Episode:3 救済、それは復讐 part.7

 十月も終わろうとしている月曜の放課後。

 週に一日、一時間の練習を終えたPRAYSE。普通であれば六人連れ立って下校するのだが、この日、美純だけは化学職員室に行くため、部室を出る時点で五人に別れを告げた。

 レポートを提出し、化学担当の教員と少し会話し、時刻は七時十五分。窓の外は既に夜。四十分にもなれば下校を促す放送が入り、五十分には下校完了していなければならない。

 美純は通常より遠回りするかたちで、専門教室棟を経由して靴箱に向かうことにした。それは本当になんとなく、特に意味のない行動だった。たまにはいつもとは別の道を通って帰ろう、その程度の考えだった。


 専門教室棟の一階には被服実習室や調理実習室があるが、担当教員は大抵、五時過ぎには帰宅してしまう。校内で部活動が始まってから翌朝になるまで、誰もいないのが常だ。

 最低限の照明の下、暗くひんやりとした空間を歩く。ただそれだけのことを楽しもうとした美純。だが彼はそこで、思いがけない事態に遭遇することになった。


「…………?」

 被服実習室から何か物音がするのが聞こえた。動物の侵入か、それとも盗人か。恐怖こそわずかにあったが、それを上回る好奇心に突き動かされ、足音を鳴らさぬよう慎重に近付いていった。

 一切の灯りがない実習室。曇り硝子に阻まれ、その中を観ることはできない。だが、そこからはあまりにも不自然な音、いや声、人間の声が二つ。それが意味するところは————


————馬鹿か! 『こいつ』は学校でなんて馬鹿なマネをしているんだ!


 男の唸り声と女の喘ぎ声。中で繰り広げられているのはもしかしなくても、いわゆる性交、不純異性交遊、おせっせクロス。県立高校の校舎内で実行するなど、あまりに非常識な行動だ。

 とはいえ盗みや殺しといった事件性のあるものではない。両方、ケダモノの声を上げている時点で、合意の上なのだろう。所詮は阿呆がトチ狂った行為をしているだけ。余計なトラブルを回避するためにも、放っておくのが定石だ。

 だが美純は、さらにとんでもない事実に気付いてもいた。女の方は知らないが、男の方はよく知っている声。しかも、美純にとって極めて好ましくない存在だった。

 かつて『そいつ』から受けてきた仕打ちの数々が、美純の脳内にフラッシュバック。怒り、呆れ、彼の精神は酷くドス黒い感情に埋め尽くされ、そして瞬時にある解答を出した。————これは、復讐のチャンスだ。

 迷いはしなかった。というより、何も考えられなかった。足音が届かないであろう距離まで摺り足で離れ、そして足早に、職員室へと向かった。


♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪


 定時を過ぎてなお、進学校たる職員室には、まだ半数の教職員が残っていた。幸い、担任の生物教諭・瑛須も、課題作成のために残業している途中だった。

 その担任に、すみませんが質問があると申し出た。快く応じてくれた担任を前に、メモとペンを取り出し、最低限伝わればいいや程度の汚い文章を書き殴った。

(すみません。本当は勉強の質問ではなく、校内で今、生徒の問題行動が行われていることを伝えにきました)

「!」

(家庭科室に忍び込んで、怒臨房と俺の知らない生徒が不純異性交遊をしています)

「……お、おぉ」

 担任にとっては寝耳に水。生まれてこの方、法令と一般常識を重んじ生きて来たであろう、真面目一徹のステレオタイプな教師だ、当然驚くだろうと美純も感じた。

「……わかった。難問だなこれは。この質問は預かって、また明日回答するよ。今日はもう帰りなさい」

それでもこちらが嘘をついていないと伝わったのだろう。美純の意図は伝わったようだ。担任もこれまでの経緯を把握している以上、少なくとも相応の対応はしてくれそうだ。


 これ以上は、もうやることはない。現場に立ち会う必要もない。美純は不審がられないようにごく普通の速度で、下駄箱へと足を進めた。

校門を通過した後、寮までおよそ四百メートルの距離がある通学路に入った美純は、歩行速度を上げた。いや、歩行というより小走りになった。何時も以上に短い空間が暗く、妙に圧迫してくるように感じられた。


♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪


帰り着いた後は周りに不信がられないように平静を装い、夕食を掻き込み、入浴し、自室に篭ってがっちりと施錠した。ベッドに寝転び毛布を引っ被り、両腕で頭を抱え込んだ。


————俺は、やってしまった。怒臨房流のバカな行為を密告してしまった。


 もしかしてヤツに自分の姿を見られていないだろうか。担任への密告がバレていないだろうか。つい一時間前まで、復讐の好機に昂っていたのが今は、ただひたすら不安に押し潰されそうだ。

 最早寮生ではない怒臨房が、わざわざ寮まで報復に来るとは思えない。だが理屈でない不安は拭えない。とにかく我が身を護りたい。

 その日の宿題を完了させても、まだ手が震える。自学自習などとてもやる気にはなれない。

 お気に入りのバンドの、比較的落ち着いた作風のアルバムを通しで聴いても、まだ恐怖は治らない。

 気が付けば午前一時半。築五十年の木造でセキュリティの甘い寮を抜け出した。スカした顔を作ってコンビニでスナック菓子と炭酸飲料を購入し、自室に戻って口にした。それでどうにか、気を鎮めることはできた。


♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪


 翌日火曜。幾分落ち着きはしたが、登校する気になどとてもなれない朝。それでも定刻ギリギリで教室に入り、着席した。

 周囲の空気感は特に変わりないようだった。そしてあの男の姿は見えない。普段あの男と親しげにしている生徒も、また休みかよと大して気に留めていないようだった。まだ油断はできないが、それでも必要以上に精神力をすり減らす必要はなさそうだ。


 水曜、木曜と同じような時間を経て、金曜の放課後ホームルーム。

 担任からの連絡事項の最後に、クラスメイトである怒臨房流が、一身上の都合により自主退学したことが告げられた。

 ざわつく教室。飛び交う言葉。聞き耳を立てて推測するに、事の顛末をすべて知っている生徒は、美純だけのようだった。

 ただでさえ他生徒に対する金銭トラブルを引き起こし、あまつさえ暴力行為に手を染め、自宅謹慎と退寮という処分を受けた。それからたった二ヶ月強で、校内における不純異性交遊の現行犯ともなれば、いくら保守的で臭いものに蓋をしそうな学校側とはいえ、庇いきれなかったということだろう。

 いずれにせよ、憶測や噂が飛び交う空間には、とにかく一秒でもいたくなかった。


 美純は終業のチャイムと同時に教室を飛び出した。

彼の思考回路はグチャグチャに掻き回されていた。次から次へと湧き上がる言語化できない感情の濃度は凄い勢いで高まり、暴力的衝動の突沸を引き起こした。

カッとなって廊下の柱を蹴ってしまった、それも二回も。さらに自分の右側頭部をぴしゃりと平手打ち。その様子に近くの生徒が驚いていたようだが、彼には気にする余裕もない。

 そうこうしながら気がつけば、その足は何時ものように部室に向かっていた。

「くくく……どうした? 随分無法状態だな。まるでキレたときの鷺沢じゃぁねぇか」

「オイオイ、無くしてた傷跡が覚醒したとかマキちゃんみてぇなこと言うなよな? で、どうした?」

 そして部室の前には丁度、何時ぞやと同じように、眞北と喬松がいた。


♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪


「……俺は、人間ひとりの人生を破壊した。台無しにした」

 美純が事の経緯を説明し終えた直後、眞北と喬松は、表情を明るくした。

「おおっ、マジか! 良かったなそりゃあ!」

「よっしゃ、コンビニ行こうぜ。祝杯だ祝杯」

「おい待てコラそうじゃあねえだろっ!」

 普段ならば使わない口汚い言葉で、衝動的にツッコミをかます美純だったが、それでも一呼吸置いて、どうにか普段使いの仮面を作り直した。

「…………失礼。とにかくだ。ここからは俺の私見を聞いてほしい」

「お、おぅ……わかったッ」

「すまん、とにかく話を聞こうか……」


 それから美純は、やり場のない感情をありったけ吐き出していった。

 怒臨房のことは憎いと思っていた。地べたに這いつくばらせて謝罪させてやりたかった。多額の慰謝料をふんだくりたかったし、その上で死んでくれれば万々歳。そう思っていた筈だ。だから奴の校内ウコチャヌプコロを復讐の好機だと思い、担任に密告してやった。

