【短編】ワルダクミ

 入店と共にカラカラと鳴り響く呼び鈴に気恥ずかしさを覚えながらも、マスターに促されるままにカウンター席に腰掛ける。

 別に、馴染みの店というワケではない。以前に上司から誘われた、大して行きたくもない飲み会の二次会で紹介された店というだけだ。手ごろな値段と自分好みのカクテルを出してもらったこともあり、たまたま記憶に残っていた、その程度だ。

 酒はよくわからないのだが、炭酸抜きで、柑橘系の酸味があるものを。あとは灰皿をひとつ。不慣れでぞんざいな注文にもかかわらず、自分と同年代と思われるマスターは、気軽に注文に応じてくれた。

 先に出された灰皿の上で、鷺沢弦(さぎさわ げん)は細く長い煙草に火をつけた。昨年度の県外出張以来、およそ一年ぶりに吸う煙草に、頭がクラクラする。軽い酸欠だろうが、倒れこむほどではない。娘が生まれてから世間的には禁煙したが、独りだけの長い時間が取れるときだけは、少しばかり禁忌を犯しているのだ。

 紫煙の苦味を、カクテルの酸味で打ち消す。そしてまた紫煙を吹かす。何となくやってきて、何となく時間を消費する、ちょっとした非日常。こういうひとときがあっても良いではないか。人付き合いがよくないことを心配される俺がたまに飲みに行くことを、妻も咎めはするまい。煙草の匂いはまぁ、適当にごまかすとして。


 時刻は八時にもなっていない。店が忙しくなる時間はまだなのだろう。来客は弦の他に、奥のカウンター席に座っている男性一名だけだ。齢四十を超えて久しい弦よりも一回り年上だろうか。洒落たデザインのハンチング帽と眼鏡、整えられた顎髭の、恰幅の良い男性だ。

 マスターと談笑していたその男性は、ふと、小さな機械を操作し始めた。カラオケのリモコンだった。

 いいですねカラオケ。自分は人前で歌えやしませんが、邪魔はしませんのでどうぞご自由に。さて、あちらさんが一曲終わったあたりで、こちらは二杯目を注文し、今日はそれで終わりにしよう。そんなふうに弦は思っていたのだが……モニターに表示された曲のタイトルを眺め、そして二度見してしまった。弦も好みのロックバンドのバラード曲だったのだ。


 切なげなアルペジオが彩るイントロの後、男性のターンが始まった。

「…………ッッ!」

 衝撃を受けた。自分がもしここまで歌えたならば、世界が幾らか輝いて見えるだろう。……そんなふうに弦が羨んでしまうくらいの歌唱力だった。

 紫煙と酒と共にじっくり聴き入りながら、約五分。弦は直接、この男性に称賛の言葉を伝えたくなった。誰かと喋るために此処に来たワケではなかったはずだ。見ず知らずの人間に話しかけるなんて、仕事でもなければ御免被りたいものだ。それなのに、行動せずにはいられなかった。


「すみません。……グレイですか。お上手ですね」

「? …………えぇ、あぁ。ありがとうございます」

「とても良い声をしていらっしゃいましたよ。僕、カラオケはうまくないので、うらやましいです」

 突然、弦に話しかけられた男性。褒められて悪い気はしていないのだろう、ハンチング帽の縁を摘みながら、照れくさそうに少し笑った。

「いや、高校生の娘がね、この曲が好きなんですよ」

 奇遇ですね。自分にも高校生の娘がいて、この前、同級生とバンドを結成しました。————そう語ろうとした弦を、男性の次なる言葉が遮った。深い深いため息混じりだった。

「この前、めっちゃ大喧嘩しましたけど」

「事情が変わったッ?」

「それ以来、今日まで全然顔も合わせてないんです」

「……深刻そうですね」

 顔こそ笑っているが、俯いた調子で煙草に火をつけた男性。察しが良くないと家族から言われがちな弦にも分かるくらい、深刻に悩んでいる様子だ。もしかしたらさっきの曲を弦に褒められたことで、つい気持ちが緩んで、打ち明けるモードに入ってしまったのだろうか。

