Episode:5 三つのお願い part.6

 まったく、何なんだよこの展開……喬松は両手で頭を抱えた。


 ずぶ濡れの喬松を見つけたその女性は彼を見るなり、コンビニの軒下に誘導した。持っていたタオルで彼の頭と服を拭き、それから半ば強引に、コンビニの駐車場に停めてあった赤い車、その後部座席に彼を押し込んだ。

 その女性は、とにかく喬松にとっては、今最も気まずい相手だ。なぜなら女性は、よりによってつい昨日、喬松が一方的に怒らせ一方的に暴力を振るってしまったかつてのバンド仲間、その母親なのだ。何度も家に遊びに行ったことがあるし、ついでにそこの娘、元・バンド仲間の妹とも顔見知りだ。

 ほっといてください、帰るところなんです、……そう言いたかった。だが、そう主張する暇も与えないかのように、彼女のてきぱきとした行動に流されてしまった。

 とはいえ彼女のこの行動により、喬松が先程までの自分がいかに非常識で自己陶酔していたか考えるだけの冷静さを取り戻させたのも事実ではある。彼女にはその理由をどう説明するか、そもそも説明するかしないかという問題はあるが。


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 ゆったりとした車内には程よく暖房がかかり、車内のモニターには、この女性がこよなく愛する国民的人気バンドのライブ映像が流れている。

 彼女、眞北翠(まきた みどり)の話によると、助手席に座る中学二年生の娘、和碧(なごみ)の買い物のために市内中心部を訪れた帰りに、たまたま喬松を見つけたのだそうだ。

「いきなり慌てて喚き立てて大変だったんだよ、すぐに引き返してあげてって」

「だってママ! 本当に喬松さんヤバそうだったんですよ……」

 元・仲間の家族に対する負い目で頭が重いが、少なくとも二人がこうして自分を心配してくらたことには感謝している。親子の掛け合いの合間に、喬松ははっきりと、ありがとうございますと口にした。

 ただ、喬松は忘れていた。母親は元気なしっかり者なのだが、娘の方は少し、変わったところがあるのだ。

「だって今にも橋の上から、川に身を投げようとしてたから」

「…………えッ?」

「なごみ、このまま見捨てたら一生後悔するって思って……」

「ちょッ……なごみちゃん? ちょっと何言ってんのか全然わかんないんだけど⁉」

「違うんですか?」

「あ~、うん。違うよ。普通に家に帰って風呂入ってメシ喰って寝るつもりだったよ」

「宿題はしないんですか?」

「え、あぁ、……うん。やるよ。やりますよ」

「良かったです。喬松さんが死んじゃったり、先生に怒られたりしなくて」

 そこまで言ったあたりで、信号待ちにより停車。そのタイミングで和碧は母から、このあんぽんたんと小突かれ、あたッと声を上げた。

 どうやら土砂降りの中、傘も差さずにずぶ濡れでふらふらと歩く自分は、これから投身自殺を図ろうとしている風に、この少女の目には映ったようだ。

 ただ正直なところ、こうした予想の斜め上を行く勘違いも含めて、悪い気はしなかった。少なくとも声色や、バックミラーに映った潤んだ瞳から、真剣にこちらを案じているのは間違いないからだ。


 喬松が身投げする予定だったらしい一級河川に架かる橋を渡り、車は住宅地沿いの市道を西に進む。もう少しで、この親子の家と喬松の家との分岐に差し掛かるところだ。

「夕飯はどうするつもり?」

「えっと、家で食べます。すみません、その先の信号を真っ直ぐ————」

「そっか。じゃあ、ウチで食べていきなよ。お母さんに連絡入れておいて」

「えッ…………?」

 だが、またしても喬松が意思を伝えるより早く、この母親に先を行かれた。両親が忙しくて普段は独りで夕食を取っていることが多いこと、それはこの母親が喬松慧希について把握している情報の中でも、どうやらかなり大きいウェイトを占めていたようだ。

 車はウインカーをカチカチと鳴らし、MW高校方面に向かう道路へと左折した。


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 衣服の繊維の中で雨水と混じり合い淀んだ汗を、四十一度のシャワーで洗い流す。パイル生地の白いバスタオルに顔を埋めた後、癖っ毛の頭髪を掻き毟るように水分を拭い取る。何度もお邪魔した家ではあるが、こうして浴室を借りるのは初めてだ。

