Episode:1 トラスト・ナンバー1 part.4

 県内随一の進学実績を誇る特別進学科である、一年八組の教室。夕方六時を過ぎた教室で自分の席に突っ伏し、美純はひとり、数学の課題を解いていた。

「悪い。美純、ちょっと時間を貸して」

「鷺沢さん……尋問が始まるのか?」

 そんな彼の前の席の椅子を勢い任せに引き出し、絢はどかりと座り込む。その表情は、かなりピリピリした剣幕。美純のように女性慣れしていない大半の男子高校生からすれば、嬉しいというよりは恐怖を覚えることだろう。

 そんな彼の気持ちを察したのか、絢は言葉を選び、敵意の無さをアピールすることから切り出すのだった。

「違う、逆。美純、あんたを救いたい」

「……俺を救う、と」

「そう。あんたは今、何か悩んでる。でも隠してるだろ」

「……別に、何も」

 寡黙な態度の割に、美純は隠し事ができない性格。その証拠に、口元をギリギリモゴモゴとさせ、絢から視線を逸らしている。心が秘密を打ち明ける方向に靡いているのだろうか。少なくとも動揺はしているようだ。

「何時もなら、あんたはまず眞北か喬松に話すと思う。だけど、二人とも何も知らない様子だった。となると、二人には知られたくない話題な筈。いや、他人に言いふらしちゃいけないような、誰かのプライバシーに関わることとかかな?」

 絢は、他人の気持ちや考えを察することに関しては、非常にカンが冴える。同時に、仲間の長所をしっかり把握できる観察眼もあるし、それなりに説得力のある話もできる。

「美純、あんたは他人の噂をあれこれ言いふらすような奴じゃぁない。だから苦しんでる。そうじゃない?」

「いや、それは……」

 人は誰かからプラスの評価を与えられたならば、心を打ち明けたくなってしまうもの。それでもまだ、美純は決して語るまいと踏み留まっている。絢は彼のことを強情だとは思わない、きっとこれは彼の真面目さ故だ。これ以上、相手から話させるように仕向けるのは、最早無礼というものだ。

「おっけ。じゃあはっきり言うよ。昨日ブラキン……ええっと、黒王のヤツに何を言われた?」

「!」

「あたしは見た。あんたがヤツに絡まれてるのを。そのときの事を覚えてる限り全部、そのまま話してほしい。全部だ。いい?」

「……っ、わかった。話す」

 具体的な事実について言及されれば、最早隠すことはできないと判断した様子だ。

 だが、美純はある条件を提示した。

「……ただし話すのは鷺沢さんだけだ。頼む」

 彼は自分達以外の存在に気付いていた。当事者ではない者に話を聞かれることを、良しとしなかった。

「ごめん。悪いけどあたしだけ、らしいから」

 一瞬、やれやれと苦笑いしながら、絢は表情と首から上の挙動で、入口から顔を覗かせている千里と優子を牽制した。あららバレていたかと素直に引き下がるふたりを確認したところで、絢はさぁ話してと命じた。


♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪


 昨日の放課後、職員室に数学の質問をした帰りの美純は、部活動の関係で同じく職員室を訪れていた黒王と鉢合わせてしまった。元々馬の合わない相手なので関わりたくなかったが、強引で馴れ馴れしい彼に、無理やり絡まれたのだった。

「よぉよぉ美純、お前バンド組んでんだって? しかもヴィジュアル系の」

 黒王夏来の趣味や価値観は、世間の流行に極めて近い。それだけならまだ良いが、彼は少数派の趣味や価値観を軽視し、それらを嘲笑しても何ら心が痛まない性格。今更そんなジャンルは流行らないし痛いだの、現在人気のバンドの曲をやったらどうかだの、そっかお前には最近の曲は難しすぎるかごめんごめんだの、……黒王の口から吐き出されたのは案の定、誰の何の得にもならない悪口ばかりだ。

 美純は反撃しなかった。恐怖もあったし、此処で刃向かっても自分の立場を悪くするだけと判断したからだった。まず腕っ節では絶対に敵わないし、更にこの男は交友関係も広い。そんな人間を敵に回せば、多勢に無勢となりかねないのだ。

 からかいやちょっかいは無視しろ。――――誰かに嫌な思いをされたとき、決まって大人達から言われる常套句。誠に遺憾ながらも美純はそれに従い、黙って黒王から距離を取ろうとした。


「待ーてーよっ! まぁ聞けよ」

 だが、嘲笑は本題ではなかったようだ。逃げようとする小柄な美純の肩をがしっと掴み、黒王は一方的に話しかけた。

「そーいや噂で聞いたんだけどよぉ、鷺沢絢って女がメンバーにいるんじゃね?」

「……それが何か?」

「鷺沢はよぉ、俺の元カノ」

「は?」

 コイツは何を言っているんだ。鷺沢さんがかつてこの男と付き合っていた? 確かに驚いたし気にならないといえば嘘になるが、メンバーのプライベートに踏み込むべきではないだろう。しかし解せない。今は関係が解消されている相手との話を、何故それを無関係な俺に言うんだ。――――そんな美純の混乱をよそに、黒王は相手の正面に向き直り、下卑た嗤い顔を浮かべながら、