「あの……せっかくの飲み屋なんです。僕、聞き役にしかなれませんが、聞きますよ」

 弦は、自分のことを人間嫌いと評している。地区清掃や催し物に参加するのも面倒な性格だ(ただし一応参加はするが)。だが、心から困っている人間を見捨てて気持ちよく寝られるほど、図太い神経でもない。だから彼は、やったこともないカウンセリングの真似事に挑戦することにした。


「すみませんね。じゃあお言葉に甘えて、愚痴らせてもらいましょうか」

 その男性から語られた事情は、こうだ。

「僕、ラジオ局の仕事をしていまして。仕事柄、音楽関係者と関わることが多いんです。若い頃はプロも目指していたし、今でもライブハウスでセッションしたりとかもしています。妻も音楽関係者です。ピアノとかバイオリンの先生をやってましてね。それで娘にも————」

 男性とその妻は娘に対し、吹奏楽やシンセサイザーをはじめ、様々な楽器に挑戦させてみた。だが、娘はコンテストで失敗が続いたり、所属していた吹奏楽部でトラブルが続いたせいか、音楽に真剣に取り組まなくなった。そんな娘に対し、男性は親としてどう接すればよいか分からなくなってしまい、親子関係がギクシャクし始めた。そして高校に入学して半年くらい過ぎた頃、娘が同級生とバンド活動を始めたと聞いた。そのとき、どうせやるなら真剣に、失敗のないようにという思いが強く湧いてしまい、つい厳しい言葉をかけてしまったのだという。

「そこで僕、言っちゃったんですよ。素人相手にマウントとってお山の大将かよ、って。文化祭のライブにも出られなかったのかよ、無駄な時間を過ごしてたんじゃないか、って」

「うわぁ〜……ゆっちったんですね。それ絶対アウトですねぇ」

「そうなんすよ、暴言スレスレをゆっちったんですわぁ」

「スレスレどころか、暴言そのものですよ」

 弦自身、言葉のチョイスがおかしいと、妻にたしなめられることも多いが、この男性はそれ以上かもしれない。……だから弦は素直に、呆れた顔を表に出したし、はっきりと意見した。

 もっとも、苦笑いしながらも項垂れている以上、この父親にも後悔の念があるのは明らか。ならば、これ以上彼の過ちを非難する必要はない。それよりも気になるのは、その後の展開だ。

「……で、娘さんは何と?」

「マジギレされました。このダブスタクソ親父とか、クソスペ傍若無人親父とか言われました。挙句の果てに、てめぇの書斎にロケットランチャーぶっ放してやる、って。それ以来、全然口をきいてくれません」

「……残念ですが、当然ですね」

「ですよねぇ〜……」

 臆病な性格の弦は、ここまでの親子喧嘩をした経験はないが、きっと娘と喧嘩をしたら、こんなふうに罵倒されるのだろうと思うと、少し背筋が寒くなった。そして男性の娘も、もしかしたらウチの娘と似たような精神性なのだろうか、とも感じた。

 だからだろうか、弦は、この隣の男性に、さらに興味が湧いてきた。許されるならば、もっと彼と会話を交わして見たいと思った。そしてもう一杯、あとおつまみも少し注文しようか、とも。


♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪


「音楽に関わること以外の道、自分とは別の道に進むとして、僕が娘にアドバイスしてやれることなんて、きっとないんですよ。あんまり真面目な学生時代じゃなかったもんで。だからかもなぁ、逆に音楽の話になると、あれこれ口にしちゃうのは。どうせなら上手くなってほしい、評価されるようになってほしい、って。ついつい欲が出ちゃうんだろうなぁ」

