何度も飛び降りる男

『○○市精神保健福祉センター健康相談事例集』より抜粋。


相談者:30歳代主婦


私は今年で10歳になる娘と一緒にアパートで暮らしているのですが、その娘が時々怖いことを言うんです。私たちはアパートの4階に住んでいて、外の景色もきれいで日当たりもいい、非常に理想的な部屋に住んでいるのですが、娘が時折ぼーっと窓の外を見つめているのです。最初はただただ外の景色を見ているだけだと思っていたのですが、ある時私は娘に聞いてみました。「なにを見てるの?」と。すると娘は、「見てるんじゃないよ」と言うんです。それで私が「嘘ばっかり。何か見てるんでしょ?お母さんに教えて?」と聞き返すと、娘が言ったんです。「見てるんじゃなくて、見られてるんだよ」と…。その言葉を聞いて私は背筋がぞっとし、そのまま娘を窓際から急いでどかせて自分が外を覗いてみました。というのも、どこからか私たちの事を覗く覗き魔がいるんじゃないかと思ったからです。

しかし、探してみてもそれらしい人物はいませんでした。それで私は娘に、「その人はどこにいるの?」と聞いたんです。そしたら娘はある方向を指さして、こう言いました。「あそこだよ」と。娘が指さしたのは窓の上でした。そこから娘は、自分の見たものを詳しく話し始めました。

娘によると、毎日同じ時間に同じ男性が、窓の外から中にいる私たちの事を覗いていくというのです。それも、ただ覗くのではないと。その男性は私たちのいる階よりも上からさかさまに落下していって、その過程で私たちの事を覗いていくのだと…。

ただ、母親として娘の言う事を疑いたくはないのですが、どう考えてもその説明はおかしいのです。だって本当に男性が落下していったのなら大問題ですよね?頭から落ちたならきっと即死でしょうし、そんなことが本当に起こっていたならこのアパートに住んでいて知らずに済むはずがありません。仮にその男性が非常に体が強い人であって、飛び降りても怪我無く終えることができたとしても、毎日毎日私たちの部屋をのぞくために危険を冒すことなどありえないと思うのです。それならもっと安全で間違いのない覗き方がいくらでもあると思いますし。

ですので、私は娘がなにかの病気で幻覚を見ているように思えてならないのです。しかしそのようなことを直接娘に言い出すことも難しく、主人にも相談できないでいます。そこでぜひ専門の先生のお話をここでお伺いできればと思い、相談させていただくこととしました。なにとぞよろしくお願いいたします。


担当者所見

メッセージ拝見しました。正直なところ、私にもお子様は幻覚を見ているように思われます。お母様からお話しいただいたアパートにおける状況が本当であるなら、やはり現実的に考えて覗き魔が飛び降りを図っているとは思えません。現実にその男性の事例が問題化していないという事を考えても、やはりその男性はお子様の中にだけ存在しているもののように見え受けられます。

しかし、悲観的になられる必要はありません。10歳程度のお子様が幻覚を見たり、幻聴を聴いたりするという事自体は、特別珍しいものではありません。例えば、虫を苦手とする子どもは何もいない壁を見て虫が出たと言ったり、ただの黒いシミを見てそれが虫であると誤認したりすることがあります。過去に大人から暴力を振るわれたりした子どもは、そこに誰もいないのに大人がいると言って泣き出したりすることもあります。相談者様のお子様もそれらの類似の症状と考えられ、過去におけるなんらかのトラウマ的事象と関連している可能性があります。であるならば、いたずらにお子様の事を怖く感じて不安を煽ったりする必要はありません、これらは認知行動療法を中心とした医療的介入により、きちんと治療を行うことが可能な状態であることが多いです。まずはお子様の思いをしっかりと受け止めてあげたうえで、信頼できる小児科医や心療内科医、あるいはカウンセラーの元に向かわれることをおすすめいたします。



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【出典】

村上幸次・佐藤昌大『○○市精神保健福祉センター健康相談事例集』総合医療社,2011,p102

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