第2話



仁衛は自らの戸籍を確認する。

祓ヰ師を纏める組織、咒界連盟は日本政府と第二次世界大戦以降の関係だ。

咒界連盟から申請すれば、存在しない戸籍を作り上げる事は容易であった。

仁衛が渡されたそれは、霊山一族としての戸籍ではなく、まったく別の戸籍として用意されていた。

彼は、戸籍に記載された自らの苗字を呟く。


長峡ながお、ね」


それが、仁衛が追放され、祓ヰ師では無く一般人として生きる上で必要とされる名前だった。

長峡仁衛は祓ヰ師が魔を祓う上で必要な力『神胤じん』を持つが、術式に転用しなければ身体能力を強化する程度にしか流用出来ない。

だから、長峡仁衛は、一般人よりも身体能力が上回る程度の人間なのだ。


「向かう先は、あそこか」


長峡仁衛は、これからお世話になる人物の名前を手紙で確認する。

差出人の名前は、『黄金ヶ丘こがねがおか』と書かれてあった。

よく知っている名前だ。

幼少期の頃、長峡仁衛が虐待をされていた時、そのあまりにも惨い待遇からか、客人として来ていた黄金ヶ丘家の現当主が、一時期彼の身柄を預かった事がある。


その時の長峡仁衛はまだ幼少期であり、名状し難い恥辱と暴行による恐怖からか、その頃の記憶は薄れている。

それでも、その名前の人物にお世話になっていた事だけは、情報として知識に食い込まれていた。

何度も電車を乗り継いで、文明的な現代社会から、畑や森林と言った自然が見えて、十数秒ほどの暗闇、トンネルを抜けると、鮮やかな青が全面に広がる海原が見えた。


「凄いな」


長峡仁衛は景色に看取れて呟く。

バッグを肩に抱えると、目的の駅へと到着。

扉が開かれるので、長峡仁衛は出ようとすると、車掌が長峡仁衛を見ていた。

長峡仁衛はポケットから小銭を出すと、車掌の前に設置された機械に小銭を入れる。

そして長峡仁衛は外に出る。駅は誰も居ない。完全な無人駅だ。


「田舎だな」


長峡仁衛はそう呟きながら歩き出す。

この周辺にはタクシーすら止まっていない。

ただひたすら舗装されただけのアスファルトの道路を歩き続ける。

手紙と一緒に封入されていた地図を頼りに、長峡仁衛は黄金ヶ丘邸を目指す。

その間まったく車が通らない。ちらほらと民家が見えて、人も一人二人と歩いているが、若者ではなく高齢が多く、流行りの服とは程遠い衣服を身に纏っている。


そうして、駅から二時間掛けて長峡仁衛が歩き続けた時。

そこでようやく、黄金ヶ丘邸らしき屋敷を発見した。


「此処か…」


長峡仁衛は、屋敷を見て、微かに、記憶に掠る様なものを感じた。

幼少の頃に、この屋敷に足を運んだ事があると、思いを馳せたのだろう。

長峡仁衛は、早速、屋敷に入ろうとした。


収監所の外壁の様に高い金属の柵の隙間から屋敷を見る。

木々が生えた中庭が見える。

中庭には外車が通る為の車道が敷かれていて、その車道を目線で追うと、出入り口を見つける。

出入口前まで近づき、ベルを探すが、何処にも無い。

仕方が無いので、長峡仁衛は金属の扉を開いて中に入る。

山道付近に建てられた黄金ヶ丘邸は、緩やかな坂になっていた。

歩いて移動すると、屋敷に到達するまで数分は掛かる。

それ程までに、中庭は広かった。

長峡仁衛は道中、人に逢わないか、と考えながら歩き出す。

歩きながら、長峡仁衛は、記憶の片隅から、思い出していた。


幼少の頃に、この中庭で走り駆けていた。

その時には、自分以外にも、もう一人、幼い少女が居た事を思い出す。

自分の後ろを必死になって歩いて来る、可愛らしいお姫様の様な子供。

そんな事を考えていた時だった。


「なんだ、お前は」


そんな冷めた声が聞こえて来る。

長峡仁衛は声のする方に顔を向けた。

其処には、一人、女性が立っていた。

黒と白の二色が配色されたメイド服を着込んだ灰色の髪を腰元まで伸ばしている女性だ。

前髪は垂れているのだが、その頭部にはカチューシャが留めてある。

カチューシャには、薄い布地で出来たフェイスベールが敷かれている。

それで顔を隠しているのだろうが、布地が薄い為に女性の顔が見える。

赤い瞳をした、歯が鮫の様に尖っている整った容姿だった。


「あ、俺は」


自己紹介を始めようとした最中。

唐突に、彼女が戦闘態勢に入った事を長峡仁衛は理解する。

祓ヰ師には、神胤を放出する為の穴がある。

それは穴径と呼ばれ、神胤を放出する為の穴だ。

その穴は洞孔と呼ばれる経路があり、その経路を辿ると脊髄に到達する。

脊髄には、祓ヰ師が神胤を生成し、備蓄する為に必要な器官『臨核』が生えていた。