 だがその結果、現実で起こり得る最悪レベルの裁定が下って、実際はどうだ。全くもって気が晴れない。そればかりか、後悔を抱いてすらいる。

 高校中退者という周囲から白い目で見られるであろう烙印が、奴には押し付けられた。きっと奴の親は悲しむだろう。家庭内の不和を生み、一家離散になるかもしれない。

 そんな烙印を押し付けたのは、他ならぬ俺。相手の人生を左右することを自覚せず、自分の復讐ばかりを考えた、軽はずみな行動だった。果たして奴を貶める資格が、俺にあったのか。

 だいたい思い返してみれば、俺はなんて一貫性のない人間なんだ。まずは加害者に怯え、自分の親にも怯えた。加害者を強く憎みはしたが、自身の窮状を訴える場においてすら、雰囲気に流され情けをかけてしまった。その情けも結局は、すぐに憎しみに変わってしまった。さらに復讐する高揚と、報復への恐れ。そして今は、後ろめたさ。

 もう分かっただろう? 俺はいつも後先考えずに行動するし、先をまるで読めていない。臆病だし、自分というものの芯を持っていない。ブレない人間像が美徳とされる世界で、俺はいわゆる落伍者というやつだ。そうだ俺は————


「きみはじつにばかだなー」

「いや、その理屈はおかしい」

「ちょっと待てコラァ!」

 呪詛にも似た美純の心情吐露は、今回は聞き手二人には随分と軽く扱われた。またもカッとなってしまう美純だが、眞北はこの時は動じず、

「まぁまぁ。最初はビックリしたがよ、逆にお前もそういう風にブチ切れられると分かって俺様は嬉しいぜ」

と、余裕の笑みで返すのだった。

 そこに喬松は、すまん馬鹿は言い過ぎだったなと眞北を軽く引っ叩き、美純に話しかけてきた。

「考えてみろって。だいたい、退学決めたのは先生の側だろ? だったら責任感じて悩むべきは先生達だし、よっすぃーが背負うことじゃぁ全然ねぇよ。それか、今から先生に頼んでみるか? チクった罪悪感に潰されそうだから、今からドキュンちゃんの退学取り消してもらえませんか、ってよ」

「む…………」

「それによ、高校は義務教育じゃあない分、たしか転編入の制度ってのもあるんだろ? やり直しの機会がある分、高校を退学するなんて人生破滅には程遠いんじゃね? つーか、やり直せなかったら単にドキュンちゃんの責任でしょ?」

「…………」

 筋の通った話に、美純は一切反論できない。今度は喬松の言うことが正しいのだろうと気持ちが揺らぐ。そして生じる自己嫌悪。やはり俺は臆病で流されやすく、主体性を持たない人間だ————そんな言葉を漏らしてしまった美純を前に、眞北の顔が変わった。わざとらしいくらいに怒気を纏わせた様子で、デスク対面の美純へと真っ直ぐに身を乗り出した。

「そこまでだ! いいか美純螢コンチクショウ、俺様の言うことをよーく聞きやがれ! おめーはなぁ、せっかく復讐を果たせたんだ。正義は執行されたんだ。それにおめーのためにお家の方も来てくれたんだろ? だからおめーがやるべきことは、ザマみろ&スカッとサワヤカな気分で、ドキュンボーをゲシゲシ踏みつけて高笑いしてやること、それだけだっ! だのに! もう焼却処分しちまったゴミクズに勝手に同情してネチネチいちゃいちゃ粘着するだなんてよぉ〜。俺様という者がそばにいながらこのゲス不倫野郎がッッ」

「…………ぅ」

 喬松の話以上に、何も言い返せない。正直なところ美純は、眞北からのお叱りに気圧されていた。一方で、そのお叱りの中に、こちらへの気遣いが含まれていることにも気付いたから、反論もできないのだ。

 おいおい怖がってるだろと喬松が諌めるも、度を越したお人好しのこいつにはこうでも言わないとダメだと、眞北は譲らない。さらに。

「よっすぃー。どうやらおめーは自分の立場がまだ分かってねぇみてぇだ。それをワカラセるために、ちょっと俺様にいーい考えがある」

 一体何を計画しているんだと眉をひそめる喬松と、震えながらも首をかしげる美純。その反応を待っていたとばかりに、眞北は不気味な程に自信満々な表情を浮かべた。

「詳しくは女子たち全員が揃ったら話すが、近々お楽しみがあるみたいだ。だから今日は、その作戦会議をしてぇ」

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