 ありがたいことに、最も雨水を受けたパーカーやジーンズ、それに下着や靴下に至るまで、着ていた服のすべてを洗濯してもらっている。更に緊急事態ということで、此処の住人である同級生の男子が着用している下着とジャージを一式、貸してもらってもいる。LLサイズの喬松に対してLサイズのため、どうしてもぴっちり感はあるものの、それでもなるべくゆったりと着用できるものを選んでくれたようだ。

 ここはMW高校からも徒歩圏内の住宅地にある、3LDKの家族向け集合住宅の三階。世帯主である眞北翠が、息子と娘と三人で暮らしている部屋だ。


「和碧? 喬松君にコーラ注いであげて」

「え? でもママ、コーラはおにぃちゃんのだから」

「いいの! お客さん優先!」

「でも食べ物の怨念は怖いっておにぃちゃんが」

「あのね和碧。雨の中震えてた子と、家族ほっぽり出してカラオケ行ってる奴と、どっちが大事? ねぇどっちが大事?」

 脱衣所からダイニングに戻ったところでキッチンから聞こえてきたのは、母と娘の寸劇。その様子についつい笑みを浮かべてしまった喬松を、二学年年下の少女はちょっと困った顔をしてテーブルに誘導。キンキンに冷えた未開封のボトルを開栓し、グラスに注いだ。

「ありがとう。なごみちゃんって、良い子なのな」

「ッッ……えぇっと、お世辞ですか?」

「いやいや、オレ嘘はつかない主義だし。……なんて、な」

 少女に対する感謝と同時に、無意識に吐いた言葉。正に嘘っぱちなのが情けなくなり、それを誤魔化すように、カラメルの甘味と炭酸の刺激をごくりと飲み干した。


 この日の夕食は、大蒜醬油を効かせた唐揚げ。小さめにぶつ切りにされた鶏肉は、白飯と一緒に口に放り込みやすいサイズで、喬松もお気に入り。眞北家の定番料理だ。

 キッチンでは和碧が喬松と自分の食事をトレーに置きながら、おにぃちゃんは宿題大丈夫なのかとか、喬松さんと違って成績悪いのを不安に思わないのかとか、盛大に兄をディスリスペクトし始めた。それを聞いた母の翠から、人のことはいいから自分のことを気にしなさいと、いかにも世の親が言いそうな常套句の反撃を受けていた。

「マキちゃ……和寿君、カラオケ行ってるんすね」

「そうそう。ビッグブラザー……私の弟の赫(あきら)と一緒にね。あの子、昨日から機嫌が最悪で、気晴らしにカラオケ行きたいってゴネるから、男二人で行かせてあげたのよ。今頃きっと、クレナイダーとかピンクスパイダーとか叫び散らしてるところじゃぁないかな」

「ははは、らしいなぁ……」

 呆れた様子の母親の言葉に、喬松は乾いた笑みで返した。


 当然といえば当然だが、この家にいれば必ず耳にするのは、眞北和寿という男の話題。それに加え、喬松がつい先日やらかしたこと、それらの重圧が、今更にどっと圧し掛かってきた。

 あぁそうか。悪いことをすればすべてはバレるし、謝らなくてはならない時って必ず来るものなのだろう。この家に来る流れになったのも最早運命、今が正に年貢の納め時なのだろう。

 ————盛り付けられた魅惑的な料理は、今は少し見ないふりをしようと、喬松は決心した。


「…………それ、オレのせいっす」

「えっ?」

 ちゃんと聞こえるぎりぎりの小声で、喬松はまず、きっかけの言葉を放った。その言葉に即、何かを察してくれた母親。今日は特別に部屋でご飯食べていなさい、それから宿題をしていなさいと娘に告げ、席を外すよう促した。

娘はきょとんとしながらも、素直に母親に従った。自分の料理を抱えてダイニングを出る少女にごめんねと謝ると、喬松は立ち上がって、翠に真っ直ぐ向かった。


「お母さんに、話があります」

「おっ、どうしたの? 何かな?」

「オレ……お母さんに謝らなくちゃぁいけないことがあります」

「えっ、……何?」

「昨日、オレ……和寿君に暴力を振るいました」

「ぇ…………今、何て……?」

「和寿君を、あなたの息子さんを殴りました。蹴りました。酷い言葉ぶつけて泣かせました。本当に、ごめんなさい…………」

「…………っ」


 深々と頭を下げた状態の喬松だったが、相手が呆然とし、受け入れがたい表情をしていることは分かった。大事な息子が暴力を振るわれたならば、当然の反応だろう。

 だがその一方で、どこか腑に落ちたような顔色も見せながら、翠は頭を抱え、少し何かを考えて、話し始めた。

「…………正直ね、あの子があんな顔をして帰ってくるのって、中学卒業して以来ずっと無かったのよ。だから、もしかしたらバンドで何かあったのかなとは思ってたんだけど……えぇっと、和寿が何かやっちゃったのかな?」

