第6話 夜会の翌日、夜。

 夜会の翌日、夜。今日でこちらに滞在するのは、四日目になります。

 お仕事を終えたダーヴィド様を、エントランスでお出迎え致します。昨日は夜会にご一緒いたしましたし、一昨日は、その、すぐお出迎えするのはわたくしがここの女主人だと主張するかのようで差し出がましいかと、遠慮いたしました。ちょっと恥ずかしかったのもあります。

 本日はハッリやユリアに勧められて、エントランスでお出迎えをしてみました。お母様やお姉様たちと一緒にお父様のお出迎えをしていましたから、作法は問題ないはずです。


「お帰りなさいませ」

「……あ、ああ。今戻った」


 馬車から降りるダーヴィド様を玄関の外で出迎えるのはハッリの仕事。ハッリがダーヴィド様から鞄を受け取って、ドアを開ける。わたくしはそこで待っていて。戻っていらしたダーヴィド様にご挨拶をするのみだ。

 ハッリが流れるようにダーヴィドさまの上着をお預かりし、それをメイドへと渡す。淀みないその仕草は、どこの家でも同じなのね。


「ああ、いや。そうか。帰ってきたら、出迎えてくれる人がいるのか」


 どうやら驚かれただけで、お嫌ではなかったご様子。ちょっと、ほっと致しました。

 だってフローラ様からお借りしたご本では、ここで眉を顰めたりなさる殿方もおいででしたから。なんでそこから溺愛になるのか、ちょっとよく分からないものも多かったのは確かですけれど。

 お夕飯には時間があるので、お父様だったら一旦執務室に戻られるところでしょう。ご挨拶は致しましたので、わたくしも一度お部屋に戻ろうかしら。


「ビルギッタ嬢、すぐに着替えてくるから、そこのサロンで待っていてくれませんか」

「承りました」


 わたくしが着替えるのと、殿方が着替えるのとは、かかる時間が違います。ダーヴィド様の視線を受けたハッリが、サロンの扉を開いてわたくしを案内してくれました。


「ありがとう」


 本来であれば、使用人に礼を言うことはありません。特別なことをしてもらった時くらいかしら。けれどここは我が家ではないのですし、それに我が家では些細なことでも使用人に言葉をかけます。

 お母さまが、そういうお家のご出身なのです。

 使用人としても、些細なことで礼を言われると、嬉しいようで。特に嫁ぎ先では大切に扱われるとの事です。

 もっとも。中には使用人に挨拶をしたり礼を言ったりする者を下に見る使用人もおります。まあ、そういうのは女主人の権限で追い出してしまえばいいだけですけれど。

 そういったよろしくない使用人は、早いうちに切り捨てた方が、ひいてはお家のためになるのですって。

 わたくしはフィルップラ侯爵家ではハッリとユリアにしかそう言った言葉は口にしないようにしています。紹介されたのは、その二人だけ。

 それにわたくしはお客様ですから、お礼を言うのも辛うじて不自然ではありませんしね。


 ダーヴィド様を待つ間に、お茶が供されます。お夕飯が控えておりますから、お茶菓子はなし。

 提供されたお茶はフマラマキ。ティーポットから注がれている時ですでに、独特な香りが漂います。これは、飲むお茶ではありません。香りを楽しむお茶です。

 テーブルの上に置いておくことで、ふわふわと優しい香りが漂います。

 その香りを堪能している間に、外出着から着替えられたダーヴィド様がサロンにいらっしゃいました。立ち上がってお出迎えをする前に、それは不要だと身振りで伝えられてしまいます。


「歌劇は、好きだろうか」

「歌劇、ですか」


 もちろん嫌いではありませんが、演目によります。戦争ものですとか、虐げられるものですとか、そういったものは苦手なのです。後は、夏によくある怖いもの。

 歌劇団の皆様が演技上手であればあるほど、その辺りは得手ではありません。


「ああ。明日から、ヒュリライネン歌劇団が興業をかけるそうだ」


 そう言ってダーヴィド様がテーブルに置かれたチケットに描かれている演目は『赤い薔薇には棘があるが』。


「まあ! まあ!」


 初めて物語として世に出たのは、今から百三十一年前。その時は戯曲ではなく、詩作でした。著者名はアーダ・ヤコイラ。彼女は貴族令嬢に仕える侍女で、ご令嬢の乳兄弟でした。

