Episode:3 救済、それは復讐 part.9

 火曜の夜八時前。香坂優子は駐輪場に向かって、M市駅前から西に延びる大通りを歩いていた。つい先程まで、駅舎内のレストランで、出張に来ていた父親と夕食を取っていたところだ。

 高校進学を期に同居を始めた大好きな叔母とは違い、保守的で堅物、心配性の親と会うのはどうにも気が進まない。とはいえその叔母、霧香ねえちゃんからも、娘としての本分は務めてきなよと諭された以上、親に付き合わないワケにはいかなかった。

 改札まで見送る別れ際に、父親からありがたくも軍資金を貰えた。せっかく街まで来たこともあり、少しだけ通り沿いの大型書店に寄ることにした。


 優子の好きなアニメやイラスト関係のコーナーは、ビルの二階。エスカレーターを登り、フロア中央部に足を進めたところで、近くにある休憩スペースに見知った顔の少女がいるのを見つけた。

「知場さん? こんばんわ」

 所在無さげに長椅子に座っているその少女に優子は近づき、ごく自然に、やわらかな口調で話しかける。その少女、知場降芽は優子のクラスメイトだが、ある日突然教室に姿を見せなくなってから、二週間くらい経過したところだった。

「ッ! …………坂っ」

「ずっと休んでたみたいだけど、どこか具合悪かったの?」

 知場は明らかにビクつき、露骨に挙動不審な態度を示した。

それにも構わず優子は、それなりに近しい立場であればごく自然といってよい言葉をかけるが、対して知場は答えるでもなく、不愉快そうに歯ぎしりしながら、この場から立ち去ろうとした。

「クラスでも皆、心配してたよ?」

 優子の顔は模範的なくらいに、心からあなたを心配しています、といった表情。知場はその視線から顔を背け、震え声で呟いた。

「……お前も陰で私のこと嗤ってんのか? あ?」

「……何のこと? どういうこと?」

「いい子ヅラしやがって! テメェも私をバカにしてんだろ!」

 状況が読み込めていない表情を作った優子に、知場は激昂した。振りかざされた右の平手が、彼女の左頬をぱしいっ、と打ち付けた。

「…………え? ……何? どうして……何で……」

 突然の暴力。怪我には程遠いし、幸い眼鏡も破損していないが、相応の痛みと喫驚はある。その感覚の導くままに、優子は呆然とした表情を浮かべてみせた。何もしてないのに突然この人ぶったよ酷いよ、といったポーズを取ってみせた。

 それを見て我に帰った知場。自分の暴力行為が後で自分自身を不利にすることに気付いたようだ。当然、この場になどいられなくなり、優子を突き飛ばさんとする勢いで、このフロアから足早に立ち去っていった。

 痺れる左頬を押さえながら、階段へ向かって走っていく相手を眺めていた優子。近くにいた他の客に、うるさくしてすみませんでしたと丁寧に会釈。そして自身も、今日はもう帰宅した方がいいだろうと判断した。


♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪


 書店ビルの裏口側にある駐輪場に着いた優子は、前輪と後輪の二箇所を解錠した。

 周囲には誰もいない。仮に誰かいたとしても、夜の闇に紛れて彼女の表情まで見えたりはしないだろう。

「……傑作。ほ〜んっとに無様だったなぁ、知場のゲス野郎の顔」

 独りであることへの安堵。それ故か、優子の顔に作り物でない、心からの笑顔が浮かんできた。先程、彼女に暴力を振るい、そして逃げていった女子生徒への、それは嘲笑だった。


 自分のみならず、想いを寄せている美純螢までも侮辱していた女に、その『つがい』の男。優子にとっては存在してはいけない生物だが、そんな塵屑二粒の命と財産を奪うことを、この国の法は許さない。もし実行すれば、自分と彼の甘美な未来は完全にご破産になる。そう判断できる理性を有しているからこそ、優子は歯がゆい思いをしてきた。

 しかしながら秋が深まりゆく頃、状況は急転した。優子は偶然、校舎裏の非常階段で、知場と男が乳繰り合っているのを目撃してしまった。

 これは合法的に奴等を追い込む好機。すぐさま担任と生徒指導教諭に密告した。当然、自分が密告者だということは口外しないことを念入りに約束させた上で。

 すると知場は程なくして、学校に幾日も姿を見せなくなった。また風の噂で、特別進学科である八組から退学者が出たという話が舞い込んできた。

 推測するに、知場は謹慎処分を受け、その『つがい』の男は退学になったのだろう。自分の密告が効いたのだろう。もしかしたら他の生徒からも密告されていたのかもしれない。むしろその可能性も高い筈だ。


「運命が味方してくれた。なんか上手くいきすぎで怖いな……ふふっ」

 優子は神の慈悲を信じない。かつて、大好きだったもうひとりの『ねえちゃん』が理不尽な死を迎えた経験もあり、神はいるにしても人間には干渉しないもの、というのが持論だ。

 故に彼女が感謝するのは、あくまで運命の悪戯。合法的に復讐できるチャンスが到来し、叶っただけでも晴れやかな気分だが、さらに知場に直接、同情という名の屈辱を与える機会まで訪れようとは。救われた思いと踏み躙る快感が交錯して、どうにも笑いが止まらない。


 帰り道の自転車。登りが急で風にも煽られやすい大きな橋を渡らねばならないが、ペダルを漕ぐ脚は何時にも増して、とても軽やかだった。

 八時半過ぎにマンションに帰宅。霧香ねえちゃんは夜勤で、明日の朝まで帰ってこない。宿題もすぐに終わる量だし、家事もせいぜい洗濯物をたたむくらいだ。

 制服を脱ぎ、手入れと収納をし、いそいそと着替える。暗い配色をした、地味で野暮ったい服装。クラスの女子でも一番の長身と恵体に加え、おとなしい雰囲気の顔立ちもあり、夜間ウォーキングをしている成人女性に見えてもおかしくない姿だ。

 取り急ぎ宿題だけは済ませた、さぁここからはいい子とは程遠い、自分だけの時間。周囲への警戒はしながらも、ごく自然な様子でマンションの出口をくぐり、静かな足取りで、優子は夜の闇へと消えていった。


(終)

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