第5話 蕎麦屋の二階

大学一年生の時の話だ。

地元を離れて、とある衛星都市に住んでいた。そこから通学をしていた。

地元は、どうも居心地が悪いし、限界集落みたいになってきていたから。


入学してすぐ、アルバイトを始めた。

そう、蕎麦屋のバイト。チェーン店じゃない、個人経営のお店。

老夫婦ってほどじゃないんだけど、ご夫婦がやってて。そう、ご主人が蕎麦打って、奥さんがフロアで注文取るっていうね。

当時でも珍しかったのは、住み込みのバイトをしている先輩が居たってこと。

ん? まあ、普通の人だよ。普通の。痩せてて、普通くらいの身長で、ちょっと顔色が悪いけど、受け答えはしっかりしてて、僕に無理いってくるわけでもないし、わからないことは率先して教えてくれる人でね。


で、しばらく経ったある日の事なんだけど、開店前の掃除を任された。

まあ、簡単なんだけどね。教えられた通りに掃除するだけ。ただ、ちょっと早い。

鍵は裏の勝手口のポストの中にあって、開ける番号は……って教えられてた。


その日は日曜で大学はもちろん休み。まだ遅くまで遊ぶってほどの仲じゃないから、友達と夜更かしするってこともなくて、わりと早起きは楽だった。

家を出て、歩いていくとすぐにお店。六分、七分程度かな。

着いてすぐ、いわれた通りに店に入って掃除を始めた。

終わったのは一時間くらい経ってからかな。けっこう疲れた。

ご夫婦がくるか、先輩が起きてくるかする前に少し休憩をしようと思って客席のひとつに腰掛けた。

そこで、急にお腹が痛くなって、トイレに急いだ。


トイレは二階。

厨房の横の階段を上がると、両サイドに障子で区切られた部屋がひとつずつあって、正面の廊下の突き当りにトイレがある。

僕は学生だから、住み込みで働くわけにいかないけど、昔はもうひとり住み込みのバイトが居たらしい。

ご夫婦にここに住まないのか訊いたけど、ふたりで生活するには狭いからちょっとね……って。なるほど。

で、慌てて階段を駆け上がろうとしたんだけど、先輩がまだ寝ていたら悪いから、できるだけ音を立てずに上がっていった。

「おはよう」

「あ、おはようございます」

階段を上り切ったところで、声が掛けられた。

先輩、起きていて廊下に顔だけ出して挨拶してくれたから、こっちも当然返して。

立ち話とかしている余裕は無いから、そのままトイレに駆け込んだ。たぶん、僕の様子を見て先輩も察してくれると思って。

ズボンを下ろして、洋式の便器に腰掛けて、用を足している最中に、あれ? と思った。

障子、開いてたっけ? って。

思い返してみると、ちょうど先輩の頭の高さに顔があって、障子に貼り付いていたんだよね。

それが、おはようって。

急いでいて、まともに向き合わなかったのが良かった。変なものを見ずに済んだと思った。

でも、どうしよう? とも思った。

だって、トイレから出たら廊下があって左手の部屋には先輩の部屋がある。つまり、さっきの障子があるわけだ。

それでも、ずっとトイレに籠ったままってわけにもいかないから、用を足し終わったら、意を決してトイレのドアを開けた。

すると、ちょうど階段を下りていく先輩の肩が見えた。あと一段下がれば頭も見えなくなるってところで、クルッとこっちを振り返った。

先輩、真っ青な真顔でこっちをジッと見つめてて。

それから、口だけがカパリと開いたかと思ったら、

「あ゛あ゛あ゛あ゛~~~」

って、叫び続けた。

もう怖くなってトイレに戻って、ドアを閉めたよ。

でも、先輩の声はずっと響いたまま。

両手で耳を塞ぐんだけど、そんなのおかまいなしに聞こえてくる。


どれだけ時間が経ったのか覚えてないけど、ちょっとして、ドアがノックされた。

コンコンッ、って。

「誰ですか?」

「どうしたの? 具合、悪いの?」

ご主人だった。心底安心したよ。

ドアを開けると、心配そうなご主人が立っていて。

「いや、ちょっとお腹の調子が悪かったんですけど、もう大丈夫です」

って返答して。

トイレから出て、厨房に戻ったらご主人が、「本当に大丈夫?」って。

お店にきたら、掃除は綺麗に終わっていたんだけど、いつまで経っても僕の姿が見えないから、二階にきたんだって。

で、トイレで人の気配がするから、きっと僕だろう、何か具合が悪いのかも、って心配した、と。

悪いことしたな、と思ってね。

絶対に信じちゃくれないだろうなって思ったけど、笑い話として、さっきあったことをご主人に話したんだ。

そしたら、笑ってくれて、寝ぼけたんだろうって。

ふたりでゲラゲラ笑っているときに、お店の扉が開いて、奥さんが入ってきた。コンビニで買い物して遅れたとかなんとか。

でも、表情が優れない。

ご主人がどうした? って奥さんに訊いた。

そしたら、隣とウチの間にある路地みたいな所で、先輩が倒れているって。

声かけたけど、死んでるって。

それからは、大騒ぎだよ。警察呼ぶし、救急車もくるし。


結局、前の日の晩に遅くまで居酒屋で飲んで帰る最中、地元の不良と喧嘩になって、殴られた勢いで後頭部を強打して亡くなったってご主人から教えられたよ。まあ、警察からご主人も教えてもらったんだろうけど。

だから、あの日、僕の見た挨拶してきた先輩って、本当にそこに霊として居たのかも。


だけど。

だがしかし、なんだけどさ。

バイトの先輩が飲んでたっていう居酒屋、あとあとわかるんだけど、その日は定休日で営業してなかったんだ。

それじゃ、先輩ってどこで飲んでたんだろう?

それだけは、今もわからないままだね。

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