Episode:5 三つのお願い part.2
月曜日の放課後。通常であれば、PRAYSEは午後六時から一時間、防音室での練習タイムがあるのだが、この日は二年生の音楽サークルと練習日を交代することになっていた。その振替で、次の練習は三日後の木曜午後六時となる予定だ。
とはいえ、ライブの話が具体的に進みだしているからか、練習がなくともメンバー六人全員が部室に集結していた。練習曲のフレーズを爪弾いたり、バンドスコアを睨み付けたり、スマホでライブ映像を眺めたりと、ほとんどのメンバーは大きな挑戦を目前にした緊張感を漂わせていた。
「ところで眞北? あんたアニソンの方の音源は提出した?」
「勿論だ。超有名曲だから爆上げブンブン間違いなしだぜッ!」
「二か月連続でステージに上がることになるけど、両方とも疎かにならないようにしないとね。特に眞北君」
「大丈夫だ、問題ない。どっちも練習してるッ! それに世の中には、たった一か月で必死に二十曲覚えて練習して初ライブに出演したっていう学生バンドもいるみたいだぜッ!」
「それ絶対テストの成績犠牲にしてるだろ」
そう、実はPRAYSEが控えている出番は『DAYBREAK,S HELL』だけではない。来月二月中旬に、県北N市で開催予定のアニソンステージに、眞北と絢、そして千里が出演を控えている。
以前、このアニソンイベントを主催する歌い手サークルのステージに、絢と眞北は出演したことがある。他の出演者との実力差に打ちのめされはしたものの、サークルメンバーに顔を覚えてもらうことはできた。そうした経験もあり、必要以上にガチガチにならずに楽しく歌うことはできそうだ。バンド活動に負けないくらい、ちゃんと練習するのは当然として。
そんな、いかにもバンドの自由時間らしい空間が十五分程度続いた頃。そわそわ感とは無縁といった様子でひとり、パイプ椅子にふんぞり返ってぼーっとしていた様子の喬松が、口を開いた。
「あ~、ちょっといいか?」
その言葉が誰に向けられた言葉なのか。一番長く行動を共にしている眞北か、それともリーダーの千里か。ともかく皆の意識が自身に向いたのを確認すると、間延びした口調で喬松は続けた。
「ここまで約半年、長かったっつーか短かったっつーか……まぁアレだ。皆に言っておかなきゃなんねぇことがあるんだけどよぉ~。オレ、このバンド辞めるわ」
その最後の文節に、五人は周りの空気が凍り、呼吸が止まるのを感じた。それでも、直情型の絢と眞北は、声を震わせながらも喬松に投げかけた。
「……『辞める』…………って、言ったんだな? 喬松?」
「あー、そうだよ。このバンド辞めるっつった」
「は? タカお前何ふざけてんだ? まるで俺が鎧の巨人でコイツが超大型巨人で、みてぇなノリでよぉ?」
「そうそう。気分はライナーと同じだ。本気だよオレは。今ここで脱退するって宣言した」
ぬけぬけとした態度の喬松とは対照的に、信じられない、信じたくないという顔の絢と眞北。そして美純と優子は、突然の展開に言葉を出すことができず、呆然とした顔をするばかりだった。
そんな中、具体的な話を提示したのは、リーダーの千里だ。
「……喬松君。これから話し合いをしよう。皆も、いいね?」
メンバーの混乱した様子を制するために、そして何より自分を落ち着かせるために、千里は低めの言葉を作り出して、緊急ミーティングを促した。
♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪
「じゃあまず、辞めたいって言った理由を聞かせてくれる?」
