第18話 海、泡


 漫画を書くのを辞めてから一週間が経った。新しい編集さんに相談して、休暇を貰い、その間に自分の状況を整理することにした。


 一作目の連載のときからアシスタントは全員変わっていた。記憶では狂ったように漫画を描き続ける僕に愛想を尽かして出ていった記憶がある。

 連載作品は今の所、二作品。少年誌と女性誌で、アプリ上での連載会議は今のところ保留にしてもらった。

 連載の他に、同人活動と思しき書きかけの原稿と、ペンネームが違う作品、カラーで書かれた横長のデータがあった。これは記憶の通りなら、同人活動、別名義、YouTube動画だろう。


 今の僕に続けることが出来るとは思えない作品数だ。そもそも、目を覚ました時点で、培ってきたノウハウが全部、水泡に帰した。

 記憶としては経験は堆積している。記憶を元にすればそれなりの作品を作れるが、過去の作品のような気迫溢れる作品は作れない。これからの連載をどうするから当面の目標だ。


 家族については、心美が間を持ってくれたおかげで母とは親密にやり取りしてるようだった。それ以上の変化は、心美はいつの間にか妊娠していた。夢の中の僕は漫画のことしか考えていなかったから知らなかったから、素直に驚いてしまった。僕はいつの間にか一児の父になる。


「……どうしようかな」


 ここ一週間は自分の環境を把握しながら、病院に通ったりと忙しかった。今のところ診断を下ろすことは出来ないようだが、編集部に医者が掛け合ってくれた。少なくとも一ヶ月は休むことが出来る。


 そして、今日、ようやく暇になって散歩をすることにした。これからの自分をどうするかを考えるのに最適だと思ったからだ。

 家に居るとどうしても心美の体が気になってしまうし、心美の心配そうな表情は出来る限り見たくない。思考をするなら、知り合いが居ない空間、ひとり散歩が適切だと考えた。記憶の中の自分も散歩をしていた気がする。


 これからについて沢山考えたが、夢の中に戻るのが一番だと考えている。ただ、どんなに試しても夢の中に戻ることは出来なかったし、精神科医に伝えても明確な案が出ることはなかった。こうやって散歩している間に切り替わってくれないかと思ったが、こう考えている以上、僕は夢に戻れていない。


「……電車」


 駅が見えた。僕は電車が嫌いだった。夢の中の僕は気にせず乗っていた。電車のスタンスの違いが、僕と彼を分けているのだとしたら、試さないわけにはいかない。


 持っていた交通系ICカードのモバイル版を使い、改札を潜り適当な電車に乗った。

 電車は嫌いだ。電車はいつだって終わりに向かっている。電車は寄り道をさせてくれない。時間のように刻一刻と終わりに近付き続ける。乗り続けるか、途中下車しか許されない。


 今の僕だって電車に乗ってるようなものだ。抱えきれないほどの仕事量を背負って、出来もしない原稿を描き続けなければいけない。

 休みなんて終わるから存在するものだ。僕は時間までに解決策を見つけ出さなければいけない。


「どうしたら」


 窓の外には海が広がっていた。僕は海が嫌いだ。辛い時も、悲しい時も、苦しい時も、海はただそこにあって、僕を助けてくれやしない。今もそうだ。母なる海は僕の母にはなってくれない。


 海、海か、海、嫌いだ。海に思い出なんてないし、海を見ると嫌な記憶ばかりが蘇る。

 だけど、何故か、水面が煌々と輝き、全てを包み込むような深い青に、ゆらゆらと波打つ姿に心を奪われてしまった。この海なら僕の全てを解決してくれるのではないかと思ってしまった。


 電車から降り、改札を抜け、田舎道を歩いた先にある浜辺。人気の少ない浜辺はゴミや藻が打ち上がり、お世辞にも綺麗とは言えなかった。ただ、海は綺麗だった。


「……夢は見たか」


 夢は見た。僕の理想の人生は生きられた。十数年、ずっと僕は苦しみから開放されていた。それが自分とは思えないが、きっと世間から見たら幸せな十数年だったのだろう。


 夢から覚めて、今、僕は生き地獄に瀕している。どう頑張っても回避出来ない人生という名の電車、現実という名の終点はもう目前にある。自分から望んで連載を抱えた以上、逃げることは出来ない。

 例え、逃げ出したとしても、読者を待たせていると言う自責は心に残り続けるし、僕はそれを無視して生きていけるほど強い人間じゃない。


 ただ、解決策はある。

 夢から覚めたのなら、現実から覚めればいい。そもそも、この世界から消え去ればいい。

 そうすれば僕の意識は消えていき、自責も残らない。読者を置いていくことにはなるけど、この世界から消えたとなれば休載じゃなくて連載終了になるだろうし、悔しい思いはさせるだろうが待たせることはない。

 だから、歩みを止めることを辞めた。


「……」


 海は嫌いだ。だが、こうやって最後には僕を包んでくれる。

 電車は嫌いだ。だから、途中下車した。

 人生は嫌いだ。だが、夢を見させてもらった。

 僕が嫌いだ。もっと考えない人間なら楽に生きられた。

 この物語は僕にとって幸せではなかった。悩み続け、苦しみ続け、囚われ続け、結局、こう言う結論しか、終わりはなかった。

 老衰まで生きていくつもりだったけど、きっと老衰で死ぬまで僕は果てのない思考の輪廻に囚われ続けるのだろうし、不安に満ちて苦しむのだろう。

 なら、こうやって夢から覚めた今、終わらせるべきなのだ。


 海の中を歩いていく。波が体を押し返すが、それでもずんずんと進んでいく。首の下まで体が入って、目を閉じた。

 あぁ、泡の音が聞こえる。

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