第13話 誰?誰
車窓から変わりゆく気色は平坦で、常に代わり映えのしない海を映している。海は穏やかに波を動かし、ゆらゆらと輝いていた。
僕は生まれてから毎日、この海を見ていた。いつもと変わらない景色なのに懐かしさはない。
僕はこの海に思い出が存在しない。ただ、そこにあっただけ、誰かと来たとか、誰かと遊んだとか、そういう思い出は一つとしてない。
辛い時も、悲しい時も、苦しい時も、海はただそこにあって、僕を助けてくれやしなかった。母なる海は僕の母にはなってくれない。
「久しぶりだ」
電車から駅のホームへ、いつの間にか改装されて新しくなった駅の中を歩いていく。知らない景色だけど、出口は変わっていない。記憶を頼りに外に出ると、そこには見慣れた景色が広がっていた。
何も変わっていなかった。変わってくれなかった。
僕はこの街が嫌いだ。この街に過ごしていいことなんて一つもなかったから。
ただ一人で孤独に暮らしていた。それだけの街、劣等感を抱くことはあっても懐かしさやエモを感じることはない。そんな街。
古臭い建物が並び、そのほとんどがシャッターを下ろしている。大型のスーパーがあるわけではなく、ただ廃れていくそんな街だ。僕はこの古臭い街に生まれて、古臭い街で育ち、順当に歪んだ。
大人たちは片親の母を支援するほど先進的ではなかった。母は仕事の関係でこの街に来ることになった余所者だった。その仕事というのも、昔の人からは後ろ指を刺されるような仕事で、大人たち、特に老人のほとんどが母に関わらないように生きていた。
母は当然のようにダブルワークをしていて、家にいることはほとんどなかったし、遊べる友達も居ない。
唯一、僕に気にかけてくれるのは祖母だけだった。祖母は他県に住んでるから、遊びに来てくれるのは月に一回、その祖母もデビューの前に死んだ。僕を気にかけてくれた唯一のひとりは僕の情けない姿を見て死んだ。
祖母と遊ぶ時も、一緒に車に乗って出掛けることが多くて、この街で遊んだことはない。祖母もこの街の独特な閉塞感が苦手なようだった。
だから、僕はこの街に思い入れなんてなかったし、僕の記憶の中にしまい、自分の地図から消してしまおうと思っていた。
ただ、好きな人の願いは無下には出来ない。悩み続けて悩み続けて、自分のことよりも心実の願いを叶えたいと思ったからここに居る。
「この上か」
急な上り坂を前かがみになりながらも登っていく。
半年ぶりに送られてきた母の手紙を見つけて、中を見ずに宛名を見たら母は引っ越していた。Googleマップを見る感じだと一軒家らしい。
随分前に再婚したことは知っているし、二人の余生のために家を買ったのだろうと理解した。
実際に坂の上にはGoogleマップで見た家があった。表札には木下と書かれている。祖母も死んで、父も居ない、祖父もとっくの昔に死んだ。それに母も苗字が変わってしまった。
嫁入りして苗字が変わったなんて、結構前に報告されていたし、驚きなんてないけど、この世には僕と同じ苗字の肉親が居ないと思うと心が締め付けられる。
「次夢?」
表札の前で呆然と立ち尽くしていると、女の声が聞こえた。
知っている。振り返ってはいけない。
これまで、時間の経過を知りたくなくて、母から送られてきた写真を見ないようにしていた。あの頃、僕が見ていた母はもうここには存在しないと確定してしまうからだ。
僕にとっての母は学生時代に苦しそうに働いていた目の下に隈を溜めた母だけだ。こんなこと心の中でも思いたくないが、僕の肉親は母だけ。
母が僕のことを愛してくれたかはわからないし、僕は愛を感じなかった。それでも、母は働いて祖母の支援を受けながらも僕の生活を最低限でも維持してくれた。
祖母の次に僕の人生に関わったのは母で、母と暮らした時間は一緒に居る時間は少ないとしても、一番長かった。だから、苗字が変わって、姿が変わった他人を見たら、本当に僕の世界から肉親が消えてしまう。
「だぁれ?」
不意に聞こえた幼い声に、咄嗟に振り向いて声の主を確かめてしまった。母の面影がある子供が、母の指を握って歩いている。
「だ、誰?」
友達の子供とかだろうか。友達に用事があるから面倒を見ているとか、多分そういう感じだろう。
「お母さん、仲いい友達……居るんだね」
「ん? あ〜!」
母は陰に隠れる子供を前に出して、顔の高さを合わせるようにしゃがみ込んだ。
「あんたの妹だよ。手紙見てないの〜?」
「ほら、お兄ちゃんだよ。結夢、挨拶」
「きのした ゆめです よろしくおねがいします」
母は立ち上がって何かを話している。声が聞こえたけど、言葉が何を示しているのか理解出来ない。それ以上に妹、手紙に書いてたのか? 手紙、見てないから、どういうこと?
お母さんもこんなに太って、この人、お母さんじゃないのかも。誰か使って、からかって、妹、やっぱり友達の子供だよ違う、そんなわけないだろ。
声が同じだろ。母の声、母の顔だろ。こいつも母によく似て、よく似て? 母の顔なんてしばらく見てないだろ。記憶が歪んでるだけ、いや、手紙の写真、見てない。誰が? わかんない。
「どうしたの?」
苗字が違う、それも嘘? はじめから僕と会いたくなくて、久嶋は他にいる? 違う、宛先は確かに木下で母の名前で、なら、本当に、知らない見た目の知らない名前の、誰だ? 僕って本当に存在して、してるだろ。夢か? この世界が、わかんない。わからない。
「次夢、しっかりして」
肩を揺らされた。目の前の人が、顔はお母さんに似ている。体型は母に似ていない。目の下にはクマはない。僕にはある。僕はお母さんに似てない。この子供は目の前の人に似てる。目の前の人は木下だ。子供の名前はゆめ、夢、僕は次の夢。うん、わかっている。
気持ちがどんどんと静まってきた。どれだけグルグル思考を回しても、事実を嘘には出来ない。
目の前にいるのは久嶋由花子、今は木下由花子だ。横に居るのは母の子供、僕の異父兄弟。捉えようのない事実だ。
知っている肉親はいなくなったけど、今日は目的があってきた。目的を果たさないと、僕は心実に合わせる顔がない。
大丈夫、肉親は居なくても最愛はいる。
「久しぶり、話したいことがあってさ」
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