ついてましたと自白するより滑稽である。

 「やっぱ、嘘ついてたんじゃないですか」

「……騙したの」

「始めたのは先輩なんで」

「…………」

「睨まないでくださいよ。別に責めてるわけじゃないんで……」

 そう言った薫は立ち上がり、春が座る横へと椅子を引きずる。隣に座った彼に応じるように、春は体を少し薫の方向へと向けた。

 「ねぇ、先輩。……確かに俺は優斗さん達程頼れる存在じゃないと思います。だけど、俺は先輩に頼って欲しいんすよ」

 真っ直ぐと薫の瞳が春の瞳を射抜く。いつもの無気力なものとは違う、彼の誠実さが、彼の優しさが滲んでいる。身を焦がすほど眩しくて、溺れてしまいそうなほど綺麗だった。

 薫の瞳に見惚れていると、彼の手が春の手を包み込む。薫らしい冷たいけれど人の温かさを感じるその温度に、春は溶けそうだと思った。

 その瞬間、春の頭に声が響く。

 『あぁ、彼は残酷だ。優しさに溶かされたお前に残された道は死だけというのに……どうせいつかお前なんて飽きられるというのに……』

 まただ。うるさいなぁ。今は薫君が喋っているというのに。

 春がそう思っても、声は止んではくれない。楽しそうな声色で好き勝手に知ったような口を利くだけなのだ。

 「……先輩? あの、聞いてます?」

『ほら、何か彼が言ってるよ? お前はどう返す? どう返しても、お前はきっと間違うだろうけど』

「本当に大丈夫ですか……顔色やばいっすよ」

『あーあ、可哀想。心配なんてしなくていいのに、お前のせいで要らぬ不安を彼が抱いてしまう』

「せん……ぱ……ぃ!」

 どんどん声が大きくなっていく。彼の声が耳に入らなくなっていく。

 目の前には焦りを浮かべた薫がこちらに何か話しかけている。しかし、春の耳に言葉は届かず、口を動かしているだけにしか見えない。

 とりあえず、彼に心配しないでと言わなくてはならない。春はそう思い、ニコリと彼に向かって笑う。

 「せ……ぱぃ……?」

「大丈夫だから……気にしないで」

 春はそう彼に向かって呟く。声が耳に入らないから上手く言えているかは定かではない。

 ただ、目の前の彼が酷い顔をしているのを見るに、ダメだったのだろう。




 あの時お前はなにかできたのか。

 そう問われれば、薫は黙るしかなかった。所詮は子供で、彼女にとってはただの後輩でしかない。

 目の前で弱々しく笑う春に薫はただ呆然とする他なかった。無力で無知な人間に選択肢は与えられないのだから。

 それでも、自分が何もしなければ彼女が消えてしまうことは明白だった。ならば動かなくてはならない。

 震える手で薫はスマホを操作する。出来ればあの人を頼ることはしたくなかったが、そんなことを言っている場合ではないのだ。見慣れない電話番号を押し、スマホを耳に近づける。

 スマホからなるコール音がいつもの数倍遅く感じ、薫は焦りが抑えられなかった。早く、早く出ろ。

 猛暑だというのに気持ち悪い程涼しくて、静かな空き教室に電子音が響く。目の前で目を細める彼女の瞳の焦点は全くあっていない。それが薫の焦りをどんどん大きくしていく。右足がゆっくりと揺れ始める。

 はやく、はやく。彼女が壊れる前に。

 貧乏揺すりが顕著になってきた頃、小さな音が耳に入る。その後、すぐに聞き覚えのある声がスマホから流れ出す。

 『お前から珍しいな、どうした』

「優斗さん、急いできてください。何がなんでも」

『は? なんだよ急に』

「説明してる暇ないんです、春さんが危ないんで早く来てください!」

『春が? ……すぐいく』

 すぐさまスマホからは通話が切れたことを知らせる音が繰り返し流される。

 これで一安心だ。彼ならどうにかできるはずだから。少なくとも自分よりかは。

 薫は一度大きく息を吸う。久しぶりの呼吸のように感じる。酸素が脳に周り、少しだけ冷静さを取り戻していく。

 スマホをしまい、春の方へと視線をやる。相変わらずぼんやりとこちらを微笑んでいるだけだった。その微笑みはあまりにも現実味がなかった。

 そこにいる実感を持ちたくてたまらなくなった薫は彼女の頬を優しく触れる。壊れないように、壊さないように。壊れ物を扱うように触れる。そうして触れた瞬間、指に伝わる感覚に薫はゾッとした。

 いくら涼しいとはいえ今は夏で、低体温の薫でさえ触れれば生暖かい。しかし、彼女は凍ったように冷たかった。

 ____それはまるで……。

 そこまで考えて薫は春を強く抱きしめる。自分の体温を彼女に分け与えるように。そうでもしないと、自分が想像してしまった「最悪」が現実になってしまう気がしてならないのだ。

 後輩に突然抱きしめられたというのに、なんの反応を見せない春は、非現実的な存在のように感じさせる。今にも、彼女が煙のように実体が薄れて消えてしまいそうで。

 その気持ち悪さを払拭するために薫は彼女をひたすら強く抱きしめる。


 早く来てください。

 早く助けてください。

 何も出来ない俺の代わりに。


 遠くで微かに聞こえる足音が大きくなることを、薫はただ願い続けた。

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