Episode:5 三つのお願い part.3

 火曜の午前九時前。喬松は通学路を適当なところで引き返し、自宅へと戻った。両親の車が二台ともないことを確認した後、制服から私服に着替え、最低限の荷物を持って、再び自宅を後にした。そう、彼はこの日、学校をサボろうとしていた。

 欠席の電話連絡は、朝八時前に既に行っていた。三十七度五分の発熱がありましたので終日お休みしますと、それなりに臨場感を出した演技で、電話応対をした若手の学校事務職員に一方的に伝えた。

 こうしたサボりは、最早慣れたものだった。百八十センチもある体格も手伝い、私服に着替えてしまえば、パトロール中の警察官等から目をつけられたことは一度もなかった。休講中の大学生や、日中は働いている単位制高校の学生などこの街にはざらにいるし、わざわざ怪しんで声をかける程のものでもない。


 M県の県庁所在地であるM市は、四半世紀以上前から市町村合併を繰り返しており、その面積はなかなか広大だ。

 校則により、進路が内定でもしない限りは運転免許を取得できないため、必然的に自転車での移動を強いられる。手持ちのお金はそれなりにあるが、この街のバスの路線数や便数は少ないし、タクシーを使うくらいならその運賃を別のことに使いたいものだ。

 市中心部へのアクセスのよい住宅街から、かつては別の町だった南部の郊外まで、ちょっとしたサイクリング。コンビニでの休憩を挟みながらの移動に、およそ二時間を要した。


♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪


 午前十一時過ぎ。川沿いに水田が広がり、その合間に住宅が点在する郊外。その中でも白い塀に囲まれた広い敷地と、門の向こうに見える平屋建ての邸宅。ここが、小代権字(こだい ごんじ)とかいう資産家の家だ。

 一部の噂好きな学生の間では知られた話だった。ここの家主は趣味で外国語サークルを運営しているが、実態は様々な年代の女性を侍らせたハーレム的な場所なのだという。

 それと思しき敷地に今、母が所有しているハイブリッド車が駐車している。確認したのは、これが二回目だ。


 緊張感はあるが、挙動不審な態度で怪しまれるわけにもいかない。ふてぶてしい表情を演じながら、喬松はインターホンを押した。するとすぐに、どなたですかというノイズ混じりの大人の女性の声がした。

「あー……っと。喬松由香理(たかまつ ゆかり)は、ここにいますよね?」

 そのような方は存じませんという、そっけない言葉が返ってきた。だがそんな言葉を聞きに来たのでは断じてない。だから喬松は、決定的な言葉を口にした。

「そっすか。えーっとオレ、喬松由香理の息子です。名前は喬松慧希。そこの駐車場に母の車があります。絶対いるはずっす」

 時間にすれば十秒程度の沈黙。その後、分かりましたおはいりくださいという声の後、十五メートル先の玄関がガラガラと開く音が聞こえた。


♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪


 喬松を客間に招き入れたのは、阿久江 柳(あくえ りゅう)と名乗る、五十代と思しき女性だった。

目元や鼻筋からして、若いころは美人と持て囃されていたことだろう。立ち方や歩き方といった所作からも、素の上品さが伺い知れる。だがこのような言い方は申し訳ないと思うが、長年苦労と不摂生を重ねてきたためだろうか、顔も体型も浮腫み、年相応以上に酷くくたびれた印象を受ける。


 高級そうなカップに淹れられたコーヒーと、透明な皿に盛られた有名ブランドのチョコレートアソート。来客接待の準備を終えた女性は、ソファーに座り待っていた喬松に話しかけた。

「さて、今日はどうしてここへいらしたのですか?」

「あ~……っと。ここの家主の小代さんが、外国語サークルとか言って女性をたくさんここに連れ込んで遊んでるって話を聞いたんす。ホントかよって思ってたんすけど、結構信憑性あるみてぇで」

 試しに喬松は、聞いた噂をそのまま口にしてみた。女性の顔は真顔であったものの、一瞬明らかに不愉快そうな表情を浮かべ、そんな噂まだ信じられてるのね……と言葉を漏らした。