「つまんなくなった。練習ダルくなった。だから辞める。一身上の都合ってやつ。脱退の理由としちゃぁ十分だろ」
「バンドの中で何か嫌な思いをしたとかじゃぁないの? 人間関係とか」
「別にお前らに不満があるワケじゃぁねぇけどよ。……あ~、アレだ。一度部活辞めるってこと経験しちまうと、辞め癖とか諦め癖が付いちまうもんなんだなぁ」
「ライブにも出ないの? 『DAYBREAK,S HELL』に出てから、続けるか辞めるか考えてもいいんじゃぁないの?」
「あー無理。やる気ゼロ。今すぐ辞めてぇ心底辞めてぇ」
一つ一つ、千里が質問を投げかけるも、喬松はのらりくらりとした態度を崩さない。それでいて、脱退するという意思は一切ブレる様子がない。
その後も、誰の目にも埒があかないといった展開が続く中。突然、喬松が逆に吹っ掛けてきた。
「あ~。ところで千里さん? 今までずっとオレの事嫌いだったでしょ?」
明らかに千里を挑発するような態度に、絢がてめぇ一体何をと威嚇するように立ち上がるも、それを千里は右手で制した。そして一呼吸、二呼吸の沈黙後、重い調子で話し出した。
「……そうだね、ムカついてた。一番嫌いな言葉は『努力』で二番目は『頑張る』みたいな顔してるくせに、勉強でもスポーツでも、ドラムでも何でも器用にこなしちゃうところとか。でもそれはいいよ。本当にバンドが辛いのなら、それも仕方ない。だけど一番ムカつくのは……こんな風に意味もなく、わざと、人の気持ちを逆撫でするような奴だったってことだよ……!」
千里の言葉が示したのは、喬松への明確な怒りだ。脱退するならするで、相応の節度があるはず。それを蔑ろにする態度を取られて黙っていられるほど、彼女の沸点は高くはない。
「……なぁ喬松。チサトを怒らせたことは後であたしがしばき倒すとして、だ」
すると今度は、先ほどカチンときた顔を見せた絢が、低めのトーンで話に割り込んできた。
「喬松お前、何かヘンだぞ。バンド内じゃぁいつも楽しそうにやっていたよな? 社交ダンス部退部してからは明らかにハッピーだったし、少なくとも先週金曜まではストレスとは無縁な表情してたぞ? ……絶対、何か事情があんだろ? あたしらには言えねぇ事情がさ。例えば、つい一昨日の土曜日に、あんたの周りで何かやべぇ事があったとかッッ」
どうにか冷静に冷静にと努めている絢。まとめ役の千里が平常心を欠いてしまえば、此処の空気はおしまいだと判断しての行動だ。
これまでの喬松を振り返り、どうにか彼の気持ちに沿えるようにと言葉を選んだ。必死だった。喬松が一瞬、土曜日という 言葉にぴくり、としたことに気付かないくらいに。
だが、当の喬松はというと。
「絢さんさぁ、自分で『言えねぇ事情』なんて言ってんのに、そんなもんオレが話すわけねぇじゃぁねぇの。ま、最初からそんな事情なんて一切ございませんけど。もう帰っていい?」
「…………ッ」
揚げ足取りな言葉を絡めた、此方を突っぱねる態度。そんな彼に絢は、なおも冷静さを保とうと必死で、答えを返すことができなかった。
絢をピキピキとさせた喬松は、露骨にニヤニヤした表情を浮かべた後、今度は自身の左隣に視線を向けた。
「あ、そうそう。それにしても『美純君』さぁ。お前、割と周りに流されてばっかりで、実は一番何も考えてねぇよなぁ?」
「⁉」
隣から飛んできた、まさかの自分への厳しい指摘。美純の前身は即座に硬直した。
美純はこうした、きつい物言いに弱い。誰かに強く叱責されると、とっさに反論ができず、まず自分が悪いのではないかと疑い落ち込んでしまう、そんな小心者な面がある。
