Episode:5 三つのお願い part.5

 大通りに位置する地方大手インフラ企業のM市支店。その裏手で、喬松はある人物を待ち構えていた。

 名前は知らないが、スマホでの隠し撮りでどんな見た目かは把握している。撮影時に変装とかしていない限りは、見逃さない自信があった。

 午後五時を僅か五分回ったあたりで、その人物は裏門から出てきた。覚悟はできている。挙動不審にならないよう落ち着いた態度を作り、足早にその人物の元へと足を進めた。


「すみません。オレ、喬松杜汰(たかまつ もりた)の息子です。あなたに話があります」

 単刀直入に話を切り出した。当然、相手は怪訝な顔をして、そんな人知りませんとその場を立ち去ろうとするも、喬松は更に続けた。

「あなたと父の関係を知ってます。写真も撮ってます。話、聞いてくれますよね?」

「……そこに公園があるから、少し話を聞こうか」

 喬松の言葉は相手の核心に触れたようだ。そこまで言われれば無視はできないと悟ったのか、相手はすぐ近くの緑のある場所を指差した。


 芝生の周りにブランコや滑り台、東屋が設置された、典型的な市街地の公園。陽が落ちた冬の夕方なだけに、人影は見かけない。ひとまず東屋の辺りに移動すると、相手が口を開いた。

「それで、話ってのは何?」

 喬松が呼び出したのは、ヘルメットのような髪型に主張の強い眼鏡をかけた、三十歳前後と思しき女だった。

 表情に乏しい顔立ちは、蟷螂とか矢毒蛙を連想させた。人それぞれの魅力があるとはいえ、喬松にとってはひたすらに冷たく、取っ付きにくそうな印象しか受けない。だがまぁ、彼女の人となりは二の次だ。喬松は本題を切り出すことにした。


「はっきり言います。もう父と関わらないでください。脅迫とかするつもりはありません。オレの要求はそれだけっす」

「なるほどね、わかったよ」

 本当は下げたくない頭を下げ、要求を突き付けた。すると女はいやにあっさりと首を縦に振り、聞き入れた態度を見せた。

「私もそろそろ潮時かもねって考えてた。こうしてバレたワケだし、この辺で手を切った方がいいのかもね」

 ————えっ……それだけ? ごめんなさい、とかは?

 そう、女の言葉に、既婚男性と関係を持ったことへの反省の念は見られなかった。当然それは、喬松の神経を逆撫でする言動。だがならばどうする。こちらの要求を受け入れたのだからそれで良しとするか。お前の態度が気に食わぬと遺憾の意を示すか。思考判断のために言葉に詰まった無言の時間、そこに女が割り込んできた。

「息子の君だから敢えて言うけど、正直、つまらない相手だったし。不倫なんてしていながら人並みに後悔してるのが見え見えだったし。あぁいう自分のクズさに無自覚な人間って何なんだろうね。ま、私も結構なクズなんだけど」

 ————この女は何を言っているんだ? そりゃ確かに父さんのやったことはクズ行為だよ。幻滅したよ。絶望したよ。けどそれをあんたが言う? あと自分をクズと認識していたらそれだけで上等な人間なのか?

「それにあの人の妻も、自分の夫なんてどうでもいいんだろうね。だから夫の変化なんて気付かない。無関心。これで例えば慰謝料請求してきたら、自分の責任感じないでどの口がって思うわ」

 ————え? 何でそこで母さんのことまで悪く言うんだ? しかも単なる憶測で?

「ね、恋愛とか愛情なんてそんなものなのよ。結婚した夫婦だってこうなってしまうものなの」

 ————あぁ知ってるよ。SNSでもドラマでも、毎日誰かが言ってるよ。きっと正論なんだろうよ。だけどわざわざ上から目線で言うことか? 単に説教したいだけか?

「そうだ。この後暇じゃない? 知ってるよ、どうせ両親も遅くまで帰ってきやしないんでしょう? だから少し遊ばない?」

 ————今、何て言った? あんたが小馬鹿にした人間の息子に何を言った?

「単刀直入に言おうか。今から私とホテルに行こう。SEXしようよ」

 ————はぁ?

「たかがSEX、一度経験してしまえば見えてくるものがあるかもよ。少なくとも恋愛に夢見がちでいるよりは、現実を知った方が絶対余裕が出てくるし。結局大なり小なり人間皆クズ、開き直って気楽に生きる方が良くない? だいたい、家族思いの良い子ぶってお父さんの不倫を暴露するよりもさ、いっそお父さんと共犯者になっちゃう方が、大事な家族を崩壊させる確率は遥かに低いだろうし。それにお父さんとお互いに罪を打ち明け合うのも楽しいかもしれないよ」

————。


 あぁそうか。この女は、オレとは決して分かり合えない生物だ。考え方が違う。常識が違う。倫理観が違う。何を哀しみ何に怒るか、そんな心理の動きが違う。だから終わりにしよう、こんな生物と関わるのは。害ばかりで利がない。

 この女は先程、潮時だとぬかした。ならばオレにとっての潮時は、今この時だ。オレは要求を伝え、それは相手に聞き入れられた。その先を求めてはいけない。どうせこちらの気持ちも、感情も、叶えたいことの本質も伝わりはしない。だからできることはせいぜい、念押し、ダメ押しだけだ。


「………………いいか。もう一度言いますよ。二度と親父に会うな。家族を侮辱するな。それだけ、です…………ッッ」

「……そう。分かった」

 顔と態度で威圧しようとする喬松に対し、女は呆れた様子でそれだけ呟き、背を向けてその場を立ち去った。流石に騒ぎになるのはマズいと判断したのだろうが、特に急ぐでもない歩行速度で、無防備な背中を晒していた。自分より遥かに体格のよい男子高校生の存在など、まるで脅威ではないと言いたげに。

