Episode:4 C.S.ガール part.6

 コンクリートに腰掛け、メタリックブルーのパッケージから紙巻を一本、摘み出す。

 今から十五年ほど前に規制が厳しくなり、このブツは簡単に購入できなくなったようだが、それでも入手するための抜け道など、知恵を働かせればいくらでも見つかるのだ。

 フィルター部分を咥え、軽く息を吸いながら、使い捨てライターで反対側の先端に点火する。熱された煙が口腔へと、そして気管へと流入してくるのを感じる。少し舌がヒリヒリする感覚と、薄荷の香りがする。毒性物質だからか、軽い酸欠になっているからか、少しクラクラする感覚が、妙に心地良い。

「ふぅ~~~~…………」

 わざとらしく気怠そうな気分に浸り、腹横筋と内肋間筋を弛緩させる。吐き出された瘴気が視認できる濃度を保っていられるのは、シャボン玉の寿命と同じくらい。すぐに拡散し、夜の闇と同化してしまう。


 こんな風に、優子が煙草を楽しむためのスポットは、市内十箇所。毎回気まぐれに場所を変えており、少しでも自分以外の気配を感じれば、別の場所に移動するようにしている。

 そうした慎重さもあってか、これまで『招かれざる存在』の接近を受けたことは、一度もない。今この時も、周りに不審な気配を感じることもない。

 遠くで微かにがさごそと音がするが、風の音、あるいは季節外れの発情期を迎えた猫のつがいがウコチャヌプコロしているのだろう。接近する様子もないし、気にしなくてもよさそうだ。


 一本目、二本目。そろそろ気分的に飽きが来たあたりで、もう一本。

 これは悪い事だ。そんなのは百も承知だ。生徒手帳にも書いてあったが、もしこのことが学校にバレたならば、停学を前提とした処分を下されるだろう。

 だがその一方で優子は、こうして悪いことをしている時だけは、本当の自分でいられると感じていた。

 誰かに唆されたワケでもない。自分からやりたいと思い、綿密に計画し、実行したこと。最初に欲求を抱いたときから、すべて自分の意思で行ったこと。

 周りからいい子だと評されることは、世間一般ではありがたいことなのだろう。だが、それだけでは食傷気味になってしまう。だからその真逆、こんな時間があってもいいじゃぁないの。


 ――――今の私は孤独であり、そして、自由だ。


♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪


 真面目に勉強しろ。社会のルールを守れ。どんな相手とも仲良くしろ。悪目立ちするな。……物心ついたときには何度も言われてきた、生きていく中での決まり事。

 放課後は宿題や自学自習と並行して、ピアノに英会話。休日にはガールスカウトとしての活動。家でも料理や掃除のお手伝い。

 大抵の大人の目から見れば、実に理想的な子供の生活。それが、教師を両親に持つ、香坂優子の日常だった。


 だが学校という社会において、そんな理想的な子供が、必ずしも幸せとは限らない。

 優子はその、大人しくそして気の利く立ち振る舞いに付け込まれ、同級生やはたまた教員から、様々な学級の面倒ごとを押し付けられてきた。誰かの役に立てる充実感などという、全く以て実態のないモノを心の支えとし、それらをこなしてきた優子だったが、時にその真面目さ故に、良い子ぶっていると陰口を叩かれることもあった。

 更に、早熟な彼女は、中学入学の時点で身長は百六十五センチ。しかも下着のサイズも、大きめの大人用でなければ間に合わないという、どうしても目立ってしまう体格だった。温和な性格とのミスマッチもあり、暴力性を持て余した男子からも、攻撃対象を常に求めているような女子からもからかわれ、時には不快なことをされるなど、しばしば嫌な思いをしていた。仲の良い友達もいないわけではなかったが、中学卒業後もこんな人間関係に縛られるのかと思うと、寒気を覚えるくらい、学校という環境が嫌いだった。

 それでもなお、優子は両親に訴えることをしなかった。学校を休むこともなかった。父も母も、自分の親である以前に、顔も名前も知らない者達にとっての、教師なのだ。迷惑はかけられないし、ましてや甘えることなど許されない。

 彼女ができることといえば、人間ってそういうものねと力無く笑って受け流し、そして限られた独りの時間の中で、楽しいことに集中し、速やかにストレスを解消することくらいだった。


 そんな苦痛があちこちに散らばっている日々の中、貴重な余暇の度に、家の外に連れ出してくれる二人の女性――――叔母の久遠寺霧香と雲英亜依莉は、優子にとって誰よりも大切な存在だった。

 二人は部活指導や採点等で休日も忙しい優子の両親に代わって、県内外の美術館や遊園地、水族館に同人イベントによく連れて行ってくれた。あまりメディアが取り上げない、美しい音楽やアニメ作品を教えてもらったりもした。更には、親にも言えない悩みを聞いてもらったり、中学生活の中で賢く立ち回る方法を教えてもらった。