「自主的に前向きに動かなくちゃぁなんねぇバンド活動なんて向いてないんじゃぁねぇの、って前々から思ってたなぁ。お前もさ、オレみたくここら辺で進退考えた方がいいんじゃねぇ?」
引き攣った顔の美純に、喬松はさらに畳みかけた。要は、お前も一緒にやめろという嘯き。何の正当性も強制力もない。だが、当の美純にはそれが正論にも、現実的な意見にも感じられた。どす黒いペンキをぶちまけられたように、美純の精神は内罰的な感情に呑まれてしまった。ガクガクと震え、確かに俺はそうかもしれないと口にしそうになったところで————
「————喬松ッッ!」
「ッッ⁉」
「……くん? ちょっといいかな?」
突然の怒声が響いた。喬松も含め、部屋にいた全員を驚かせたその声の主は、優子だった。
真面目な顔を装ってはいるものの、眼鏡の奥、左目の眼輪筋がピグピグと痙攣し、泣き黒子が上下していた。彼女は明らかに怒っていた。
「これからそっちがどうしようと、わたしたちはバンド続けるし、螢くんだって辞めたりしないよ。正直、辞めるなら勝手にどうぞだけど、そこで他人を道連れにしようとするなんて、カッコ悪すぎじゃぁないのかな? 結局、何がやりたいの?」
何時ものほんわかした雰囲気から一変して、苛ついた早口で責めようとする優子。先ほどの叫びといいい、彼女のこの意外な顔に、さすがの喬松も驚きを感じたようだ。
それでもすぐに、喬松はへっ……と、余裕の笑みを取り戻した。しかも、
「え~っと。このバンドの中ではさぁ、香坂さんがある意味一番怖かったよオレ。何話せばいいかイマイチ距離感が掴めねぇところか特にさぁ。だからもう話は終わりでいいかなぁ?」
と、謝罪にも回答にもなっていない言葉までほざいてきた。
これまた、挑発的な態度。どのように反応すべきかしばし逡巡した後、彼女が選んだのは、会話を打ち切ることだった。
「…………そう。じゃぁ、もう話さない。話したくない」
顔を伏せる美純を見やり、優子はこの件にはもう意見しないことを示した。怒り任せな行動でこそなかったが、喬松との交渉は無意味と判断したようだ。
「あのなぁ……さっきから聞いてりゃ何様のつもりだテメェ!」
このタイミングでとうとう激昂した絢。どうにか冷静さをキープしてきた彼女だが、千里、美純、優子と連続で馬鹿にする喬松の態度に、ついに臨界点を突破してしまった。最早許してはおけない。テーブル越しに、暴力的な接触を伴った干渉を試みようと立ち上がった。
「鷺沢ッ!」
だがそれを誰よりも、千里よりも早く、眞北の叫びが止めた。
「眞北あんた……ッ」
「頼む、俺様の話を聞いてくれ。鷺沢も、皆も」
最初こそ脱退宣言に戸惑いながらも、まずは喬松の心理を理解しようと、様子見に徹していた眞北。誰もが喬松に集中する中、口唇を噛み、両頬を抓み、米神のツボを圧迫し、必死で自分を落ち着かせていた。そんな彼が、ここで動いた。
「……元々コイツは俺様がこのバンドに誘った。だから俺様がケジメを付ける。鷺沢も、藤守も、香坂もよっすぃーも、それでいいな?」
眞北からの提案、というより強行措置。それは、喬松への対応を自分に一任しろというもの。メンバーの脱退という大事において、普通に考えればそれはあってはならないことだ。それを咎めようと千里が、絢が口を開こうとする。
「どうなろうとそれでいいなッッ!」
だがそこに、眞北のダメ押し。部室の壁の向こう、そのまた向こうまで響き渡りそうな怒号に、四人は気圧された。自ら全責任を勝手に負うなどという独断専行に、対案を出すどころか考えることもできなかった。
無言を同意と受け取り、すまねぇなと呟いた眞北。そして彼は立ち上がり、喬松を見下ろしながら、自身の顎をくぃっと上げる動作を見せた。