そのメイドは。

臨核から神胤を生成すると共に、洞孔に通して身体強化を行う。

神胤が体中に張り巡らされた洞孔に通されると、筋肉が神胤の巡りによって刺激されて身体能力が向上する。

更に神胤も一時的な筋肉繊維の様な働きを発揮して、通常の人間よりも上等な力を引き出す事が出来た。


しかし、それでも。

強化が施された祓ヰ師の体術は、通常の一般人の頭部を圧殺する程には強力な力を宿す。

その力を、惜しみもなく。

灰色のメイドは、灰色の男に向けて、猛禽類の様に五指を構えて突きを繰り出した。


その攻撃。

長峡仁衛は理解すると共に回避する。

人間の思考では一瞬で回避と言う選択肢から行動に移すその瞬間で、彼女の攻撃をその身に受ける事だろう。

祓ヰ師として訓練されている長峡仁衛にとっては、思考と共に行動が可能。

相手の攻撃を回避する事が出来る。


「なんだお前、同業か?」


メイドはそう言いながら指先を口元に近づける。

長峡仁衛は、バッグを背負い直しながら、敵対する意志は無いと両手を挙げた。


「待ってくれ、俺は」


同業はらいしなら、遠慮はいらねぇよな?」


穴径から更に神胤が放出される。

長峡仁衛は相手が術式を使用していようとした事を察した。

何か誤解をしている。

しかし、それを覆すには時間が足りない。

相手は、一秒よりも早く攻めて来ようとしていた。

長峡仁衛は、相手の攻撃を最小限に抑えるべく、神胤を放出して防御態勢に入ろうとした、その最中だった。


拍手が響く。

地面を穿つ様な連続した音ではない。

ただ一拍。

銃弾の様な甲高い発砲音の様な音だ。


それが手を叩いた音など、緊迫した状況下では夢にも思わない。

ただ、その音でメイドの動きが止まった。

だから、長峡仁衛も攻撃する事を止めて手を止めたのだ。

メイドはすぐさま戦闘態勢を解くと共に、屋敷の玄関口に向けて顔を向けて、頭を下げた。

先程の戦闘など無かったかの様に、優雅に、気品漂う垂直な姿勢のまま、腰を曲げて挨拶をする。


何も言わず、彼女の行動に、長峡仁衛は、ゆっくりと視線を彼女の方に向けた。

玄関前には、一人の少女が立っていた。

白のブラウスに長いスカートを履いた女性だ。

紫陽花の様な色が似合う、黒髪を団子の様に纏めて左右に二つ。

あまった髪の毛が団子から生えていて、地面に向かって垂れていた。

鋭い視線。誰一人、信用などしていないかの様な、冷たい視線だ。

長峡仁衛は、彼女の顔を見て、過去の記憶を蘇らせる。


微かに、彼女には、長峡仁衛の記憶の中に残された、この屋敷で遊んだ一人の少女の面影と重ねていた。

長峡仁衛は、確か、その少女の名前を思い浮かべる。

そして、確信する様に、彼女の名前を口に乗せた。


「…クインか?」


クイン。

長峡仁衛はそう言った。

黄金ヶ丘クイン。

それが、この黄金ヶ丘家の当主の嫡子に当たる女性の名前。

その名前を口にした事で、黄金ヶ丘クインは、眉をぴくりと動かした。

そして、玄関前の階段を歩いて降りると、それと共に長峡仁衛に言う。


「えぇ、私が、黄金ヶ丘クインです。貴方は一体、何処の誰なのでしょうか?」


冷たい言い方だった。

長峡仁衛は、それもそうかと思った。

彼女と共に遊んだことなど、遠い過去の話だ。

今更、知り合いなど、その様な関係でも無いだろう。

だから、長峡仁衛は自己紹介から始める事にした。


「あぁ、悪い…俺の名前は、長峡仁衛。えっと、今日から、此処でお世話になる事になってるんだけど」


長峡仁衛は、相手が自分の存在を承知しているかどうか聞く。

それを聞かされた黄金ヶ丘クインは、目を細めて咳払いをする。


「確かに、本日から、長峡仁衛と言う名前の方が来る事になっています、しかし、手紙には名前だけで、特にどの様な人間であるかはまるで分かりません」


と、彼女は言った。

そうなると、長峡仁衛が、霊山一族から買った長峡仁衛であるのかどうか分からない。

なので、黄金ヶ丘クインは、長峡仁衛に質問をすることにした。


「微かながら、長峡仁衛さんと遊んだ記憶はあります。貴方が本物であるのならば、記憶のすり合わせをすれば、己ずと本物である事は理解出来ましょう」


そう言った。

長峡仁衛は、自信が無かったが、それでも、なんとか答えなければならない。

でなければ、長峡仁衛は全く知らない土地に一人残されて生活をしなければならない。

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