「それで、そんな場所の駐車場に、弁護士やってる母の車があるのを見ました。何度も見ました。だから今日、話を聞きに来ようと思ったんす」

 女性に嫌な表情をさせたことに思うところがないワケではないが、喬松の言いたいことは変わらない。余所行き用の仮面を被り、きっぱりと話す。

「なるほど。ご足労いただいて申し訳ありませんが、その、喬松さんという方が、こちらにいらっしゃったことはありません」

「んなワケねぇでしょ。実際そこに停まってるんすよ? 車種にナンバー、内装、全部ウチの母のでしたよ」

「あなたのお母様の車が駐車しているのが事実でも、あなたのお母様は此処にはいません」

 対して女性の回答。それは喬松の来訪目的を無下に扱った、そう捉えられても仕方のないもの。そこで喬松は、意地悪めいた口調でさらに粘ってみた。

「そしたらアレっすか? それこそカルト宗教みてぇに、ここでは名前も身分も社会的地位も捨てろって決まりなんすか? だからあんた、ウチの母の名前なんて最初から知らないんじゃぁ……」

「そんなんじゃぁないッ!」

 すると突然の、喬松にとって予想外の怒声。それを上げた女性は、すみません取り乱しましたと小さく頭を下げた。それから一呼吸置いて、険しい表情で語り始めた。

「喬松さん……これだけは言える。ここに来る人は皆、何かに傷付いてる。辛い思いをしてる。だからここにいる間だけは気軽でいてほしいし、外部から干渉されそうなときは、お互いを守護っていかなくちゃぁならないの」

「……じゃあ何すか? ここは駆け込み寺ってことっすか?」

「そうね、そう考えてもらった方が分かりやすいかもね」

 数年前に放送された人気ロボットアニメに、そういった描写があったのを喬松は思い出した。若い大富豪が、虐げられた女性を自身の妻という名目で引き取り、自身の経営する大企業の構成員として活躍させているシーン。フィクションの描写ではあるが、現実の一夫多妻制にも通じる描写なのだそうだ。

 大人しそうだった女性が怒りを示した以上、少なくとも参加者にとっては、相互扶助が成り立っている理想的な環境なのかもしれない。ただ、だからといって喬松も、それを素直に受け入れられるような精神状態ではない。

「そしたら、ここに来る人のですよ、その家族の気持ちなんてガン無視なんすね?」

「家族っていう社会単位では救えない問題だってあるの。だからここでは、家族すら関係ない。許可なくお互いの秘密も詮索しないし、そしてお互いを尊重する、それがルール」

 さらに突っ込んだ喬松の言葉に、女性は答えた。それから、彼にとって予想外な言葉を言い放った。

「……だけど、あなたはとても家族思いなのね。それに、きっと仲間思い。大切に思う誰かのために行動するし、こうして初対面でも臆せずに、正直な気持ちを伝えられる。羨ましいね」

 褒められた、ような言葉。本日出会ったばかりの女性からの。

 確かにそれは、目の前の少年の美点を真っ直ぐに伝えた言葉だろう。口調からして皮肉でもなさそうだ。もしかしたら、彼女に辛い背景があるが故の言葉なのかもしれない。

同時に、女性のその言葉は、喬松にとって地雷といってよいものだった。


 阿久江さんとか言ったか。あんたはオレを褒めているんだろうけどさ、完璧に間違ってるよ。あんたの言う美徳に背きまくってようやく、この場所に来られたんだ。すべては遠慮なく一方的に、あんたたちを責め立てられるように。

 だのに現実は思っていたより複雑で、自分独りではどうしようもないらしい。あんた達は母さんを誑かした加害者。オレはママを取られたカワイソーな被害者。そんな単純な善悪二元論の世界だったら、どんなによかっただろう。

 知りもしなかった現実を前にして、オレが抱く不快感は、母やここの参加者の尊厳を守護るために必要な犠牲だとでも言うのか。…………もうワケがわからない。考えるのが気持ち悪い。

 さてどうする。ここで感情任せに騒ぎを起こすか。起こしてやろうか。それを覚悟でオレはここに来たんだ。たとえいざこざを起こしても影響が最小限になるように、自分の周囲を清算してまで————


 喬松は激昂した。感情の奔流に飲み込まれた。

「~~~~~~ッッ!」

 叫び散らしてやろうとした。だが一瞬、彼の脳内に見えたのは、学校の防音室と、持ち込まれた楽器。

即座に、両手で自分の両頬を思いっきり抓った。奥歯がすり減るくらい咬筋に力を込めた。それから米神のツボを親指で圧迫した。それぞれ六秒間、時間をかけて。ともかく喬松は、噴火した怒りを制御してしまった。

「…………っ」

 それから深呼吸を繰り返し、喬松は少し考えた。

 目の前の女性は、単なるサークル構成員、あるいは資産家の単なる愛人の一人とかではなさそうだ。おそらく中核、世話役、内縁の妻筆頭といってよいポジションだ。本当ならばインターホンの時点で応対を止めることもできたはずだ。そしてこちらが長時間居座ったり、何らかの強攻策を取ったなら、警察に通報すればいいだけの話だ。

