Episode:4 C.S.ガール part.8

 土曜の夜九時四十五分。自宅マンションからは自転車を使わなければしんどい程度の距離に位置する河川敷スポット。

 化学的というよりは、精神的依存性の強い嗜好品の成せる業だった。友人二人から説教も同然の説得を受けてなお、優子はまだ手元に残っていた二本に、手を出していた。


 しかしながら、吐き出す紫煙が醸し出す気怠さは、いつもの自己陶酔が入ったものではなく、本当に純粋な気怠さだった。

 自由という名のスリルではなく、周囲を警戒する緊張感でもなく、何時までこういったことを続けるのだろうという、ある種の億劫さを、優子は感じていた。

 仲良くできていた友人にもバレてしまった。そればかりか、いけ好かないメスの塵屑にすら、自分の不審な行動を見られてしまっていた。

この現実をどう理解しよう。今までの習慣を続けるならば、必要とすべき警戒レベルは、これまでとは段違いだ。

だいたい、こうしてこっそり煙草を吸うことは、とにかく面倒な過程だらけだ。そもそもまず、確保からして困難だ。入手方法は知っているものの、そのときの恐怖感は、今となっては無視できない障壁だ。それに毎回人目を気にして安全な場所を確保しなければならないし、吸い殻や臭気の処理問題もある。

こんな面倒な手順を繰り返してまで、今後もこの習慣を続けるのだろうか? せっかく出逢えた気の置けない仲間の信頼もボロボロになってしまった。そして然るべき機関にバレれば今後、社会的な立場もきっと……そう、何もかも失うリスクを背負ってまで、続けるのだろうか?


「………………おいしくない」


 脳内を何度もほわほわさせていた不思議な感覚は、もうなかった。あるのは、貧血にも似たダルさと、胃酸が逆流せんばかりの内臓の蠕動。そして喉に滞留したえぐみ。

これまでは自由を謳歌している高揚感のためか、それらの不快感もスパイスのように思えていたが、今やこれは、単に毒物を摂取したときの身体の反応にしか思えない。血管の収縮に抗うように血流がドロドロと強くなり、毒素を体外に排出するバイオメカニズムの影響だろうか、身体から奇妙な熱が湧いてくる気がする。気持ちが悪い。

 それでもきっと一夜明ければ、また手を出してしまいたくなるのだろうか? これが依存性というものか? あらゆる面倒を背負って?


 ――――あんたはいい子じゃぁなかった。でも、悪い子にもなりきれない。


 優子は、友達から放たれた言葉を思い返した。

 自分はいい子に疲れきっていたつもりだったが、密かに夢見た悪い子は、自分にとってはいい子以上に疲れてしまうことに、どうやら気付けなかったようだ。

 ならばわたしはどうなりたいのだろう? いい子でも悪い子でもなく、わたしはどうなることを一番に求めている?

 欲しいモノ、叶えたいことにすべてが手には入ればよいが、そうはならないのが世の常。だから誰もがすべてに優先順位をつける。ならば自分は何を選び、何を捨てる?


 始まりは七月のある日。他のクラスの女子二人から、一緒にバンドをやらないかと誘われたこと。

 断りはしなかった。今のクラスとは別の集団に所属することで、他の不愉快な人間どもからの干渉を予防するのもありだな、と考えたからだ。それに誘ってきた二人は倫理観がまともそうだったし、それなりに仲良くはできそうだとも思った。その程度だった。

 けれども計算外だったのは、その二人といると、とても居心地がよかったこと。単に趣味や楽しみを共有し合えているだけでは説明がつかない、親友といってよい関係を、継続できている。なんでもない自分の料理を喜んでくれるし、胸が焦がれてしょうがない男子ができたことについても、真剣に相談に乗ってくれる。

 あーあ。自分はそんな二人を、現在進行形で裏切っているのだ。少しだけ乾いた嗤いが込み上げて来た。そして気持ちが悪くなった。


 手持ちの煙草はもう無くなった。あるのは処理に困る廃棄物だけ。後始末を済ませ、誰もいない家へと帰ることにした。


♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪


 翌日の日曜。優子がベッドから起き上がったのは、午前十時になろうかという遅い時間だった。

 とりあえず口にしたのは、軽くトーストしてラズベリージャムを塗った食パン、それからチョコアイス。飲み物はグレープフルーツジュース。朝食というよりはブランチ。朝と昼とを別々に摂る気にはなれなかった。

 それからは、撮り溜めしていたテレビ番組をだらだらと眺めたり、昼寝をしたり薄い本を読んだり。その傍ら、宿題に着手したものの、七割という中途半端な状態で止まった。また、ライブに向けて個人練習しようかと、純白で鋭いシェイプのエレキギターを手にしたが、どうにも身が入らない。建設的なことを行った気が一切しないまま、気が付けば夕方になっていた。