「羨ましいだろ、童貞クンのお前には。ディープキスもしたぜ〜、何度も何度も濃厚なヤツをよォ〜。レロレロレロレロレロレロレロレロレロレロレロレロレロレロレロレロレロレロレロレロレロレロレロレロレロレロレロレロレロレロレロレロレロレロレロレロレロレロレロレロレロレロレロレロレロレロレロレロレロレロレロレロレロレロレロレロレロ」

そんな風に、ふざけた音声と生臭く湿った吐息混じりに、舌先を震わせるのだった。


「…………ッッ、もう帰る。用事がある」

 美純は逃げた。今度こそ本気で、退避した。

 こちらの不快感が通じているのかいないのか、確認する気にもならない。ひたすらに、気持ちが悪かった。兎にも角にもこの場から離れなければ、まともな精神を維持できそうになかった。


 寮に帰ってきて尚、美純の心は晴れなかった。

 内容の真偽はどうあれ黒王は、第三者のプライベートに関わる内容を勝手に話していた。はっきり言って、それは侮辱だ。だがその侮辱に、自分は面と向かって声を上げられなかった。そんなこと言うのはよくないよと諫めることすらできなかったことに対して、自己嫌悪に陥ってしまった。

 以前より抱えてきた寮内でのトラブルが、保護者や担任も絡んでの大ごとになり、心労が祟っていた。そんな美純にとって泣きっ面に蜂とはこのことだ。

後悔と情けなさをどう処理すれば、誰にぶつければいいのか。他人の秘密故に、誰かに打ち明けることもできないのに。

そんなどうしようもない燻りが、美純の不調の理由だった。


♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪


「くそッ! ブラキンあの野郎ッ! 何処だッッ」

 絢は激昂した。他に教室に誰もいないのをいいことに、それまで座らせて貰っていた顔も名前も知らない生徒の椅子を蹴り飛ばし、燻んだビニール床を何度も踏み付けた。

「…………ぁ………………めんなさ…………」

 そんな彼女の憤怒を目の当たりにし、美純は怖張り硬直した。結果的に絢を激怒させてしまったと感じた。いつもの無理に作ったような鉄面皮とは全く違う、怯える仔鹿のような顔で、言葉にならない詫びを口にした。

「……っと、悪かった。あんたのせいじゃないから。まずは話を聞いてくれ」

 そんな顔をされて流石にバツが悪くなったのか、深呼吸を三回で、やっとで理性を取り戻した絢。少なくとも目の前のメンバーに対しては、説明する責任がありそうだからだった。


「……えーっとアレだわ。確かにあたし、ブラキンとは昔のダチの紹介で二回くらい出掛けたことあるけど、付き合ってもないしそんなことしてもいないから。その辺は、どうか勘違いしないでほしい」

「そう、だったのか……」

「あたし、あんな男は大嫌い。あたしを信じてくれ」

「承知。信じる。ごめんなさい……何も、できなくて」

「だからあんたは何も悪くない! 逆にアタシこそ、あそこで飛び出してたら、何とかなったかもしれないのに」

「いや、そもそもが俺がしっかりしていれば」

 ともかく、メンバーの不調の原因は分かった。誤解も解けた。ならばもう、此処でこれ以上会話する必要はない。思っていた以上に女々しい性格をしていたメンバーを気遣う余裕など、今の絢には残されていない。

「あぁもうこの話はおしまいッ! どー考えても悪いのはブラキンじゃないかっ。アイツが死ねば済む話だッ」

 自分から話しかけておいて何だが、一方的に話を打ち切る。ブラキンへの怒り第二波は既に臨界点を迎え、今にも爆発しそうなのだ。

「じゃ、あたし帰るから。明日からふつーに生活してくれていいから、じゃぁね」

 それだけどうにか口にし、絢は振り返ることなく、教室を後にした。ドグサレがと一言叫びながら、破損させるのも気にせず、力任せにぴしゃりと扉を閉めた。


♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪


 千里、そして優子は、室内で行われた会話に、こっそりと聞き耳を立てていた。内容の殆どは聞き取れなかったものの、以前に友人の愚痴に登場した、黒王夏来という男が原因だということだけは理解できた。

 その友人が、こちらの存在を気にも留めず、呼びかけにも答えず、八組の教室から飛び出してきた。彼女の顔は、破壊衝動を解き放つべき時まで拘束し続けている、人工的で不自然な無表情。それが意味するのは、彼女が今正に、暴力を実行に移そうとしている事実だ。ヤバい、これはヤバい。

「優子、私は絢を何とかする! あなたは美純君と帰ってて! あと部室の鍵返却もお願い!」

 今後のことを指示した時には既に、絢は階段を駆け登り、姿を消していた。急いで追いつかなければ。絢の行きそうな場所、やりそうなことは何かを予測する。技術室か、家庭科室か、まさか化学準備室か。とにかく何処か空いている実習教室から凶器になりそうな物を強奪し、男子バスケ部が練習している体育館に単身襲撃を仕掛けようとしているのだろう。

 此処で止めなければ、私が止めなければ。千里に使命感が一気に湧き上がった。これは私にしかできない、誰にも任せられないことなのだ、と。

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