「おいタカ……ツラ貸せよ」
「あ~。その前にさっきの話の訂正。オレ、マキちゃんに誘われたんじゃぁなくて、メンバー募集に必死こいてるマキちゃんがあんまりカワイソーすぎて、同乗して入ってやっただけ、なんだけどなぁ」
「細けぇこたぁいいんだよ。それよりとっとと立て。付いてこい。時間ならあるんだろ? どーせこのまま家に帰ってもてめぇのことだ。動画見るかゲームするか、それかえっちなゲームするくらいしかねぇだろうからなぁ」
「お~怖ッ。ま、怖いだけ、だけど」
最初こそ、そっぽを向いて眞北を煙に巻こうとした喬松だったが、それでも臨界点を突破しそうな彼の様子に、しぶしぶと立ち上がった。
「…………」
「それじゃぁ皆、三月のライブ頑張ってな~」
無言でガラガラと扉を開ける眞北と、ふてぶてしい笑顔で捨て台詞を吐く喬松。引き止めることのできない四人を尻目に、二人は部室を出ていってしまった。どちらも、鞄を肩に掛けていた。少なくとも今日は、この部室に戻るつもりは一切無さそうだった。
♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪
校舎中庭、東側の隅。校内でも教職員の監視が特に薄いポイントのひとつ。眞北はここに到着するなり、付いてきた喬松を校舎の壁際に追い詰めるかたちで、尋問にかかった。
とはいっても、相手よりずっと体格に恵まれた喬松。追い込まれた側特有の緊張とは無縁の、余裕の表情だ。
「もう一度聞くぜ。バンド辞めるって本気なんだな?」
「あ~もう。何度も言わすなっつーの。辞めたいって気持ちも理由も、全部包み隠さず話したじゃぁねぇか。マキちゃんお前、頭脳がマヌケか?」
「ッッ……。なぁタカよぉ、お前、俺様と約束したよなぁ? バンドでバカやって青春リア充群像劇ごっこしようぜってよぉ! よっすぃーがドキュンボーに虐められてたときも、ちゃんとヤロウ三人は仲間でいようって言ってたよなぁ! ライブ出演申し込んだ時の夜も、『楽しみになってキター』とか『ダンス部いた頃よりずっとワクワクする』とか話してたよなぁ? あれもこれも全部嘘だったのかッ?」
「あ~。本気だったぜ、その時は。だけどよ『眞北』。人間って変わるモンなのよ~。おとなになるってかなしいことなの。今まで楽しかったことが、急に冷めちまってどーでもよくなったり、逆にウザくて嫌になったりとか、サラマンダーよりずっとはやーいとか、たぶんこれから沢山経験すると思うぜー?」
「じゃぁ逆に! 楽しいことだってこれから経験するかもしれねぇだろうがッ! 昨日お前が帰った後なぁ、ステージでのライブ練習見せてもらったよ! すっげー楽しそうで、知らない人たちとも一緒に音楽楽しめて、何か元気湧いてきたよ! それにライブ本番じゃぁ、なんかすっげー上手い人たちとも共演するんだよ! その人たちもⅤ系やるってよ! 俺様だけじゃぁねぇ、よっすぃーも女子たちもワクワクしてんだよッ!」
「へーそう。よかったねー。楽しんでね。オレには別に関係ないけど」
最初こそ、相手を威圧するような声を意識的に出していた眞北。それはすぐに、ひどく感情的で、人情とかそういうモノに訴えるようなカラーに変わってしまった。どの言葉も、眞北のシンプル思考が故に、これまでの事実と彼自身の率直な気持ちに裏打ちされたものだった。
しかしながらどんな言葉も、喬松は煙に巻くばかり。気持ちをぶつける側と、右から左へ受け流す側。対照的な言葉の応酬が十五分くらい続いただろうか、流石の眞北にも、友人を問い詰めたことによる疲労の表情が浮かんだ。