「いいえ。……全部、オレのせいです。単なるワガママでバンド辞めるって言ったオレを、和寿君は止めようとしてくれました。だけどオレ、そんな和寿君を殴って…………ごめんなさい、本当にすみませんでした……」

 喬松は、自分が一方的に悪いこと、何の言い訳もできないこと、いかなる罰も受けることを言葉にして伝えた。加えて、今の今までこの事実を隠し、風呂や洗濯、はたまたこれから食事の世話になろうとしていたことまで。俯きながら、過去約十六年間で一番長い謝罪をした。

「えぇっと、喬松君が理由もなしにそんなことするような子じゃぁないのは、私も分かってるつもりだよ。だから、何でそんなことをしたのか教えてくれる?」

「言い訳なんてできません。事実は変わりません。だからオレは何て言われてもいいし————」

 混乱を隠せないながらも真実を知ろうと歩み寄る翠に、喬松は自分が悪いの一点張りで返した。自分の罪を打ち明け謝罪したことで、ひどく卑屈な心持ちに陥っていた。

 だがこの喬松の言動が、翠の表情を変えた。

「……あのね喬松君。言い訳をする権利は、誰にだってあるよ。それに、私と和寿には全部を知る権利がある。だから、どうしてそんなことをしたのか、全部話しなさい。あなたにとって有利になるようなことも、逆に不利になるようなことも、全部ね」


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 雑音にしかならないテレビを消し、微かな雨音しか聞こえなくなったリビング。カーペットに敷かれた座布団の上に正座した喬松は、目の前に座る翠に促されるままに、まずは自分の家庭環境のことから話し始めた。

 中学進学後に両親が急に家庭を顧みなくなったことに始まり、その両親の不適切な行動の証拠を掴んでしまい、酷くドス黒い気持ちにさせられたことまで。いつもはそれなりに饒舌ではあるが、謝罪に慣れていない分、たどたどしく要領を得ない話し方だった。

 そうして喬松が話す間、翠は視線を逸らさず、じっと聞き入っていた。正に身内の恥であろう父親の不倫の下りは、キツいなら言わなくていいよとフォローしてくれたが、それでも喬松は証拠を掴んだ詳細を包み隠さず打ち明けた。

 続いては本題の、なぜ眞北への暴力に至ったのかの話題に進んだ。

「不倫相手の奴等を相手に滅茶苦茶起こしてやったら、きっと両親も恥かいて手を引いて足を洗って、オレのこと見てくれるんじゃぁないかって、そう考えてました。だけど騒ぎを起こしたら警察沙汰になるだろうし、たぶん和寿君やバンドの皆に迷惑かかるから、だから先に脱退してやろうって。そこまですりゃあ、バンドを犠牲にするんだから、きっと上手くいくって、親のことは当然解決するだろうって…………」

 けれどもそんな喬松に、眞北はしつこく喰い下がり、しかも彼が抱えていた本質をずばり言い当てた。

 約二十秒、喬松はこの場面を表現するための言葉を選ぶべく、施行する時間を取った。とにかく強調すべきは、自分に責任があるということだ。逆に省くべきは、眞北も攻撃しようとしたことだ。

「和寿君は悪くないんです…………、最後まで、オレを信じて止めようとしてくれました。すっごくいいヤツです、だからオレ、そんないいヤツから徹底的に嫌われなきゃって、それで……殴って、蹴って、…………それにすみません、お前は『言っちゃぁいけないあの人』にそっくりだって酷ェ暴言吐いて……本当にすみません……」

 暴力に関する場面が耳に入るや、翠が顔を顰めたのが分かった。とりわけ、眞北の元・父親である人物のことは、目の前の女性にとっても辛いものがあるだろう。つい、すみませんという言葉を何度も挟んでしまうが、それでも、いいよ続けてという翠の言葉に、とても強い何かを感じた。


 それから喬松は、今日この日の自身の行動について話すこととなった。

一か所目に訪れた場所は、きっと母親の大事な居場所で、そこにいる人達を疑いながらも、憎み切り責め立てることができなかった。法を破るつもりで突撃したはずなのに、決定的な一歩が踏み出せなかった。そればかりか、なぜかバンドでの楽しかった思い出がチラついてしまう。そんな、考えるのが嫌になるくらい落ち着かない状態で訪れた二か所目で、父親の不倫相手、自分とはまるで解り合えない生物に心を折られてしまった。