 夕食はカップ焼きそばで済ませ、早めに入浴。二十分ほどだらだらと湯船に浸かったところで、玄関の扉が開く音がした。霧香が帰ってきたのだ。

 すぐに風呂を上がり、濡れた髪をタオルで包んだ姿でおかえりを伝えると、彼女はお土産に、優子の好きなライムケーキを買ってきてくれていた。

「ごめんなさい。今日は何もしなかった……掃除も、洗濯も」

 目を伏せた優子に霧香は、そんな日もある、むしろこれまでがやり過ぎだったと笑った。そして何かを悟ったような表情で、彼女の肩をぽんぽんと叩いた。

「絢か千里とケンカでもした?」

「…………そんなところ」

「そっか、……よし、じゃあ紅茶淹れよっか」

 いつもは優子が率先して淹れるのだが、今日この日は、叔母が姪を制止した。


 ティーバッグにウォーターサーバーからの熱湯を注ぐだけなので、優子に差し出されるまでに時間はかからなかった。その時の気分によって砂糖やミルクを加えることもあるが、甘すぎず酸味のあるライムケーキには、ストレートがよく合う。

 アールグレイを一口だけ、ケーキの先端を一口だけ、口に運んだ。ここですべてを白状し、懺悔しようかという気持ちも浮かび上がってくる。

だが、それは許されない。昨日、千里や絢が要求した約束には、霧香にすら隠し通し、すべてを無かったことにすることも当然含まれている。だから、何も言えない。これ以上、口も開けない。

「……優子ってさ、落ち込んだり、何かツラいこと我慢してるときの顔ね、美波ねぇちゃんにちょっと似てる」

「……えっ?」

 そんな彼女への、叔母の呟き。予想外の名前が出てきたことに、優子は驚いた。

 香坂美波(みなみ)は、霧香にとっては少し年の離れた姉であり、優子にとっては母親である女性だ。生真面目で大人しく融通の利かない姉と、自分に正直で我が強く人情家な妹と、性格は対照的。面と向かっての言い争いことないものの、少なくとも優子の目には不仲なように見えたし、霧香が彼女のことを話題にすることも、これまでほとんどなかった。

「亜依莉のお葬式とか色々がひと段落したときさ、美波ねぇちゃんと色々話したのよ。初めて、二人だけでバーでお酒を飲んだ。ちょっとカラオケも唄ったね」

 話を持ち掛けてきたのは美波の方だった。最初こそ霧香は、話を聞いてくれるなら堅物な姉でもまぁいいかという投げ槍な感情で付き合ってやったのだが、意外なほどに、話は盛り上がった。お互いのパートナーとの出逢いのこと。亜依莉の財産のこと。ブチ殺してやりたい奴等のリスト。やたらと厳しく小言の多かった久遠寺家の両親、すなわち優子にとっては(写真でしか知らない)祖父母への愚痴。それから、お互いのムカついていた部分と、羨ましいと思っていた部分について。

「とーぜん、今更仲良し姉妹になろうったって絶対無理なんだけど。…………それでもそのとき、私はねぇちゃんに許された気がしたし、私もねぇちゃんを許せた、そんな気がしたんだよね。実際、母親になるなんてぜ~ったい無理な私に、あんたを託してくれた、それがその証拠だと思う」

 そして話は、優子がMW高校に進学するとき、母が何を思っていたか、その理由へと発展した。

 当然、MW高校の偏差値や進学実績は大きかった。だがそれ以外にも、娘には故郷N市だけでは経験できないような刺激に触れさせる時期ではないかとも考えたのだという。心配性な自分や夫は今更、娘への接し方を変えられはしないから、ならば生活の場は霧香に託して環境を大きく変えてみよう、大学進学か就職か、いずれ親元から離れる時がくるのだから、と。

「……………………」

 何もかもが、今初めて知った事実ばかり。どう返答すればよいか分からず、やはり会話なんてできない……そんな優子の表情を前に、霧香は話題を転換することにした。


「ところで、この前話してたライブ。チケットノルマあるんでしょ? 一人三枚だっけ?」

「うん……ドリンク代込みで千五百円。とりあえず、六人皆で三枚分ずつお金出して、来てくれそうな人に配ろうって」

 ようやく、優子はまともに口を開けた。自分の思いや考えよりも、決まりきった事実の方が、ずっと話しやすいもの。それでも霧香は、話してくれて嬉しいよと、優子の肩をぽん、と叩いた。

「よしっ。一枚は私が買うよ。当日行けるかはまだわからないけどね。それで、あとの二枚分のお金は、お母さんとお父さんに頼みな。今度家に帰るときに、きちんと自分の言葉で説明すること」