 そんな叔母二人、いや、おねぇちゃん二人の前では、優子も本当の気持ちを曝け出し、心から笑えている気分になれた。


 優子の母親は、娘が彼女達と会うことに、あまりいい顔をしていない様子だった。それは単に姉妹としての不仲なのか、それとも普段は『マイノリティへの差別や偏見はいけませんよ』と教える立場でありながら、いざ身内がそれに該当するのは受け入れ難いからか、それは分からなかったが。

 それでも、普段の優子が理想的な学生である以上、二人との付き合いを親から妨げられることは、幸いにもなかった。


 優子が中学三年になって半年ほど過ぎたある日、もうひとりの叔母同然の存在、雲英亜依莉は、まだ三十代という若さで、この世を去った。

 彼女は三日前に、何度が市役所に手続きに訪れていた、タチの悪い男に因縁をつけられた。たまたま近くにいた霧香が駆け付けたおかげで傷害沙汰にはならなかったものの、この男は女性二人に反抗されたことを非常に屈辱に感じたようだった。更に、彼女たちが同性カップルであることを察知。差別的な考え方もあり、尋常でない憎悪を、亜依莉に向けてしまった。

 後日。男は自家用車を運転中、たまたま狭い道を歩いていた亜依莉を発見。車で接触ギリギリまで接近し、驚かしてからかってやろうと試みた。しかし、ペダルとハンドルの操作を誤ってしまい、道路脇の電柱に激突。自動車と電柱の間に挟まれた亜依莉は、『腰を強く打ち』、死亡した。


 学校から帰宅して直後、優子はその訃報を聞き、ガクガクと震えボロボロと落涙した。

 血縁上は赤の他人のため、忌引きは認められないのだが、それでも通夜と葬儀には出席した。その後数日間、まともに登校できなくなるくらいに体調の悪化が続いた。

 だが、誰よりもダメージを受けたのは、誰よりも亜依莉を想っていた霧香に他ならない。この世で最も大切な存在を、いたずら半分の危険運転という何ともくだらない事故のせいで失った絶望は、言葉にできよう筈もない。

 そんな中でもどうにか、人生のパートナーの責任として喪主を務めはしたが、後日、どこからか訃報を聞き付けてきた亜依莉の親族から、理不尽な罵詈雑言をぶつけられる屈辱を味わった。

 親族と絶縁していた亜依莉は、万が一のときのために、市内の弁護士事務所に財産や生命保険などの相談をしており、それらはすべて霧香が受け取ることとなっていた。だがこうしたお金の他、たくさんの彼女の私物をめぐって、霧香は不実な亜依莉の血族から、何度も難癖をつけられた。

 そして、事故の加害者――――事故直後も非を認めず言い訳を繰り返し、更には霧香さえ謗る、矮小な愚物との闘いも控えている。

 芯の強いひとだとはいえ、本当は繊細な霧香が、こんなにも圧し掛かってくる多くの現実に耐えられる保証などどこにもない。十五歳の優子は、そのことを敏感に感じ取っていた。


 優子は、ある決断をした。

 それは進学先を確定させる、十二月の三者面談でのこと。優子はそこで、地元から遠く離れた、県庁所在地M市にある、県立MW高校に進学することを主張した。

 MW高校は、地元N市内のどの高校よりも偏差値が高く、風紀が良く、何より進学実績が高い。高校を選ぶ上で非常に重要な要素が、とても優れていた。

 そして、親が子の進路を、担任が生徒の進路を案ずるのは、当然。親元から離れてどう生活するかの問題さえクリアできれば、反対される可能性は小さい。

 優子は、叔母である霧香と同居したいと主張した。彼女と不仲なように見えていた母親は、意外にも反対せず、その方向で考えさせてくださいと担任に言った。単に学生向けの下宿より安上がりだからか、それとも別の思惑があるのかは分からなかったが、それでも母親は、優子の思い通りに動いてくれた。

 優子は両親と共に、叔母に頼み込みに行った。彼女はすんなりと優子のことを受け容れてくれ、家事に協力してくれれば、高校三年間の生活は保障すると約束してくれた。

 そんな叔母と二人きりになった隙に、優子は彼女に打ち明けた。

「……これからは、わたしが一緒だから。亜依莉ねぇちゃんみたいにはなれないけど、わたしにできることで、霧香ねぇちゃんを支えていきたいから」

「………………ありがとう。優子、本当にあんたはいい子だ」

 それは、亜依莉が逝って以来、初めて浮かべた、霧香の心からの笑顔。その眩しさに優子は、はっとした。その視線からつい、目を背けてしまった。


 違う。

 わたしは、いい子なんかじゃあ、ない。


 勉強のことなんて、ただの口実。同級生から距離を置きたい、あれこれ心配性な親の元から離れたい、何もかもゼロからリセットしたい、……それさえ叶えば、理由にできることは何だって利用したまでだ。そう、わたしは我儘のために、叔母たちの不幸に便乗したに過ぎないのだ。

