第1章 二度目の結婚

第1話 帰郷してすぐにこれは困ります

穏やかな午後。かぐわしいローズマリーの香りに包まれて、サフィラはゆったりと一人でティータイムを過ごしていた。しばらく降り続いた雪もやみ、冬の日差しが空を輝かせていた。けれど空気はきんと冷たく、コートやマフは必須である。


「ありがとう、アメリ」

 サフィラは空になったカップに紅茶を注いでくれる、中年のメイドに微笑みかけた。

「いいえ、お嬢様」

 サフィラが幼いころから仕えているアメリは、しゃきっと背筋を伸ばした中堅メイドである。彼女は、サフィラが18になった今でも子供の頃のようにお嬢様と呼んでくる。彼女にとっては、まだまだ幼い子供のままなのだろうな、とサフィラは苦笑した。


 サフィラが伯爵家に出戻ってから3カ月。

 一族の恥として責められてもしかたないと覚悟していたが、それは杞憂に終わった。父と母は、サフィラが手紙で「性格の不一致」という抽象的な説明をしたきり何も聞かずに出戻ってきた娘を温かく迎え入れ、何事もなかったかのように普段通りの生活をさせてくれた。懐かしい古株のメイドたちとも再会し、サフィラは離婚の衝撃と苦しみから少しずつ解放されつつあった。


「この庭、少しも変わってない。私が嫁いだ時のままの美しさね」

「お嬢様のために作られた庭ですから。毎日ジョンが欠かさず手入れしておりますわ」


 そうだった。このローズマリーがたくさん植えられた庭は、サフィラが生まれた時に作られた庭だった。サフィラの部屋に面したところにあるこの庭は、幼いサフィラの絶好の遊び場所になっていたものだ。


「本当に何もかもが懐かしいわ」


 そっと紅茶をすすり、ふっと息をついた。


「……これからもずっと、ここにいらっしゃっていいんですよ。私たちが一生懸命お世話させていただきますから」


 そんなアメリの言葉に胸が熱くなったが、同時に苦しくなる。


(ここにいたいけど、離婚歴のある女なんて厄介なだけ)


 母も父も、そんなことは絶対に口に出さないだろう。メイドたちも心を込めて尽くしてくれるだろう。けれど絶対に自分は耐えられなくなる。その優しさが徐々に自分の首を絞める縄になることは目に見えていた。そしていつしか息もできなくなる。


 離婚した女性にはもう未来がない。誰からも求めらない。よほどの物好きでない限り、一度手の付けられた女を配偶者にしようなどと誰も考えないだろう。つまり、サフィラはもう女としての役目を果たせない。それどころか実家に戻って厄介になることしかできない。


 サフィラのことは貴族界でしばらく噂になるはずだ。事実にどんどん尾ひれがつけられて大きくなり、そのうち手に負えなくなる。それを考えると今すぐ地面に身体を投げ出して、どこまでも沈んでいきたくなるような倦怠感に襲われる。


 そうして伯爵家に迷惑をかけるくらいなら、苦しい思いをしたままでも公爵家で過ごした方がましだった。


 冷たい風が吹き、サフィラはぎゅっと肩を抱き寄せる。



「サフィラ、話があるんだ」


 そう父がためらいがちに話を切り出したのは、ひっそりとした朝食の席だった。家族3人にしては広すぎるホールである。ときおりメイドや料理人たちが行き来するほかは、かちゃかちゃと食器がぶつかり合う音だけが響いていた。


「……?」

 

 サラダを取り分ける手を止め、サフィラは父と視線を合わせる。母がとがめるような目で父を軽くにらんでいた。


「どうかしましたか?」

「それがな、お前と結婚したいという方がいるんだ」


 長い沈黙が訪れる。身動きすることすらためらわれるような張り詰めた空気に、部屋中が凍り付く。


「……ど、どなたですか」


 喉が干上がったように乾き、舌がもつれそうになる。心臓がバクバクと激しく脈打ち、サフィラは右手でぎゅっと胸元を抑えた。


「ミハイル・フォーサイス様だ」

「どうしてあの方が私なんかを……」


 フォーサイス家はミアストーン領よりはるかに寒い北の地を治める一族だ。1年を通して寒く、雪が解けるのは初夏に入るころだという。フォーサイス領は北方の大国アイデルと接しており、王国の3分の1の勢力がフォーサイスに集められているほど大切な要所である。フォーサイス家は100年以上前から辺境伯の称号を与えられている名家だが、社交会にめったに顔を出さないことで有名だった。だから、サフィラは現当主であるミハイルに会ったこともないばかりか、顔を見たことすらない。


「ミハイル様は今年二十歳になられたばかりだそうだが、立派に領地を治めておられる立派な方だ。公爵閣下と離れてから――その、いろいろと考えることもあるだろう。どうするかはお前に任せようと思う」


 父はそう締めくくり、母が不安そうな目をむけてきた。


「無理にまた嫁がなくてもいいのよ。ずっとここにいればいいし……」


(私は――)


 今、普通ではありえないことが起こっているのだ。ミハイルという人物がどんな人物なのかも、何を思って求婚してきたのかもわからない。何も把握できていないうちは何も決められない。


(離婚して1年もたたないうちから再婚なんて、世間が何を言うか)


 サフィラが浮気をしていたと決めつけられるに決まっている。伯爵家への風当たりは今まで以上に強くなるに違いない。


(なんて非常識なの)


 ぎゅっと眉を寄せ、サフィラは考える。


(だけど、私と再婚したいなんて願ってもないことだわ。ここで嫁がなければ、一生この家で迷惑をかけることになる)


 父がどこからか封筒に入った手紙を取り出し、サフィラに差し出した。


「お前宛に届いていたものだ」


 手紙を受け取って裏返すと、鷲が翼を広げている封蝋が目に入った。フォーサイス家の紋章である。細く少し尖った文字で、ミハイル・フォーサイスとサインされていた。手紙を開くなり目に入ったのは、硬い文字で記された熱い言葉の数々だった。


『サフィラ・ミアストーン様


 この度のことに触れるつもりはありません。ただ、あなたのことを幼いころから恋い慕っていたと伝えたかったのです。あなたを今すぐ私の妻にしなければ、白銀天使と呼ばれたあなたのことです。すぐにほかの殿方に奪われてしまうでしょう――』


 それから先は読めなかった。サフィラは真っ赤になって手紙を閉じ、大きく深呼吸する。白銀天使なんて、ここしばらく耳にしていなかったのに。サフィラは白銀の髪と碧眼から、誰からともなくそう呼ばれていた。両親は誇りにしていたようだが、サフィラはただただ恥ずかしさを感じるだけである。


 非常識なことには変わりがないが、まだ気持ちを知ることが出来ただけましだ。サフィラは真っ赤になりながらも背筋を伸ばし、落ち着いた声が出るように努力する。


「わかりました。この件、考えさせていただきます」


 そう言うなり、サフィラはあえて無言で料理を引き寄せたのだった。

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