「そうかよ…………じゃあ、最後だ。タカ、てめぇ一体何を隠してやがる?」
何度か深呼吸を繰り返し、眞北はどうにか心拍数を平常に近付けようとした。そして、そろそろ帰りたいなーと欠伸のジェスチャーを示した喬松の鼻面に、人差し指を真っ直ぐに向けた。
「…………。あ~、別に何も」
「すっとぼけんな! てめぇがミオリネみてぇにワザと俺様たちに嫌われようとしてんのは見え見えなんだよ。嫌われようとしてるから、ライブ楽しみにしてる俺様たちをわざとバカにして嫌な気持ちにさせてんだろぉ?」
「……は?」
「タカ、お前は簡単に悪口言うヤツじゃぁねぇ。ダンス部のクソ共の愚痴だって滅多に言わなかったお前が、ついこの前まで楽しくやってた皆のことを悪く言うはずがねぇ。だのに悪口言ったってことは、何か理由があるんだろぉ? 鷺沢も言ってたよなぁ、一体何を隠してんだ? そんなに俺様たちに言えねぇヤベェことなのかッ?」
「………………」
部室で脱退宣言をしてからここまで、極めて軽薄に振舞っていた喬松。だが二回ほど眉をピクリとさせ、それから言葉を開かなくなった。
「…………どうなんだッッ」
眞北はそんな彼を真っ直ぐ見つめ続けた。五秒、十秒、十五秒、……しばらくの沈黙が経過し口を開いたのは、喬松だった。
「……っと、実はオレさぁ、隠してたことがあってよぉ~」
「何だそれはッ?」
癖毛の髪を掻き毟りながら、バツが悪そうに声を漏らした喬松。眞北とすれ違うかたちで校舎の壁から離れ、ぎゅぅっと目を瞑り申し訳なさそうな顔を作った。眞北にはそれが、やっぱりごめんねと言いたげな態度に見えた。そこに希望を見出し、喬松に迫った。
すると。そんな彼の反応に、しめしめチョロいぜとばかりに、喬松は醜悪な笑みを見せた。
「オレな、五人の中でも眞北、おめーが一番大嫌いだったよ」
「…………ぇ?」
「マシな順番でいくとそーだなぁ、えーっと…………鷺沢美純藤守香坂ときて、おめーがぶっちぎりで最低な」
今度は喬松が、校舎の壁を背にするかたちになってしまった眞北の鼻面に、人差し指を真っ直ぐに向けた。それからとびきり嫌味ったらしく、挑発的な声の見本を放ってきた。
「あ~。ピンと来てねぇ様子だなぁ。まぁ最後だ、話してやると。例えばそうだなぁ、勝手に盛り上がって強引に他人を巻き込むトコとかなぁ! 空気読めねぇし他人の迷惑考えねぇし、だけど人生楽しんでまぁーすって顔してるトコとかなぁ! それに、恵まれてるクセに父親のことでグチグチ悩んでるし、そのくせ結局父親そっくりなトコとかなぁッッ!」
————眞北の中で、何かがキレた。
ひとつは、この世で最も憎く忌まわしい存在と同列に並べられた屈辱。もうひとつは、仮にも友だと思っていた男が、ここまでのことを言う理由がわからない不満感。
時に眞北が元・父親のことで堪りかねて愚痴を漏らしたとき、喬松はいつもと変わらない様子で、しかしちゃんと頷いてくれたし、こちらの気持ちが治まるような言葉をかけてくれた。そうした優しさは全部嘘だったのか。それとも、自分のこの逆鱗に触れなければならないほどの理由を独り抱えているのか。
「親は関係ねぇだろ親はッ! おおおおおおおおお!」
ともかく、眞北は激怒した。必ず、この男をぶん殴らねばならぬと決意したときには、既に身体が動いていた。
担いでいた鞄を地面に落とし、思いっきり右拳をテイクバックし、全筋力を動員して加速させ、相手の鼻っ柱を真正面から粉砕せんとする。その技、いわゆるテレフォンパンチ。見た目の威圧感はさておき、まるでこれからあなたをぶん殴りますよと電話するかのような、バレバレすぎる予備動作の攻撃だ。