「バンドに迷惑かけないために迷惑かけて、その上、和寿君みたいないいヤツを殴って蹴って罵倒して、その結果、得られた成果があんな誠意の欠片もない言葉なのかよって! しかも父さんはともかく、母さんも、オレまでバカにされてッ! でもオレ、そんな最低なヤツに結局何もぶちかませなくて……!」

 爬虫類のような昆虫のような女の笑顔が頭を過った。感情が突沸して、静かな空間に何度か音圧が響いた。深呼吸を二回繰り返し、どうにか気持ちを鎮めた。

「その後、ぶらぶらしてたら、和碧ちゃんが見つけてくれて…………以上、です。本当に、本当にすみませんでした」

 最後は深く深く、カーペットに額を擦り付けるかたちで、土下座。人生で初めてだが、相手から促されるまでは決して頭を上げてはならないことだけは分かっている。五秒、十秒、十五秒。『まだかよ』という気持ちは欠片も抱いてはならない。二十秒、三十秒、沈黙の時間が続いた。


「…………顔を上げなさい」

 静寂を切り裂いたのは、翠の声だった。誰がどう聞いても、怒りを示しているトーンだ。同時に、絶対に逆らってはならない指示だ。喬松は素直にゆっくりと頭を上げ、少し伏し目がちに、相手へと向き直った。

「本当、バカなことをする子だよッ!」

 瞬間、翠はカッと目を開き、喬松を一喝した。その場から踏み出して一気に距離を詰め寄り、ビクッとひるんだ喬松の両肩を、バンバンと両掌で叩いた。

「そんでもって、とっても優しい子だ……とっても家族思いの子だよ……」

 それから膝立ちの姿勢で、背の高い彼の首に両腕を回し、ぎゅうっと抱き締めた。

「……ずうっと我慢してたのが、とうとう限界に来ちゃったんだね。大好きなご両親に裏切られた気持ちにさせられて、どうしていいか分かんなくて、だけどせめてご両親だけでも取り返そうって、自棄になっちゃんたんだよね……」

 さらに、喬松の左耳に優しく語りかけ、左手で洗い晒しの髪をわしゃわしゃと撫で、右手で背中をとんとんと叩いた。

 高校生にもなって子供のようにあやされる気恥ずかしさよりも先に、自分よりずっと小柄な大人の女性のぬくもりと包容力に、喬松はなすがままになってしまった。ひたすら、純粋にあったかいと感じた。

「違うんです……結局オレ、自分に酔ってただけなんですッ! 家族が崩壊してカワイソーでしょオレ、家族を取り戻すためにバンド抜けるなんてカワイソーでしょオレ、それだけなんです! でも結局、中途半端な行動で終わっちまった。バンドは辞めたはずなのに未練たらたらで……それであんな風に、カワイソーなオレには雨が似合うだろって、傘も差さねぇで……」

 自分の気持ちを受け入れてくれた存在に身を委ねることで、何もかもが融けていくのを感じた。涙が零れ顔がくしゃくしゃになり、鼻水まで溢れてきた。けれども悪いのは自分だ。そんな自分に歩み寄ってくれる言葉は、受け入れがたいものがある。だから否定した。自虐に走る言葉を吐き出した。


「ねぇ、喬松君はこれからどうしたいの?」

 だが、喬松の耳元で囁かれた、翠の言葉。こちらの卑屈な心を見透かしているように、核心を突かれているように、喬松には思えた。

 ————バンド、続けたい。両親ともまた仲良くしたい。

「それでいいんだよ! 両方取っちゃえばいいじゃぁないの! バンドも、家族も、何なら自分のことだって、全部きっちり大事にすればいいじゃぁないのよッ!」

 吐息と共に流出した言葉、すぐに壊れて風に飛ばされてしまいそうな言葉を、翠は拾ってくれた。尊重してくれた。

 ————でも、もう脱退してしまった。家族だって、オレのやったことでどうなるかわからない。

 受け止めてもらえた本音は、しかし叶えてはならない願いのような気がした。だから自分から否定しようとしたのだが、彼女は喬松が諦めて行動を止めることを、許さなかった。

「まだ取り戻せるよ! 和寿にも、皆にも、これからきちんと謝って、また入れてもらえるよう頼もうよ。それに、ご両親にもワガママ言っちゃいなよ。もっと一緒にいたい、一緒にあれやりたいこれやりたいってさぁ!」

