第2話 夕暮れの教室

次。

……次だ。アレは、いつのことだったか。

そうだ。思い出した。


小学校に通い慣れて、初めてのクラス替えをした三年生のことだ。

田舎だったけど、ドの付くほどの田舎じゃなくて。

それでも、ふたクラスで、ひとクラス三十人くらいだったかな。


たしか、ゴールデンウイーク前……だ。

ベタだけど、宿題のプリントを自分の机の引き出しに忘れたのを、家に着いたとたんに思い出した。

出迎えてくれた母親に青い顔して、学校に引き返すっていったんだ。

「どうしたの? そんなに慌てて」

「プリント忘れた! 宿題の!」

ランドセルを雑に手渡して、学校へ全力疾走した。

校門に、帰り支度をした先生がいて、宿題のプリントを忘れたことをいったら、通してくれた。

「すぐ帰るんだぞ。日が暮れると用務員さんが鍵をかけるから出られなくなる」

なんか、そんなことをいわれたはず。

上履きに履き替えて、3階まで階段を駆け上がって、先生たちはほとんどいないから廊下を堂々と走って、クラスのドアを開けた。

放課後の教室って、ちょっと雰囲気が違う。

ガランとした広い空間。誰もいない机と椅子。先生が立たない教壇。綺麗にされた黒板。それと夕日。


自分の席は窓際で、前から二番目だった……かな。

椅子に座って引き出しを引くと、藁半紙が一枚。宿題だ。

それを取って帰ろうとした。

……ふと。

本当にふと。

何気なくだったと思う。たぶん。だと思う。

校舎の裏庭にあるプールに目がいったんだ。

夏になると清掃されて、水底の青いペンキが映えて、水面がキラキラと輝くプール。

それが、そのときは真緑色の二十五メートルプール。

藻のせいだ……って聞いた。

早く夏にならないかな。

そんなことを思っていた気がする。

「あれ?」

教室にひとりで居るのに、声が出た。疑問の声だ。

プールサイド。

ザラザラしたコンクリートに、楕円の足跡が点々と続いている。

長方形のプール。その長い辺の下側に。

それは、洗眼器を横切り、腰洗い槽を抜け、外へ延びていた。

「誰かいたのかな?」

返答なんかないのに、なんとなくつぶやいた。

ドンッ!

代わりに、何かがぶつかる大きな音が校舎に響き渡った。

驚いて声も、悲鳴も出なかった。

振り向いてみても、何の変哲もない。

教室の前と後ろにある引き戸の小さな窓から見える風景にも変わりはなかった。


ビシャッ……。

ビシャッ……。


続いて水の音がした。

すぐに頭に思い浮かんだのは、誰かが水を浸したモップを廊下に叩きつけている光景。

でも、何のために?


ビシャッ……。

ビシャッ……。

ビシャッ……。

ビシャッ……。


音が段々と大きくなる。

近づいてきてるんだ、と気が付いたとき、反射的に教壇の下に隠れた。

自分の机の下じゃ、丸見えだから。


ビシャッ……。

ビシャッ……。


しばらくして、隣のクラスの引き戸が開く音が。

それから静寂があって、今度は自分のクラスの引き戸が開いた。

できるだけ呼吸をしないように。できるだけ動かないように。できるだけ見つからないように。

とにかく、頭を抱えて、丸くなり、その場をやり過ごそうとした。

「うわあっ!」

誰の悲鳴ともわからない悲鳴が上がる。


ビシャッ……。

ビシャッ……。


教壇から少しだけ片目を出すと、閉められていく引き戸に、バタバタと宙に浮いた誰か友達の両足が見えた。

おそらく、ナニかに抱えられて連れていかれる途中だったんだろう。

それでも、怖くて教壇の下に隠れ、震えるくらいしかできなかった。


あの水の音がしなくなってから、ゆっくりと教壇から這い出た。

窓の下から、そおっと目だけを出して、プールを眺める。

プールサイドの足跡は乾ききっていて、なくなっていた。

だけど、長方形の長い辺の上側に新しい濡れた足跡があった。

今度は、何かを引き摺った跡と一緒に。

たぶん、連れ去られているときに、ナニかの濡れた身体に触って、自身も濡れたんだと思う。


びっくりして、抜き足差し足で昇降口までいくと、用務員さんに声をかけられた。

なぜ学校に戻ったか。何を見たか。なんで音を立てずに帰ろうとしたか。

洗いざらいぶちまけて、一緒にプールまでいったが、真緑の水面が風に揺れているだけで、何も発見することはできなかった。

両親にも話したけど、そんなことより宿題しろっていわれたのは覚えている。信じてくれなかったんだろうな。


でも。

不思議なことに、誰もいなくなってなんかなかったし、あの日、クラスに戻ったのは僕ひとりだったんだよね。

隣の先生に訊いても。

「三十人。風邪とかで休んでる生徒はいないから、これで全員だ」

担任も。

「欠席? いや、今日は全員来てるよ」

友達たちに尋ねても。

「いないヤツ? わからねぇよ、そんなの。それより遊ぼうぜ」


でも。

でも、ね。

「*&#$@君って、僕より先に教室に居たんなら、なんで僕に声かけてくれなかったんだろう?」


あれ?

僕、今なんていった?

なんか口走ったような気がするけど。

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