「…………ば~か」
案の定、運動神経のよい喬松には、軽やかに回避された。パンチに集中しすぎて極度に狭まった眞北の視界、その外側に逃げ込まれた。その直後。
————‼
眞北の左頬を強襲した、ソフトボール級の鈍痛。攻撃動作中の無防備な状態を狙った衝撃は、姿勢制御を狂わせ地面に転倒させるには十分だ。
「…………ッ!」
臀部から倒れ込み、仰向けの状態になった眞北。殴り返された、痛い、制服汚れたなマミー怒るかな、そんないくつかのワードが脳内を過った。焦点が合わないまま、真っ直ぐ上を向いた視界には冬の曇天。それを覆い隠したのは、自分を見下ろす喬松の顔だった。
「や、め、て、よ、ね」
「————ぷげッ⁉」
「本気で喧嘩したら、お前がオレに敵うわけないだろ」
今度は内臓を酷く揺らす鈍痛。喬松が眞北の右横腹をぽぉん、と蹴り飛ばしたのだった。ミニバレー用のボールを三、四メートル程度宙に浮かす程度の力だが、隙だらけでかつ喧嘩慣れしていない相手には、結構なダメージだ。
「もういいだろ。とっとと部室戻って自主練でもしてろよ」
追い打ちを受けてまだ立ち上がれない眞北を尻目に、喬松は捨て台詞を吐きながら踵を返した。地面を踏む音が一歩一歩、次第に小さくなってゆく。
「…………」
去り行く者の足音が二十数回耳に入ったあたりで、眞北はふらふらと立ち上がった。離れていくその相手は、ムカつくなら殴りかかってこいよとでも言いたげに、無防備に背中を向けていた。
「アッ————‼」
眞北は叫び駆け出した。右拳を再度振りかざし、一気に距離を詰めていった。殴らねばならぬ、それだけしか考えていなかった。今度は素直に殴られてくれるだろうかとか、またカウンターを喰らって惨めな醜態を晒すだけかもしれないとか、今は考えない。考えない——
——‼
左の横っ面、下顎側に衝撃が走った。頭蓋の中がグワワンと揺さぶられる感覚に抗うことができず、膝から崩れ地面に伏してしまう眞北。結局、上下の制服の前も後ろも、乾いた土と泥で汚すことになった。
顎という急所を狙い撃ちはされたが、それなりに意識ははっきりしている。きっと手加減していたのだろう。少し経てばまた立ち上がれる。視界に相手の姿は見えないが、まだ遠くに行ってはいないはずだ。すぐに追い付ける————
「あ……口ん中切れてる……。痛ェ……」
————眞北の心は、折れていた。これ以上どんなに殴りかかったところで、拳も、心も、相手に伝えることができない。
いつもそうだ。俺様は本気で殴りたい相手に限って、ちゃんと殴ることができたためしがない……そんな闇に心を飲み込まれていた。相手を目で探すこともせず、口腔内に染み出し口唇から滲み漏れた鉄臭い紅を、そっと指でなぞった。
校舎の内側の一部から、少しざわついた声がする。誰かがこちらに近付いてくるような気配もする。余計な面倒事でさらに嫌な思いをしたくはない。眞北は袖や背中、尻に付着した土を手で払いながら、この場を離れることにした。
♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪
時刻は午後六時前。太陽はとっくに沈み、取り換えたばかりの蛍光灯が妙に眩しい部室。今ここに残っているのは、溜息をつきながら髪の毛をいじる千里と、長机に突っ伏した絢の二人だけだった。
喬松の言葉にひどくショックを受けた美純は、あの後すぐに部室を去ってしまった。優子もそんな彼の様子を心配して、結局一緒に下校してしまった。
かといって、二人と一緒に自分たちも帰宅する気にはなれなかった。美純のケアは優子に任せれば大丈夫だろうが、こちらだって自身が受けた感情の傷を何とかしなければならないのだ。