 行動方針。困難に直面した人間にとって、時にそれは何よりの救いとなる。

 翠が示したのはごく簡単な内容だ。こう言ってもらって何だが、彼女の言葉に従ったところで上手くいく保証もない。その上で、それでも今より遥かにマシにはなると、喬松は考えた。

「ありがとうございます……お母さん、…………本当に、本当に……ッ……」

 喬松は、ここで涙をすべて出し切ることを決めた。後悔と感謝と喜びと、色々綯い交ぜにして感情を昂らせながら、可能な限りありがとうと伝えた。

 傷付けてしまった友達、その母親を抱き締め返したかったが、そこはやはりできなかった。そんな資格はないから。だけれども、こうして彼女がくれた無償のやさしさ。かなりの遠回りをした気分だが、自分がまず欲しかったのはこれだったのではないかと思えた。


「よしっ、じゃあまずはご飯食べようか。温めなおすからちょっと待っててね」

「……はい、ありがとうございます」

 何度嗚咽を繰り返しただろうか。喬松が感情をすべて出し尽くしたあたりで、気付きのよい翠が、ぽんぽんと頭を叩いてきた。

 それこそ正義のヒーローという概念を知る事の未就学児のように、わんわんと泣いてみっともない自分を曝け出したことに、今更こっ恥ずかしくなったが、それもまた自分だと受け入れることにした。あと、空腹だったのを思い出した。


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 ノンフライヤーで再度温められた唐揚げをあらかた食べ終わったあたりで、おかわりはどうかと翠が聞いてきた。本音ではまだ食べられそうな、いやまだ食べたい喬松だったが、そこは満足ですありがとうございますと遠慮し、合掌してごちそうさまでしたと感謝を示した。


 食事をいただいた者の礼儀として、食器をキッチンに戻した喬松だったが、そこで真面目な顔をした翠に話しかけられた。

「さてと、さっきの話の続きがあるんだけど、いいかな?」

「はい……何でしょう?」

「私個人としては、喬松君のことは許してもいいのかなって思ってる。だけどね、あの子の親としては、息子に暴力振るったことのケジメは、し~っかり付けてもらいたいんだよね」

 ————なるほど、ここでそのような展開か。喬松の背筋は強張った。

「いい加減そろそろあの子も帰ってくるだろうから、それまでここで待ってなさい。私も立ち会うから、もう一度あの子に謝って、それからちゃんと、喬松君の話をしてあげて」

 そう、成り行きとはいえこの家に来た以上、やはり眞北和寿との直接対面は、絶対に避けられない。とはいっても、先ほど自分からどんな罰も受け入れると宣言したし、翠の言うことに従う以外の選択肢はない。

それに、気持ちはだいぶ落ち着いている。眞北本人に許してもらえるかどうかはさておき、とにかく自分には、謝罪してすべてを話す義務がある。

「……分かりました。すみませんが、ここで和寿君を待たせてもらいます」

「拘束しちゃってごめんね。あ、コーラおかわりしてね」

 翠は申し訳なさそうな顔をしながら、スマホを手にし、リビングを出ていった。


 しばらくしてリビングに戻ってきた翠は、息子と少し通話をしていたと話した。喬松の予想通り、その会話は、自分が今ここに来ていることを伝える内容だった。

「今ちょうどカラオケを出たみたい。もう少ししたら帰ってくるはずだよ。それと美純君もこっちに来るんだって。あと二十分くらいかな」

「えぇッ……?」

 予想少し斜め上の展開だ。自分が傷付けた相手は眞北家の人々だけではない。その当事者の一人、バンド仲間も来るというのだ。

 だが何でもポジティブに考えよう。話をする場に参加する当事者は多い方が、痛みを伴うリスクこそあれ、何かが進展する可能性も高いのだと。


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 喬松が夕食を終えてしばらく経った八時過ぎ。玄関がガチャリと開くが早いか、リビングにずかずかと駆け寄る足音。それからバァーンとか何かそんな感じの擬音と共にドアを開け、眞北和寿が姿を現した。

