白銀天使の二度目の結婚

七沢ななせ

一度目の結婚

 もう限界だった。


 サフィラ・ミアストーンは大きなため息をつき、たっぷりとしたドレスのスカートの下で、ぎりぎりとこぶしを握り締めた。

(信じられない。よりによってこの日に……)

 広い部屋の中で一人ぼっちで、サフィラは二度目の結婚記念日を過ごしていた。そこにはともに記念日を祝うべきである夫の姿はない。大きなケーキも、百本のバラの花束もない。それどころか、今までにないほど孤独な夜だった。


「あの人でなし……」


 怒りのあまり、令嬢らしからぬ汚い言葉が飛び出した。今頃、浮気相手の男爵令嬢と甘い言葉をささやき合っているに違いない。夫である公爵ジョナサンが、数か月前からおかしな挙動を見せ始めていることに、サフィラはちゃんと気付いていた。秘密裏に探らせたところ、あろうことか男爵家の娘とベッドを共にしていることも判明した始末である。


「もう、最悪よ――」


 サフィラはうめくようにつぶやき、両手で顔を覆った。


 心のどこかでまだジョナサンを信じていたことを悟って、いっそう惨めな気持ちになる。せめて隠そうとしてほしかった。せめて記念日くらいは出席して、嘘でもいいから愛していると言ってほしかった。こんなにひどいことをされているのに、彼を嫌いになり切れない自分に心底腹が立った。


「サフィラ、君の瞳はまるで、太陽の光をうつして輝く空のようだ」


 出会ったばかりの頃、そうサフィラの瞳をうっとりと見つめたジョナサンの声が耳に響いた。


「君を誰よりも愛している。だから一生そばにいてほしい」


 プロポーズされたときは天にも舞い上がるほどうれしかった。初めて交わした口づけは、どんな蜜よりも甘かった。ほんの前までは、壊れ物を扱うようにサフィラの肌に指を滑らせてきたのに。


 けれど、そんな思いでも今となっては儚い夢のようなもの。そして2度と見ることができない夢だ。


 深いため息をつき、テーブルの上に置いてあった小さな箱に目をやる。今日のために準備した、夫へのプレゼント。もう少しで訪れる冬に備えて、街から取り寄せた絹の手袋だ。本当なら手編みしたかったのだが、浮気をされている手前、さすがにそこまで尽くしてやるのは癪だった。


(これも、無駄になってしまうのね)


 慰めてくれる相手もなく、たった1人で、受け取られることのないプレゼントを見つめていたら、ぎゅっと目の奥が痛んだ。


(これじゃ私、バカみたい‥‥‥)


 たった1人で期待して、そして1人で打ちのめされて。どんなに心を尽くしても、もう返ってくることはないとわかっていたのに。


 こぼれ落ちそうになる涙をぐっと堪えたその時、ドアが開く音がした。


「こんなところでなにをしている?」


 突然夫の声が響き、サフィラははっと顔をあげた。訝しげな顔をした夫が、ドアの前に立っていた。不自然にシャツの襟もとが乱れていることに気付いたが、サフィラは気づかないふりをして唇に笑みを浮かべた。冷たい視線を向けてくる彼の瞳にあるのは、愛情でも優しさでもない。わかっていたことだけれど、やっぱり傷ついてしまう。


「い、いえ。今日は記念日ですので」

「記念日?」


 いぶかしげに眉を顰めたジョナサンに、サフィラは立ち上がって怒鳴り散らしたくなる。


(嘘つき。ほんとはわかってるくせに!)


 けれどそんなことはおくびにも出さず、にこやかに微笑んでみせた。


「はい。せっかくですからお祝いしようと思って。ほら、ここにプレゼントも用意して」

「必要ない」


 容赦なく叩きつけられた言葉に、サフィラは続きを言えなくなる。


「いちいち面倒なことをするな。私は忙しいんだ、記念日だがなんだか知らんが、おまえに構っている暇などない」


 汚物を見るような目でサフィラを見下ろし、ため息をつく。


「わかったらさっさと部屋に戻れ」


 ぎりぎりと、限界に擦り切れていた紐が徐々にちぎれていく。ぎゅっと拳を握り締め、歯を食いしばる。山盛りになっていた透明な雫が、今にも決壊しそうに震える。


「嘘つき」


 ぷちん、と音がして、心の中で何かが切れた。


「は?」

「嘘つき‼︎」


 サフィラは乱暴にプレゼントを引っ掴むと、ばしんと夫に向かって投げつけた。


「もう耐えられない! 私に愛してると言ったのは嘘。今まで過ごしてきた時間も全部嘘。今晩仕事が入ったというのも嘘!」


 いつのまにか、大粒の涙が溢れている。ジョナサンは、初めて見る妻の表情に呆然とした顔で黙り込んでいる。


「もう、出て行ってよ‥‥‥。2度と顔を見せないで」


 数秒の沈黙が続き、ジョナサンがくるりと後ろを向く。静かにドアが閉まり、そしてまた静寂が訪れる。投げつけたプレゼントの箱に指を伸ばし、そっと引き寄せる。


 サフィラはゆっくりとしゃがみこみ、声を殺して泣いた。堪えきれない嗚咽が漏れ、両手で口を塞ぐ。


 弱い。私はどうしてこんなにも弱いんだろう。


 夜はサフィラを1人残したままどんどん更け、そして開けていく。



 サフィラ・ミアストーンとジョナサン・ハインリヒが離縁したのは、それからふた月たつかたたないか、といったころだった。


 神の前で永遠の愛を誓ったはずの2人は、嘘のようにあっさりと縁を切り、そして信じられないほどあっさりとそれぞれの日常を取り戻した。


 雪が降り始めたころ、サフィラは全ての荷物をまとめて屋敷を出た。もともと伯爵家のものだった使用人は1人残らずサフィラについて帰郷することを選択し、屋敷はがらんとした静寂に包まれた。


 サフィラが使っていた部屋にはすぐさま男爵令嬢カレンが入り、サフィラが公爵夫人だった記憶はすぐに屋敷から跡形もなく消された。


 2人の、わずか2年の結婚生活は幕を閉じた。天真爛漫なブルーの目をした少女は消え、その代わりに深海のような深さを宿した碧眼と、月の光のような白銀の髪をした乙女だけが残った。


 サフィラにとっては一生分の苦労を経験したことだろうが、しかしこれは彼女の人生のほんの始まりにすぎなかったのである。

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