「え~っと……何度もガチギレしそうになったあたしがこんなこと言うのも何だけどさぁ。……私見だけど、喬松、やっぱり何かワケありだ」
「というと?」
「辞めるにしてはやり方がおかしい。あいついい加減だけど、嫌なヤツ相手でもない限り、それなりに礼儀はちゃんとしてる。だから最悪の場合でも、辞めたいって気持ちを伝えて逃げて終わり、程度の問題で済むはずだ。だのに、わざわざ全員の神経をイラつかせるようなこと言うなんて、自分の立場をとにかく悪くしたいのが目的みたいな感じだった。わざと嫌われて、ウチらとの縁を無理やり経ち切ろうとしてるのかも。それでもしかしたらこれから、何かやらかすつもりかも」
「なるほどね。あなたのカンはよく当たる。その可能性はあるかもしれない。ただ、理由を話してもくれない喬松君のあれこれを心配しても、どうしようもないよ」
「そうなんだよなぁ~。本当、理由とか本音がわかんないから、めんどくせぇんだよ」
突然のメンバー脱退が招いた混乱。二人はそのメンバーの心情に歩み寄ることで自身の気持ちを落ち着かせようとするも、結局は無意味な推論レベルの話しか出てこない。
「それよりも、……これからどうするか、だよ」
「あぁ分かってるよ。喬松の抜ける穴をどうするかだよなぁ」
そう、話し合うべきは去ってしまった者よりも、残された者のことだ。
ロックバンドを構成する楽器の中でも、演奏人口は希少なドラム。それに自ら名乗りを上げ、初心者にもかかわらず、比較的短期間でそれなりに器用に叩けるようになった男の脱退は、考えれば考えるほど気落ちしてしまう。
とはいえ、初心者バンドPRAYSEの中でも例外的に、音楽・器楽に強いリーダーの千里。この穴を埋める策はあった。
「ドラムは正直、シーケンサーで再現するしかないね。どうしても生ドラムとは音質が違っちゃうけど、ライブに出られないよりはずっといいよ。……何なら、誰に不測の事態が起きても何とかなるように、全パートを打ち込みしておこうかな、って考えてる」
千里の愛用するシンセサイザーには充実したシーケンサー機能が搭載されており、打ち込んだパートを再生しながらの同期演奏が可能だ。流石は親友、本当に頼りになる存在だと、絢の顔に少しだけ光が灯った。
「あたしも一緒にやるよ! 要は全員分のスコアを打ち込んでいくんだろ?」
「ありがとう。だけどこれは私の仕事だから。幸い私のパートが一番楽だし、だから作業する余裕は結構あるのよ」
PRAYSEがライブでコピーする予定の人気ロックバンドは、基本的にはメンバー五人の奏でる音のみで勝負するスタイル。故にキーボードの出番はかなり限定的だ。
千里がセットリスト内で担当するのは、ノイズ風のSEや、アクセント的に挿入されるギターフレーズ等。音作りさえできれば、弾く分にはさほどテクニックは要求されないため、他メンバーと比べれば演奏に係るプレッシャーは小さい。その分、他メンバーへの指導や、今回のような緊急事態など、他メンバーにはない大事な仕事がある。。
「そうそう、絢は来月のアニソンステージがあるでしょう? 私を手伝うくらいなら、そっちの練習も頑張って。大好きな曲なんでしょう?」
「チサトも同じだろ! 三曲目はあたしとデュエットじゃん」
「そうだったね。だけど絢こそ二曲やるんだし、そこは本腰入れてくれなきゃ困るんですけど」
「そっか、うん……じゃあ、打ち込みはよろしく頼むね」