「マキちゃん、あのさぁ————」

「タカっ! 全部ワザと嫌われるためだったんだなッ⁉」

「えっ、あ……おぉ。その、ごめ————」

「バンド辞めるってのは嘘なんだなッ⁉」

「っと、うん……そのことなんだけどよ————」

「俺様が弗逗(ドルズ)に似てるってのも嘘なんだなッ⁉」

「あ、うん。そうでも言わなきゃぁ————」

「よかったァッー! いやもう心底よかったッ! タカ、お前も辛かったんだなぁ!」

 喬松はすぐに立ち上がり深々と頭を下げようとしたのだが、それよりも眞北が喬松の両肩をがしっと掴む方が早かった。明らかに、喬松が自宅に来たという事実だけで物事を都合よく解釈していた。一方的に質問攻めをし、こちらの回答を最後まで聞かずに勝手に盛り上がり、さらにこちらを勝手に許すつもりでいた。

 だが当然、眞北和寿君への謝罪、及び和解はこれにて終了めでたしめでたし、というワケにはいかない。何事も順番、過程というものがあるのだ。

「…………つーかさ、マキちゃん。お前に非常にご迷惑おかけした立場でこんなこと言うの申し訳ないんだけど、まずは話、させてくれねぇか?」

「そうだよ和寿。このあんぽんたん! 美純君もドン引きしてるじゃぁないの!」

「アッー!」

 眞北の脳天をぴしゃりとお叱りする、翠の鋭い一撃。その後ろから、無表情ながらもそわそわした様子を隠せない美純と、少し強面の男性が姿を見せた。

「……何かすまねぇなよっすぃー、わざわざ来てもらって」

「別に、構わない」

「どうも赫さん、本当すみません……」

「お疲れさん。暇だったらお前もカラオケ呼びたかったけど、……詳しいことは知らんが、そんな状況じゃぁないみたいだな」

 アニソンイベント等の遠征時や、これまで眞北家に遊びに行った中で世話になった、眞北の叔父・赫に頭を下げた喬松。その後は翠の誘導に従い、眞北と美純と向かい合わせのかたちで、座布団に座った。

 なお翠の方から、叔父にはこれから込み入った話をするからと帰ってもらい、自室での食事を終えた和碧には、入浴して宿題を終わらせるよう命じた。


「えっと……最初に。今回のことで、二人にもすごく迷惑かけました。特にマキちゃ……和寿君には暴力振るったし、よっすぃ……美純君にも酷いこと言ったし。本当にごめんなさい……」

 何よりもまずは謝罪の言葉だ。政治家の大半が有している、俺は悪くねぇと言い切る才能などここでは不要。それに、小学校までは親の教育が良かった自覚がある。時と場所に応じた振る舞いがどういうものかは、普段はいい加減な喬松も把握している。

 それから、喬松はこれまでの経緯を、今度は眞北と美純相手に説明した。心の内を眞北の母に理解してもらったこと、眞北がフライングでこちらを許す姿勢を見せてくれたこともあり、先程と違って泣きそうにはならない。だからこそ、丁寧に説明するよう心掛けた。

 空気の読めないタチである眞北も、寡黙な美純も、喬松の話に時折顔を顰めながらも、黙って耳を傾けていた。そして一通り話が終わったあたりで、立会人である眞北の母が、喬松に質問した。

「じゃあ、喬松君はこれからどうしたいのかな?」

「……はい。オレ、バンドに戻りたい、です。ライブ、『DAYBREAK,S HELL』にも皆と一緒に出演したいし、だからどうか、二人には復帰を許してほしい」

 呟いたとかやっとこさ声を出したとかではなく、今度ははっきりと言葉にした。それから深く、二人に頭を下げた。


「そうか! いいぞ! 許すッ!」

 眞北は即答した。正確には喬松が話し終えてから十秒くらい沈黙していたのだが、その後の気持ちいいくらいの言い切りは、典型的な即答だった。

 しかし、そこに母親の翠が言葉を挟んできた。

「和寿は、それでいいの?」

「当たり前だッ! タカはわざわざこうして家に来て、しっかり謝って、理由を説明してくれた。それにまたバンドに戻ってくれるんなら、何も文句はねぇ!」

 良くも悪くも自分の気持ちに正直な眞北は、親から慎重に考えるよう促された程度では意見は変えない。そんな息子に、母親はさらに畳み掛けてきた。

「本当に? あんたはそれで許せるの? 自分を殴って蹴って、暴言まで吐いた相手と、本当にまた上手くやっていけるの?」

 これが親としての本当の気持ちか…………親子の会話を追っていた喬松は、眞北の母に畏れ入った。先程の彼女はこちらの気持ちに寄り添ってくれたが、それはそれ。彼女にとってまず優先されるべきは、被害を受けた息子であるべきなのだから。

