第7話 通常。そう、通常。

 通常。そう、通常。

 翌日の昼の部の歌劇の鑑賞だなんて、誘われてもすぐには頷けないものです。

 お茶会に誘われているかもしれませんし、準備もあります。婚約者様からのお誘いであっても、婚約者様からのお誘いであればこそ「まあ急ね!」なんて言って、一度は断るのがマナー、とされていますけれど。

 今回は、特別です。

 わたくしが歌劇『赤い薔薇には棘があるが』が大好きというのを差し引いても、現在わたくしたちは同じ屋敷で生活をしておりますし、現在わたくしはフィルップラ侯爵家にて、お見合い中の身。お断りをする、ということはそれすなわち、お見合い自体のお断りにもつながりかねません。

 もちろん急なことですから、演目を理由にお断りすることは許されますでしょうけれど。

 ちょっと悩んでしまって、そっとハッリを見つめます。この場合、受けてしまってもよかったのかしら? それとも、ちょっとはゴネてみるべきだったのかしら。

 とはいえついうっかり二つ返事を返してしまいました。はしたないと思われましたかしら?

 ハッリはにこにこしておりますし、ダーヴィド様もほっとされたようにお茶に手を伸ばされておりますから、きっと間違ってはいなかったのでしょう。


「本人を前に言うのもなんだけれど、確かにご婦人を歌劇に誘うのは緊張するな」

「そうでしょうとも」

「そうですわね。一度はお断りするのが婚約者間でのマナー、というお話もありますし」

「断るのか?!」


 ダーヴィド様だけではなく、ハッリも驚いた顔をしております。あら。フィルップラ侯爵家では、お断りしないものなのかしら。


「すべてのお誘いをお断りする、というのではありませんわ。今のように、明日のお昼の回でしたら、こんなに急に言われても準備が出来ませんわ、とか、何とか言って一旦はお断りをいたします」

「いや、そういわれるとその通りだな」

「まったくですな」


 男性陣は頷きあっている。今までよく考えていらっしゃらなかったのかしら、と思うけれど、ハッリはすでにご結婚されている身。同じお屋敷にお勤めですから、奥様の予定も把握されていることでしょう。その上で明日の昼間の回、であれば、ただ喜ばれるだけでしょうね。

 ダーヴィド様はこれまでお忙しくてそれどころではない、と伺っておりますから、こちらも単にこれまで触れてこられなかっただけでしょう。

 でしたらわたくしも、それを踏まえて行動した方がよさそうです。


「ふふ。ですがこちらは単なる戯れです。お誘いなさった殿方は、何か理由をつけて、もう一度誘うのです。それも断られてすぐに。そうされましたら、令嬢はそこまで言うのでしたら仕方がないから行ってあげるわ、と返すものなのです」


 婚約期間というものは、互いのことを理解しあう期間でもあると思うのです。この人はこうしてもらうと喜ぶ、といった。

 私はあなたと出かけたいのだといわれて、喜ばない女性はいないと思います。勿論、婚約者ですとか、恋人ですとか、夫ですとか。好ましく思っている相手に限りますけれど。


「ダーヴィド様でしたら、そうですね。なんとか明日の昼なら都合をつけられるから、とかお伝えすれば、喜ばれるかと思いますわ」

「君に?」


 ……そういえば、ダーヴィド様のお相手は、わたくしでしたね。それなら、そうですわね。


「わたくしでしたら、お誘いの時点で言ってくださると嬉しいですわ。一人で行くのかご一緒なのか。お姉様たちと行ってくるといいとか」


 お父様も、とてもお忙しくて。それでもたまにお姉様や執事のアードルフに言われてお母様を歌劇に誘っていらした。

 一緒に行こう、とか、家族みんなで行こう、とか、一緒には行けないけれど、みんなで行っておいで、とか。

 ダーヴィド様もお父様と同じようにとてもお忙しいのは分かっておりますもの。そのダーヴィド様が誘ってくださるという、そのことだけでわたくしは喜べそうですわ。


「婚約者候補の君から他のご令嬢とのマナーを教えられるのは、なんとも悲しくなるな」

「ふふ、申し訳ありません。わたくしもお友達とのお茶会で聞いたり、物語で読んだ事柄でしたので」


 なんとなく、当事者意識がないままここまで来てしまっていたのです。

 けれどダーヴィド様はそれを責めるではなく、笑ってくださいました。

 良い関係を築けそうで、嬉しいです。


 お夕飯の前に、明日の支度の相談をしてくると、わたくしは一度席を立ちました。ダーヴィド様は、お仕事をされたくないと、そのままサロンでくつろがれることにしたそうです。

 まあ、お夕飯までの短い間でお仕事は、お辛いですわよね。


 お借りしている部屋に戻ると、すでにユリアが侍女頭であるハッリの奥方から聞いていたのでしょう、明日の歌劇に着て行くドレスの準備を開始しておりました。

 ヨエンパロ劇場は王都の中央よりはやや貴族街に寄った位置にあります。とはいえ貴族だけが見に行くわけではなく、少し背伸びをした庶民も観劇に行くそうです。

 わたくしたちもそうですけれど、当然いつでも行けるわけではなく。どうしても好きな演目だけ、好きな歌劇団の時だけ、といった形でチケットを取るのだとか。

 ユリア以下、名前をまだ教えて貰えていないメイドたちから教えてもらいながら、明日の支度です。


 髪型は、アップに出来ないので緩く編み込んで。座席で潰れてしまわないように、前に流すことにしました。

 庶民がヨエンパロ劇場に赴くときは、貴族の着ているドレスも見ると、メイドの一人がうっとりとしながら言っていました。わたくしたちが夜会で、王族やそれに連なる方々のドレスをうっとりと眺めるようなものでしょう。


「こちらを着られるのですよね」


 メイドの一人が取り出したのは、ヨハンナお姉様からいただいたデイドレス。胸のすぐ下からスカートになっていて、白に近い水色から空の青までのグラデーションになっています。座ることを想定されたドレスですから、それほどスカート部分もふんわりしておりません。

 こちらに来た初日に、皆さんが喜んでいた、あのドレスです。


「アクセサリーはどのようにしますか?」

「観劇ですから、大きくないものでお願いいたします」


 夜会では目立つものを好む傾向にあります。大粒の輝石のついたネックレス、イヤリング。指輪に腕輪、ドレスに小粒の宝石を縫い込んだものもありますね。

 主催者でしたら、ティアラをつけることもあります。お誕生日ですとか、そうそう。婚約のお披露目のお式でも、ティアラを乗せるはずです。


「でしたらこちらのイヤリングと、リボンを揃えましょうか」


 どちらも柔らかいコーラルピンク。フィルップラ侯爵家では、珊瑚が取れるそうです。ですから、この色が好まれるのだとか。

 わたくしはまだ婚約者ではないので、ダーヴィド様の色のものを身につけることが出来ません。婚約者になりましたら、きっとダーヴィド様から贈られるのでしょうけれど。どうかしら。ハッリからかもしれませんわね。

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