 それでも目の前の女性は、何らかのリスクも承知の上で、もてなしの用意をし、自身の三分の一程度しか生きていない若造の応対をした。返答内容こそ無茶苦茶だが、それでもこちらを尊重する様子は伺えた。

 そんな相手に怒り任せに荒ぶってしまうのは、間違いなのかもしれない、自分の中のモヤモヤに蓋をすることにはなるが。


「えっと、感情的になっちまってすんません」

「そうね……いえ、こちらこそ。客人の前で気に障るようなことを言ってしまったのでしょう。大変失礼いたしました」

 互いに、軽めに謝罪の交換。それから、しばしの気まずい沈黙。

 いくらか冷静さが戻ってきた喬松は、再び考えを張り巡らせた。きっとこのまま話しても平行線だ。こちらを尊重してくれているのは確かだが、どうせこの女性は、母の存在を認めやしないだろう。そういう風にして、外部からの干渉から身内を守ってきた場所なのだろうから。

 となると、やはりここは、日々の厳しい業務で疲弊した母の居場所なのだろうか。女性の言葉から察するに、参加者同士の仲は良好そうだ。それにここが女性の駆け込み寺ならば、母が法律関係の相談役となっているのかもしれない。

 いや待て。あるいはまさかとは思うが、これまでの一連の流れが、逆に自分を何かヤバい方向に誘導するための前振りでないとも限らない。詐欺師やカルト集団は、一般人には想像もつかないような手間暇をかけて準備をするというし。もっとも、法曹関係者である母がそういうことに関わっていたら、ハーレム以上にヤバい問題なので、可能性は低そうだ。

 ……やっぱり、この場所の真実はオレには分からない。かといってこれ以上深く追及する手段も、警察沙汰になる方法以外には思いつかない。

 喬松はもう、話を終わらせたくなってしまった。あとはそのやり方だが……

「あ~…………、えっと、アレです。オレだってろくに母と会話があるわけじゃぁねーし。正直、家庭環境が冷え切ってんのはオレにも悪いとこあるからかもしれねぇし……もしかしたらだけど、愛想つかされてるのはオレの方かもしんねぇし」

 喬松は無意識に、少したどたどしい物言いで、母親と自分の今の関係性を口にした。だが、喋る中で喬松は思い付いた。どうしても最後に伝えておきたい、伝えなければ気が済まない言葉を。

「ただ、ここの家主が戻ってきたら、伝えてきださい。絶対。どんな理由があっても、ウチの母と男女の仲になってたら、あんたのこと、心底軽蔑するって」

 お願いします、と小声で付け足し、喬松は頭を下げた。

「承知しました。喬松由香理さんという方はここにはいませんが、でも今回のあなたのように、ここは周りから厳しい目で見られていて、参加者の家族を傷付ける場合もある……代表や参加者に、そう伝えるだけのことはしてみましょう」

 何が何でも母の存在は認めない、女性のそんなスタンスは一貫していた。それでもやはり、こちらの気持ちを汲んでくれているようには見えた。

「さぁ、折角ですからお召し上がりください」

「いらねぇっす…………帰ります」

 結局、喬松は出されたコーヒーにも、茶菓子にも、全く手をつけなかった。それが来客としての非礼、つまらない意地だとは分かっていた。だがこの屋敷の中で、何らかの恩を受け、それに感謝を述べるという行動を、どうしても取る気にはなれなかった。


 立ち入ってから三十分強で、喬松は屋敷を後にした。

 自身の存在を突き付けたことで、きっと間違いなく恐らく絶対にあの屋敷にいたであろう自分の母に対して、脅威を抱かせ恥をかかせる目的は達成できたはずだ。

 だが、これは成功と言えるのか。正しい行動と言えるのか。あの屋敷の中での母の立場は悪くなっただろうか。そのことに対して、ザマ見ろと思えばよいのか、悪いことしたなぁと思えばよいのか。何より、この行動が自分にとって、家庭にとって良い方向に向かうのか。それとも。————やめた。考えるのもめんどくせぇ。


さて、一連の嫌な時間を経験しても、どうしても腹は減ってしまう。やっぱりあの高級チョコ、貰っていればよかったかと僅かに後悔しつつ、近くにあった美味そうなラーメン屋を見つけ、そこで昼食を取ることにした。

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