「当然だろッ! だってよマミー、一番辛かったのはコイツだろ? 家族のことで本当に悩んでたんだ。それで追い詰められて自棄になって……だから俺様のことはいいんだ。こんな良いヤツが酷い目に遭うって方が俺様は許せねぇッ!」

 それでも眞北は、自身を案じる母の言葉を一喝した。先程の母親同様、自分を案じてくれた。あぁ、親子なんだなぁ。涙はすべて流したはずなのだが、ここに来て喬松はまた泣きそうになった————のだが。

「だいたい、最初に殴りかかったのは俺様の方だッ! コイツはそれを避けてカウンターしただけ。正当防衛だッッ! 確かに殴ろうとしたきっかけはタカの暴言だったけどよぉ、攻撃が成功しなかっただけで、俺様が先に殴ろうとしたんだッ!」

「ぇ……エェー…………」

 喬松の目頭を熱くした涙が、止まってしまった。逆に唖然となり頭を抱えてしまった。

 翠に説明したとき、あくまで悪いのは自分だという思いから、眞北の攻撃の下りはばっさりカットしたのだが、当の眞北はそのカットした部分をしっかり全部拾い上げてしまった。喬松自身は眞北に、純粋な被害者として振舞ってほしかったのだが、それを良しとする男ではないことをすっかり忘れていた。一方的な虐めでもない限り、喧嘩両成敗が理想だと思っているようなヤツなのだ。迂闊だった。

「えーっと……喬松君? もう一度、できるだけ詳しく、月曜の放課後の下りを話してもらってもいいかな? 自分が全部の罪を背負おうとか、そんな思いやりはいらないから。一切」

 少し呆れた、でも妙にニヤリとした顔色を浮かべて、翠は再度説明を求めた。喬松はそれに粛々と従った。

 結局、喬松が眞北にしでかした行いは、被害者側が許した上で、これからを見守るという決着に至った。眞北自身は、人生で唯一まともに読んだ小説……友との約束のためにひた走る青年のストーリー、そのラストシーンのように、これから互いを一発ずつ殴り合おうと提案したが、母親からのどつきを喰らい、その提案を取り下げた。


 こうして眞北家との決着はついたが、まだ他の部員との問題もある。翠は今度は、ここまで状況が読み込めずに目を伏せていた美純に話しかけ、意見を促した。

「はい、では俺からも。えっと……俺がタカさんから受けた言葉だが、かなり図星を突かれたと感じたし、あれはタカさんが本心で言ったのだと思ったが、……どうなのだろうか?」

「あぁ……よっすぃーのはさ、どっかの知識人気取りのバカがエックスでほざいてたポストの受け売り。本当そんだけ」

 SNSで偶然見かけた、日々堅実に働くサラリーマンや公務員を、ただ流されて生きているだけでクリエイティブさに欠ける、自分で価値を生み出せない存在だと侮辱する言葉。ムカついた投稿ではあったが、生真面目で勤勉な美純の反感を得るには適しているのではないかと、敢えて使ったことを打ち明けた。

「よっすぃーみてぇに真面目なヤツは、幸せになってほしいってのは、マジで思ってる。だから逆にあの時…………ごめん」

「そうだったか…………」

 美純への言動も、弱みに付け込むようで卑怯な手段だったと、喬松は恥ずかしくなった。頭をカーペットに擦り付けるような謝罪の姿勢。彼の気持ちは、美純にも伝わった様子だ。許そう、その小さな一言が喬松の耳に届いた。

「では……優子さんが一番怖かった、というのは?」

「あぁ~……それは単に会話する機会があんまりなかっただけ。それを誇張して大袈裟に言っちまった」

 ちなみに。優子をはじめ女子メンバーにかけた言葉も、わざと不快にさせて自分を嫌ってもらおうと、その場の勢いで吐き捨てたものでしかないと、強めに主張した。


「よし、じゃぁまとめると……これから喬松君は、女子にもきちんと謝ってバンド復帰を願い出る、これからはバンドの仲間を大事にする、ご家族ともきちんと話をする。喬松君も、美純君も、和寿も、それでいいね?」

 これ以上、話に時間をかけても最早結論は覆らないと判断したのだろう。ここまで男子高校生三人の話し合いを取り持ってきた大人世代の女性・翠の導きによって、結論フェイズへと進行。これにて、喬松の諸問題について、PRAYSE男子サイドの合意が形成された。