それからしばらくの間、二人は意見を出し合った。生ドラムとシーケンサーの違いについての質問や、自己紹介コーナーへの影響の検討、あるいは千里が吹奏楽部時代にパーカッションを担当していた旧友にサポートメンバーとして参加を依頼する案など、また後日、他メンバーと共有した方がよさそうな話題をいくつか明確にした。
「本当、いつも頭脳労働一任しちゃってて申し訳ないッ」
「いえいえ。リーダーの仕事ですから。こういうピンチのときはカッコつけさせてよ」
とにかく絶対に避けなければならないのは、ライブの出演辞退だ。不安と緊張を抱きながらも、それでもメンバー全員が楽しみにしている機会。それに、ライブのために尽力してくれる主催やスタッフ、ノルマに協力してくれた身内の期待に応えなければならない。
ライブ、がんばろう。少なくとも千里と絢の二人は、その決意を新たにしたことで、少し前向きになれた気がした。
その直後、ガラガラガラ……という音に、心臓が跳ね上がった二人。扉の方を振り向くと、部室を後にしていた眞北が足取り重く、部室に戻ってきた。
いつものおちゃらけた表情とはまるで違う。手洗い場で顔を洗ってきたのか、前髪やもみ上げが少し濡れている。それ以上に、顔面の左側が腫れている。
一体どうしたのと千里が話しかけるより早く、眞北はぼそぼそと喋り出した。
「話は終わった。あいつは戻って来ねぇ」
「えっ…………」
「あの裏切り者のことは忘れろ。ガチであいつは辞める。だからもう、俺たちとは無関係だ」
「そっか……」
「そうだ。話はそれだけだ。じゃ、俺帰るわ」
僅か一分が経過したかどうかの時間で、眞北は再びドアの引手に手をかけ、部室を後にしようとした。
絢も千里も、彼を責める気にはなれなかった。むしろ馬鹿正直といっていいくらい誠実に思えた。喬松との話し合いが決裂に終わった事実、それを伝えるためだけに、わざわざ部室まで戻ってきたのだ。誰にも会いたくないだろうに、紅く腫れた惨めな顔を晒してまで、自分の言葉で伝えたかったのだろう。この行動は、彼なりの誠意に違いなかった。
眞北君、ありがとう。つらい役割押し付けてごめん。……女子二人はどうにか、何の慰めにもならないに違いない言葉を、彼へと放った。
眞北は振り返らなかった。だが、一歩だけ部室の外に出たところで、立ち止まった。肩を落とし、全身を震わせ、そして声を絞り出した。
「…………ごめん」
「ぇ……?」
「あいつを止められなくてごめん……脱退止められなくてごめん…………これからって時に全然役に立てなくて……俺、あいつとも一緒に、ライブ出たかったのに……」
堰を切ったように、声は嗚咽となった。嘔吐くような呼吸。鼻水を啜る音。こちらに背を向けていて表情は分からないが、間違いなく、彼は号泣していた。
「すまねぇ……じゃぁなッ————」
「ちょっ、眞北待てって!」
絢はとっさに彼を追いかけようとした。だが引き留めてどうなるのか。何を言えばいいのか。部室の外に出た瞬間、足が止まってしまった。結局、眞北が廊下横の階段を降りその姿が見えなくなるのを、見ていることしかできなかった。
「絢? ……もう、今日は帰ろう」
「うん……」
「今ここで、何もかもを決めなきゃいけないワケじゃぁないんだから……」
絢の左肩に後ろからそっと、千里が手をかけてきた。
ドラムパートの穴を埋めることは、きっとできるだろう。バンドとしてステージ上での演奏をかたちにすることは可能なはずだ。だが、果たしてメンバー全員、前を向いてライブに向かえるのだろうか。眞北の落とした涙が、バンドから大事なピースがひとつ欠けた現実を突き付けてきた、そんな気がした。
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