「それ自体は自然な感情だと思いますよ。ただ、現実として、そんな関係になっちゃってる以上、お父さんの希望は一時お休みして、とにかく今は娘さんのバンド活動を認める、見守る、しかないでしょうね。そのためには一度、娘さんと話す必要があるかと。今度は絶対に、娘さんを否定しないように徹底して、です」

「…………あ、やっぱりそうなっちゃう?」

「娘さんとの関係を改善したいのならば。……少なくともバンド活動は犯罪じゃぁないですしね。それと、バンド活動が娘さんの才能を潰すとか、娘さんをダメにするとか、それにメンバーを見下すような言い方とか、絶対言っちゃぁダメですからね」

「ぐぁっ! 痛いとこ突いてくんなぁ!」

「あっ、言い過ぎちゃったらすみません。………でもですよ、家庭内の不仲って、ツラいですよ」

「確かにねぇ〜。俺だって、このままの関係ではいかんと思いますし。……でもなぁ。あ〜、何か話すきっかけがあればいいんですがね。」

「そう思えていれば、まず第一歩踏み出せていると思いますよ。きっかけを逃さず話しましょ。たのしくたのしく、やさしくね」

「善処します。……なんかね、子供って思い通りに成長なんてしないんですねぇ。基本、子育てを妻に任せてきた俺が言うことじゃぁないですけど」

「まぁでも、我が子に必要以上に期待せんでもいいと思いますよ。大体、自分の子供が都合よく成長したりだとか、ましてや自分を超えたり、……そう、例えば自分より出世したりだとかなんて、本当に幸運中の幸運だと思うんです」

「ほぅ……」

「だから、親の希望はさておき、我が子が大きな不満もなく、真っ当にに生活できるようになれれば万々歳だと思います。今の時点ではまず、ちゃんと基礎的な学力と、善悪が判断できれば十分、じゃぁないかなぁ」

「なんと。……何か、目から鱗でした。子育てのことなんて、今まで話題にしたことなかったもんで」

「何か自分なんかの言うことで、すみませんね。偉そうにベラベラ話しちゃって」

「いやいや。耳が痛ェけど、それ以上にありがてぇです。…………すんません、泣き上戸なもんで」

「……恐縮です。あ、でも、自分の子がいつの間にか、自分を超えていることもあると思うんです。絶対」

「……といいますと?」

「例えば、やたらドジな俺と比べると、娘ってしっかりしてるんですよ。その辺は、妻の血を受け継いだんでしょうけど」

「あの……あんた、もしかしてだけど、恐妻家だったりしません? 家庭内の地位、大丈夫?」

「ははっ! ……んなわけないです。んなことより何より、ウチの娘はしっかりしてるし、俺と違って喧嘩できるし、おかしいと思ったことにはきっちり立ち向かえるんです。自分ってものをしっかり持っているんでしょうね。もうそれで充分!」

「なるほど〜。この幸せ者めッ」

「そういや奇遇ですけど、娘も夏頃にバンド組んでみたいで。とりあえず楽しそうにやっているみたいですよ。そーゆうリアルで充実してやがるところも、正直、父親を超えていて…………あ〜くそっ、何か娘にムカついてきた〜」

「ははは、言いますねぇ」

「そちらの娘さんはどうですか? お父さんを超えているなーって思う部分とか」

「えーっと……周りをまとめるときは、冷静で落ち着いた態度でいられるとこ、かなぁ。……妻から話聞いたりとか、通知表に書いてあったりとかの情報なんですけど。そのくらいかな、思いつくのは」

「いやとんでもなく立派な娘さんでしょ! 将来安泰じゃぁないですか!」

「…………ありがとうございます」

「あ、ちなみにですけど、……逆にね、ウチの娘の悪いところ。たまにメチャクチャ暴力的なことをやりすぎるんです」

「……まさか警察沙汰?」

「ははは、それはまだないですけどね。……中学の時、放送室をハイジャックして、ムカつく体育教師をクビにしろ演説事件を起こしたときは、さすがに我が娘ながらイカれたバケモノだと思いましたけどね。まぁ、親として庇いはしましたけど。あんなのはもう、マジ勘弁です」