 翠やその息子にとって、夕食はこれからになる。さすがに長居をするわけにはいかないと、喬松は美純と視線を合わせ、帰ります、お邪魔しましたと申し出た。なお、洗濯してもらった喬松の衣類は、また後日喬松自身が引き取りに行くことになった。借用している眞北の服一式も、そのときに洗濯して返す予定だ。


♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪


時刻は九時過ぎ。M県の青少年育成条例により、未成年の徘徊が禁止される時刻が近付く夜間。徒歩で帰ろうとする喬松と美純を案じて、翠が車を出してくれた。勿論、眞北もそれに付いてきた。

 雨は既に止んでいた。まずは近場である美純を先に学生寮で下ろしてお別れ。それから喬松の家へと向かう流れだ。

 幸いと言うべきか、喬松家の灯りは点いていない。家の門の前で降車した喬松は、あまりに世話になりすぎた二人に、九十度を超える角度で深々と頭を下げ、見送った。車が発進し、テールランプが見えなくなるまで、その場を動かなかった。


 鍵を開けて必要な部屋の点灯をした喬松は、再度シャワーだけ浴びて水分補給と歯磨き。眞北の妹から指摘されたとおり最低限の宿題をし、就寝することにした。

 ベッドに寝転がりスマホを開いてみると、メッセージアプリに眞北から、人気ロボットアニメのスタンプが届いていた。何度かスタンプの応酬を繰り広げたが、そこでまだまだ話し足りないと感じてしまい、喬松は眞北、それに美純も誘って、夜の通話を申し込んだ。


「まぁ資産家の屋敷のオバハンは情状酌量の余地があるとしてだ。そのテリナキューはマジで糞女だなぁ! バグにも劣る害悪女じゃぁねぇかッ! ニナ豚とかカテ公の方がま~だ可愛げがあるぜッッ」

「女性を品定めすることは原則として避けたいが、しかし今回は筆舌に尽し難く捨て置けない話だ。そもそも遊びでウコチャヌプコロに耽るにしても、そこには必ず相手への礼節があって然るべき。敢えて汚い言葉を使わせてもらうならば、その人間の言動は性加害も同然」

「……やらかした俺が言うことじゃぁないかもだし、ウチの親だって悪いのは確かだけどよ。あの女の態度はないわ絶対。あ~、ますますえっちなゲームの地雷ジャンルが増えるわ。不倫モノとか凌辱とか本当ダメになるし。マジ男女関係って怖ぇ~」

 野郎三人の電話会合。メインとなったのは、眞北家での説明では深く話せなかった、父親の不倫相手に対する怒りだ。

 空気の読めない眞北も、さすがに自分の家では、酷い女だという言葉を吐いたのみだった。だが、友人の尊厳を穢された怒りはそんな簡単な言葉では済まなかったようで、母親の前では不可能な言葉遣いで責め立てた。美純も同様の不快感を露にし、現実は漫画アプリの広告よりも醜いと呟いた。

「果たして、名誉棄損、あるいは青少年育成条例で訴えることができないものか……」

「あー、実はICレコーダーでこっそり録音してたんだわ。ちゃんとクラウドにもバックアップ取った。二度と聞きたくねぇけど、後で何か役に立つかもしれねぇし」

「流石タカっ! 我が同胞ながら恐ろしい漢よのぉ!」

「素晴らしい。そういえばタカさんのお母さんは弁護士さんだったか……詰んだな」

「さらばテリナキュー、震えて眠れッッ」

「確かに詰んでんな……ははっ、何か気が楽になったわ」

 憎悪する相手は実は、極めて不利な状況にいる、そのことに腰が抜けるような安心感を覚えた。それに、あまり褒められたことではないだろうが、自身が抱いた怒りに誰かが共感してくれるのは、やはり嬉しいものだ。喬松は笑って、二人にありがとな、と口にした。


 通話は三十分程度続いたが、三人の中で最も規則正しい生活リズムの美純が宿題と眠気を訴えたところでは閉会。二人におやすみと告げ、喬松も毛布と布団を肩まで被り、今度こそ就寝することにした。

 うとうとしながら時計を見ると午前一時過ぎ。車のエンジン音の後、玄関をガチャリと開く音がした。音の癖からして、恐らく母親だろう。喬松はそのまま黙って寝ることにした。

眞北の母から言われたとおり、両親と向き合う必要は当然ある。だがそれよりも、男共のトークですっかり忘れていたが、明日の女子サイドに対する説明がまず先だ。それに夜は話し合いには向かない時間だというし、そもそもこれ以上夜更かしするには、今日は色々あり過ぎた。

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