第二話『青い実』

——ひぐらしの


 あの儚い音を聞いたのは、確か、中学一年生の夏休みだったと思う。私はまだ、世の中の恐ろしさというものをつゆ知らず、虫取りや、川遊びをして遊びほうけていた。一方欧州では、ヒトラー率いるナチスドイツの機甲部隊が、電撃戦によって快進撃を続け、瞬く間にポーランド、オランダ、ベルギーを降伏させる。ノルウェーも占領し、パリまでもが陥落、フランスは降伏した。イギリスも大陸から追われ、世界には暗雲が立ち込めていた。だが、その日私が見た空は、そんなことは嘘だと言わんばかりに青く、そして赤く、澄み渡っていた。

 はしゃぎ回って疲れた私は、ひと休みしようと、一人で広い畑にやって来た。

 なぜ、畑なのかと言うと……


 美味いトマトがあるのだ。


 私は、汗をかいて干からびそうな体を潤すために、他人の畑にこっそり忍び込んでトマトを盗み食いするのを、毎日の楽しみにしている悪ガキだった。

 農家のおっちゃんが近くにいないのを確認すると、私は、トマト畑に忍び込む。

 トマトの木は、大きければ五尺くらいの高さにはなるので、中学一年生の私の体は、ちょうどすっぽり隠れる。

 木の陰に身を潜めて、一番甘そうな、真っ赤に熟れたトマトを探す。

 この木は青い実が多いな……

 だが、こいつはまぁまぁ赤いぞ。

 いやでも、やっぱりちょっとヘタの周りが青い。

 もっといい個体はないだろうか……

 あ、あそこにあるのがいいぞ! 赤一色だ。

 私はその赤いやつに手を伸ばし、木の陰からちょろっとはみ出る。


「こぅらぁああああ!!!! お前かぁ! ウチのトマトを盜み食いしにきとるヤツはぁあああ!!!」

 農家のおっちゃんの怒鳴り声。


 ああ、見つかってしまった。


 目当ての真っ赤なトマトには手が届きそうにない。よし、今日はさっきの青っぽいので我慢するか。

 私は、目の前のヘタの周りが青いままのトマトを勢いよくもぎり取ると、家の方向へ、駆けた。

「おどれクソガキぃいいい!! 待てぇえええ!!!」

 農家のおっちゃんは、威勢よく叫びながら私を追いかけるのだが、あまり走りは速くないので、すぐに距離は開いた。

 私は走りながら、盗んだトマトに、むしゃり、とかじりつく。

 悪くないが……


 まだ青いな。


 でも、そこそこ美味いのは確かであるし、何よりこの夏の太陽の下で、溢れんばかりのみずみずしさのトマトに、我を忘れそうになりながらしゃぶりつくのは、最高の贅沢だ。そして最後の一口を飲み込むと、私は、吸血鬼が人の生き血をすする気持ちを、理解したような気になるのだった。


 私の夏休みは、いつも、こうだった。


〈第三話『赤い紙』に続く〉

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