「……っ!」

 思い返せば両親とは、高校に進学してからこれまで、ほとんど表面的あるいは事務的な会話しかしていない気がする。そんな相手にお金を出してくれなど……俯く優子に、霧香は続けた。

「そりゃぁ自分の娘がライブハウスで演奏するなんて知ったら驚くだろうけどね。だけどそこは、優子の交渉スキルの見せどころ。なぁに大丈夫、悪い大人を絶対許さない友達と、親がライブハウスに顔が利く友達がいるっつって押し通せばいいの。それとも、親に自信持って話せないような友達? あの二人は?」

 更に昨日、説教を受けた二人が出てきたことに、優子は更に追い詰められた顔になってしまう。そのことを霧香は察し、その上でやるべきことを明確に示した。

「じゃぁその前段階として、絢か千里のどっちかは知らないけど、ちゃんと話してみることだ。自分が悪いならどんなに無様にでもきちんと謝ること。盗みや殺しや詐欺に薬物、犯罪とかじゃぁない限りは、きちんと話し合えば大抵改善に向かうもんだよ。まぁ人間それが難しいから犯罪は無くならないし、一方で私が生活できている皮肉、でもあるんだけど」

 色々と胸が痛む言葉だ。そもそも高校生の喫煙も犯罪だし。それはそれとして、やはり彼女たちに向き合う他、ないのだろう。

「……うん。ありがとう、ねぇちゃん」

 優子は少しだけ、涙をにじませた。そして、九割方手を付けていなかったケーキを、ハイペースで口にしていった。


 日付が切り替わるあたりで、就寝。だがなるべく考えないようにしていた、煙草への依存の感覚が、どうしても何度も頭を過ってしまう。

 そこで優子は、夢の中であればいくらでも煙草を吸える、と考えて眠ることにした。我ながらなかなか上手い発想ではないか、無理やりにでもそう信じ込むことにした。


♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪


 月曜の放課後。バンドの練習が始まる前に話したいことがあると、優子は女子メンバー二名を、校舎西側の敷地の隅に呼び出した。


 深刻ぶった表情の優子に対し、怪訝そうな顔をしてみせる絢と、冷静に対応しようとする千里。

 二人に向かって俯き、懺悔する優子。その眼には、涙が滲んでいた。

 一方、絢は呆れ顔をし、馬鹿正直すぎて笑っていいのか怒っていいのかと困惑。

 すると優子は、スマホの画面に表示させた画像を見せ、二人に訴えた。それを見て、だから何なんだよという顔をした絢を、少し思案した様子の千里が制した。

 そこからしばらく沈黙の時間となったが、それを破ったのは、意を決した顔の絢だった。


 絢は優子の鼻面に人差し指を向け、ひとつの要求をした。優子は自分のことをじっと睨む彼女の言うとおり、眼鏡を外し、歯を食いしばった。

 そんな優子の柔らかな左頬に、一閃。思い切りテイクバックし、下半身のひねりも加えられた、絢の渾身の平手打ち。乾いた冬の空気に、澄んだ破裂音が響いた。

 しかし、優子に制裁を与えただけでは納得できないと、絢は更なる要求をした。それは絶対にできないと優子は戸惑うも、絢は頑として譲る様子を見せない。

 結局、優子はごめんなさいという顔で、指示どおり絢の左頬に、本気の一撃を放った。体格のよい優子のビンタの威力は絢の予想以上。あわや吹っ飛ばされ尻餅をつくかというところで、どうにか絢は持ち堪えた。

 直後、想定外の事態に感情のボルテージが上がり、絢は数字の『2』を示すジェスチャーを交えて、優子に抗議。結局、優子は絢から、右の頬も打たれることになった。


 悪いことをした側と、咎めた側。互いに涙を浮かべたが、同時にその口元に、笑顔が見てとれた。

 絢は優子に何かを告げた。優子も、それに同意した。

 そんな二人の立会人として冷静さを保っていた千里だったが、この様子にはたまらず、あ~あ、あなたたちってほんとバカだねと、もらい泣きの笑い泣きをした。


 その後、三人は並んで部室に楽器を取りに行き、男子メンバーと合流。週一のバンド練習を開始した。課題こそ浮き彫りになったものの、皆、何らかの感触を掴んだようだった。

 なお、女同士で引っ叩き合って頬に刻まれた紅い痕だが、千里秘蔵の薄い本コレクションを、絢と優子が盗み見したことに対する制裁だと、男子たちにはテキトーに誤魔化した。


♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪


 練習後、優子は少し用があるから先に帰ると、絢と千里に申し出た。その後、前もって話があると連絡していた美純を呼び出し、少し申し訳なさそうな笑みを浮かべて、言った。

「わたし、あんなことはもう止めにするから………だから、……ね?」

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