「二度と関わるなよッッ!」

 そんな態度がまたも喬松を怒らせた。だから三度目を叫んだ。それでも『糞女が……』という続きの言葉は、どうにか噛み殺した。吐いてしまえば、こちらが負け犬に思われそうだから。

 そんな喬松の遠吠えに女は一切反応せず、街灯に照らされた角を曲がり、消えていった。


 呆けた表情で喬松は、パーカーの内ポケットを弄り、小さな電子機器を取り出し、スイッチをオフにした。午前中の資産家の家でもそうだったのだが、相手と対峙する際、懐に忍ばせたICレコーダーで、会話をすべて録音していた。操作ミスはしていない筈だ。

意思は伝える。暴力は振るわない。証拠は取る。高校生としては大した行動力だろう。だが、徹底的なまでのこの行動で、オレは何を得たというのか。こんな嫌な気持ちになるためにオレは……録音の確認をする気にはなれないし、やり遂げた実感もなかった。


 脳天に何かが落下したのを感じた。ひとつ、またひとつ、いや無数に。大粒の雨だ。すぐに強くなりそうなタイプの。


♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪


 時刻は六時前。轟轟とどこまでも響き渡る雨音に支配されたM市街地。これが寒い地域であれば大雪なのだろうが、南国M県の冬はたまに、こうした風情の感じられない雨雲に覆われることがある。

 それにしても土砂降りだ。喬松の自転車は大型商業ビル横の駐輪場に停めてあるが、それよりもどこかで雨脚が弱まるのを待ちつつ、自宅近くを通るバスを探すのが賢明だろう。最悪、タクシーを利用するだけの所持金もあるし、自転車にこだわる必要はない。

 ————いや、それよりもっといい方法がある。

 喬松は考えた。今の自分にはこの帰り方がお似合いだ。高い曇天を見上げ、散歩する程度のスピードで歩み出した。


 南北に延びるM市最大の大通り、その歩道に設けられた雨除けの屋根。誰もが突然の大雨から逃れようと駆け込んでいるが、ここまで三百メートル弱の距離を、わざとゆっくりのスピードで傘を差さずに歩いてきたヤツ以上に濡れている者はいない。

「~~~~…………♪」

 誰よりもその身に降雨を溜めた喬松は、人口密度の高い雨除けの屋根に入るなり、迷惑にならない程度の小声で鼻歌を口ずさみ始めた。

 それは、今なお音楽シーンに影響力を持つ往年のロックバンド、その中でも特に人気のバラード曲。歌詞を額面通りに受け取るならば、失恋の傷を止まない雨に例えた内容の楽曲だ。

「…………~~~~♪」

 あまりにもベタすぎるナンバーを歌いながら、南へふらふらと歩く。そんな喬松に誰も近寄ろうとしない。怪訝な目で見てはいるが、かといってお節介を焼く価値もないのだろう。

 それでいい。群衆の皆さん、あんたたちは間違っちゃぁいない。むしろそうした空気がたまらない。手を差し伸べるなんてしてくれるな。どうよオレの姿は? 惨めだろ? 憐れんでくれよ。でもこのまんまでいたいんだよ。哀しいときは哀しいままでいいって誰かが言ってた気がするアレだよ。大事なモノを捨てれば何か取り戻せるかもしれないと滅茶苦茶やるつもりで、でもどっかでブレーキがかかって、結局何の成果も得られませんでした、そんなオレには蔑みをオブラートに包んで作った憐れみだけをくれよ。てめぇ自身をケアする方法なら、この後帰ればいくらでもあるからさ。

 …………喬松は、すっかり自分に陶酔していた。歩道沿いのウィンドウに飾られたハイブランドのファッションや宝飾品よりも、仕事帰りの人々を誘惑するグルメやスイーツよりも、今の彼にとっては情けない自分自身を追い込み、嘲笑し、かつ可哀想だねぇヨシヨシと慰める行為こそが、何よりも救いだった。


 雨除けの屋根は信号三つ分で終わり。その先は天の恵みを遮るものは何もない。

 雨は少し弱まったが、まだまだ長時間降り続きそうだ。迷うことなく、喬松はその先へと歩みを進めた。もう一度、止まない雨の歌を歌い始めた。目頭が熱くなり。雨とはまだ別の水が漏れ出すのが、妙に笑えてきた。

 衣服に浸み込んだ水分が体温を奪い身体が震える。帰ったら風邪をひくかもしれない。だけど気にすることはない。今朝、学校に連絡した病欠が本当になり、その日数が延びるだけだ。

 

 いくつかの信号と横断歩道を通過した。もう少し、あと二キロメートルくらいの距離を、冬の雨という悦に浸りながら南へと歩こう。市役所前の大きな橋を渡って、その先にある商業施設からバスに乗って帰ろう。それで今日は終わりだ。

 橋の手前にある交差点を越えると、ホテルの一階に設置されたコンビニが目に入った。少しの空腹と喉の渇きを覚えたが、それよりもまだ、惨めな自分という悦に浸る方が大事だ。何かを買うにしてもバス乗り場の手前だと考え、そのまま橋へと歩みを進めようとした。


「喬松君? 喬松君じゃぁないの? どうしたの一体⁉」

「————ッ⁉」

 突然、背後から誰かが自分の名前を呼んだ。それとほぼ同時に、ずっと顔面にぶつかっていた雨粒が何かに遮られた。

 振り返るとそこには、傘を差した二人の人物がいた。少し癖のあるショートヘアの女性と、カントリースタイルのポニーテールをした女の子だった。

「マキちゃ……眞北君のお母さんに、なごみちゃん⁉」

 どちらも、知った顔だった。我に返るという言葉の実例は、このことかと思った。

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