「……何じゃそれ。マジでイカれてるじゃぁないですか! あんたの家庭こそ子供の躾、大丈夫なん?」

「自信はねぇです、……ははっ」

「っと、人様の娘にイカれてるとかいかんいかん、言い過ぎたわ! ……で、どうっすか。娘さんはかわいいですか?」

「さぁ、あんまりそういう風には考えたことは……ただ、ね」

「ただ?」

「もし娘が悪い男に泣かされたとしたら、その男を呼び出して謝罪させます。でもって、その男がどんな態度であっても、俺はこう言ってやります」

『君が今考えていることを当ててやろうか? ————————だと? 違うね。君は一切、反省なんてしちゃいない。君は今、こんな説教の場なんてさっさと終わってほしいし、さっさと帰りたい、そう考えている。………ん? 違いますだって? どうやら君はこの状況が分かってないようだな。いいか? 君はそう思われても仕方ないくらい俺から信用されてないし、そして俺から軽蔑されてるってことなんだよ。もちろん、これから君がどんな謝罪をしたとしても、俺は君を許さない。一生君を軽蔑する。それを前提に、君の誠意を見せろ。さぁ、君の誠意って何かね? まさかこのまま一生許してもらえないからといって、俺に誠意を示すのを諦めたりなんてするまいな? あ?』

「…………ってな感じで、ね」

「似たもの親子やなぁ! あんたとんでもねぇバケモノだわ!」

「……俺自身はふつーにおとなしく暮らしているつもりなんですけどねぇ。何故か俺、周りから面白い奴扱いされるんですよ、多分悪い意味で」

「いやいや、あんたのこと気に入りましたわ! もしウチの子が誰かに泣かされたら、俺もそんなふうに言ってやろ!」

「……それはやめたほうがいいと思いますし、そちらの娘さんに何もないのが一番です」

「はははっ、ですな。ところで…………」

「おっ、そうきましたか! …………」

「…………」

「……」


♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪


 とりとめのない話題でひたすら盛り上がり、気がつけば予想以上の時間が経過していた。

「ところで、お名前は……」

「おっと失礼。僕、藤守弾(ふじもり だん)といいます。こういう関係のところにいます」

「あっ、どうも。ちなみに自分、鷺沢弦です」

 そろそろ帰らねばとの別れ際。急にかしこまっての名刺交換が始まった。無味乾燥な弦の名刺に反して、弾と名乗って男性のものは、ポップで目を引くデザインだった。

 それにしても彼が、よもや地元FMラジオ局の重役だったとは。特に平日夕方五時からの生放送番組は、運良く定時で業務が終了した弦の、帰宅途中の車内における心のオアシスだ。そのことを伝えると、弾はとても嬉しそうにしており、たまに俺もオンエア中に口を挟むことがあるから、ラジオアプリでじっくり聴いてみてくださいと笑った。


♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪


 帰りは夜十時過ぎ。妻が作ってくれた夕食を摂り、入浴し、明日の仕事に備えて寝ることにした。煙草の匂いは上司のもので、明日スーツをクリーニングに出すと、妻には誤魔化した。


「藤守さん、ね、また、会えるかねぇ〜。…………いや、こちらから連絡とってみるか」

 恥ずかしながら帰宅したタイミングで、藤守という苗字である彼が一体何者なのか、弦はようやく気付いたのだ。

 逆に、彼の方は気付いていないのか、敢えて口にしなかったのかは分からない。だがいずれにせよ、我が娘、鷺沢絢がバンド活動を続ける以上、自分にとって間違いなく無視できない存在なのは、間違いなさそうだ。


(終)

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