 ――――叔母が与えてくれた愛情という光に、自分の中の醜いモノが曝け出された、そんな気分になった。


 その後、優子は真面目に受験勉強し、ほぼ危なげなく、MW高校普通科に合格。程なくして、叔母・霧香との二人での生活が始まった。

 夜勤が多い上、家事が苦手な霧香と分担して、料理や掃除、洗濯をする。勿論学生として、宿題もこなす。際立って優秀とはいえないが、危惧すべきでもない成績を維持する。やることこそ多いが、苦に感じたこともない。待ち望んでいた幸せな生活、そのはずだった。


 わたしは、いい子なんかじゃあ、ないよ。

 勉強に対して必死の努力なんてしてない。特に、苦手な体育なんて、正直かなり手を抜いてる。

家事だって、言うほど完璧にやってない。

先生やクラスメイトに殺してやりたい奴がいる。妄想の中で実際何人も殺している。

 ねぇちゃんが隠し持ってる、えっちな薄い本だって、こっそり読んでる。いけないサイトだって毎日のように見てる。

 だからそんな目で、わたしを見ないで。


 ――――無償の愛を注いでくれる、大好きなねぇちゃん。

 そんな彼女の光に照らされて、逆に優子の中の薄ら暗い感情が、菌糸のように、全身に張り巡らされていった。

 最早それは、霧香への反逆心といってもよかった。


 期末試験のシーズンも近い、梅雨時の六月。一時的に雨の止んだ夜の闇の中、優子は、初めての喫煙をした。

 使用する現物の入手はもちろん、叔母の勤務スケジュール、マンションの住人の行動パターン、徒歩または自転車で移動可能な範囲における周辺環境は、事前にしっかりと把握していた。

 いい子でいるために身に付けた立ち振る舞いや、自律的に考える力、気配りに観察力。それらは皮肉にも、悪事を行うための狡猾さとして発揮されたのだった。


 一回の消費本数は三本まで。一ヶ月前後で一箱を消費する程度のペース。愛煙家としては随分と少ない本数だが、月に何度かの自分へのご褒美と考えれば、決して我慢できないようなものではなかった。

 自分をバンドに誘ってくれた女子二人と親友になり、初めて心ときめいた男子と出逢ってなお、彼女のこの秘密の悪事は止まることはなかったし、バレることもなかった。十二月初旬木曜の、アノ夜までは。


♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪


 帰宅すると、部屋には当然ながら優子ひとり。

 まずは念入りに手洗いとうがい。着ていた衣類には除菌消臭スプレーを施して洗濯機に放り込み、自分は浴室ですぐに身を清め、身体を暖める。

 いくら保護者の霧香が愛煙家とはいえ、紫煙を楽しむとすればベランダか、換気扇をフル稼働させたキッチンくらい。非喫煙者の来客が顔をしかめない程度には、この一室はヤニの臭いが染みついていない。だからこそ、こうした消臭対策は重要だった。


 宿題を終わらせ、明日の学校の準備をし、そしてベッドに寝転がり、スマホの音楽サブスクリプションを起動させた。

 連動したスピーカーから流れてくるのは、八十年代終盤から現在まで、根強い人気を誇っている大御所ロックバンド、その三枚目のシングル曲。違法薬物使用というメンバーの不祥事からの復帰後に発表された、ポップな印象を与えながらもどこか皮肉で自虐めいた雰囲気のナンバーだ。


 やっぱりわたしはイカレているのだろうか…………優子はひとり、溜息をついた。煌々とした時間の後は、必ずどこか物寂しい時間。錠剤にも似たラムネ菓子を三粒口に放り込み、がじがじと噛み砕いた。

 こんなことあんなことをして、全く罪悪感がないワケではない。それでも彼女は、自由というものを感じていたし、止めるという気持ちが心を過ることもなかった。

 学生としてやるべきことはやっている。大事な彼をひどく傷付けた上に、校内不純異性交遊までしでかした屑や、平気で誰かを不快にするような滓に比べれば、わたしは遥かにまともだ。

いわゆるメスガキ然とした態度が鼻につく儀舞良、一週間の停学処分を受けたものの結局は普通に通学している知場降芽(しるば ふるめ)、やたらと偏見めいた発言が多い痲倶仁愛(まぐ ひとあ)、……何故かやたらと一年六組に集中している、気に喰わない女共。自分はそんな奴等みたいに、誰かを傷付け踏み付けたりはしていない。盗みも殺しも詐欺もやっていない。

 ……気付けば優子は、脳内でそんな言い訳話をしていた。やがて少し空しい感覚を覚えたので、つい先週発生した、ある驚くべき出来事を思い出すことにした。

 もう二度とあんな事態は起こるべきではないと理解していたが、それでも罪悪感に潰されないように歓びを思い出して、眠くなるまでの時間を独り、愉しむことにした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る