 お嬢様の婚約者様に恋をし、その恋心を綴ったのです。最初の数編はお嬢様のご婚約者様に恋をしてしまった自分の不敬をなじるもので、次第にそれは、叶える必要のない恋なのだと自分を慰め、お嬢様のそばを離れるのではなく、嫁いでいくお嬢様と共に往く決意を綴ります。

 お二人が仲睦まじくあることを望み、願い、それを幸せとし。お嬢様の旦那様となった方に仕えていた方と新しく恋をし、著者の愛しい美しい赤い薔薇、すなわち主であるお嬢様に仕える喜びを歌った賛美歌になってゆきます。

 出版者は、赤い薔薇のお嬢様。いえこの時にはすでに奥様ですけれど。


「お前は昔から私より詩作の才があったのだもの。溜まったのでしょう。出版してあげるわ!」


 といって出版してしまったのだとか。

 嫌がらせでもなんでもなく、自分に子供の時から仕えてくれているアーダの才を自慢したかったところからきていることも、アーダが薔薇の奥様の旦那様に淡い恋心を抱いていたことを奥様が知っていたことも、それを詩作にぶつけるように助言したのが奥様であったことも、すべてアーダが日記に書いていたため今では知られています。


 なんでわたくしがここまで詳しいかというと、ええ。大好きだからですわ!


「いつの演目なのかしら。情報は出ていますの?」


 『赤い薔薇には棘があるが』は、詩作として発表されて以後、アーダの日記を受けて物語になり、それから戯曲になりました。国内のいくつもの劇団で上演されていて、いくつものバージョンがあるのです。戯曲として定番になってからでも、もう八十年ほどは経っておりますから。

 ちらり、と、ダーヴィド様がハッリに視線をやります。

 こういったものを手配するのは、執事の役目ですものね。主人は把握していなくてもよいのです。有能な執事が把握しているのですから。


「おや、ビルギッタ様もお好きですか。妻が好きで押さえていたものになりますので、お嫁に来られた暁には、どうぞ語り合っていただけましたら、と」


 ハッリの奥方は、侍女頭になります。目礼は致しましたけれど、まだご挨拶はしていません。

 わたくしは結婚いたしましたら、しばらくは王都のこの屋敷に住まうことになりますから、その時にはきっとみんなで歌劇の話も出来ますわね。

 嬉しいこと。


「妻が言うには、ヒュリライネン歌劇団の戯作者ヘンミンキが四十六年前に執筆したものを、戯作者イラリが言い回しを現代風に手直しをし、また現在所属している団員たちにあわせてもいるそうで」


 あら、ハッリさんは知識としてはご存じのようですけれど、たいして興味はないように見えますわ。まあ、女性向けの演目ですし、席を取ってくださるだけでも愛を感じますけれど。


「……お伝えを忘れておりました。フィルップラ侯爵家はヨエンパロ劇場のパトロンをしております」

「ええ」


 侯爵家ですもの、新しく劇場が出来た暁には、お金を出すでしょうし、お名前を貸したりもすることでしょう。我が家でさえヨエンパロ劇場が出来た時には、出資したと聞き及んでおります。

 ですから、貴族席を押さえやすくはあるのですよね。押さえやすい、どまりですけれど。


「通年でリザーブがされておりまして」

「まあ!」

「現在の旦那様、奥様、並びに坊ちゃまは歌劇に興味がないものですから、使用人たちで行くように、と仰せつかっておりまして」


 ああそれで、ハッリの奥方様が押さえていた、に繋がるのね。

 伯爵家でもそうですけれど、侯爵家に仕える上級使用人は子爵家や男爵家の出身の方がそれなりにおります。たまに、伯爵家の五男坊の方がいらっしゃったりとかもするようです。『赤い薔薇には棘があるが』の著者、アーダも確か、子爵家のご出身のはず。


「しかし、しかしです。

 アハマニエミ伯爵家のご令嬢がお見合いとしていらしているのですから、歌劇に誘うのは嗜みというものではないか、と」

「嬉しいですわ」


 すなわちそれは、フィルップラ侯爵家の使用人の皆様は、少なくともハッリとその奥方様は、わたくしを歓迎してくださっているってことですもの。

 もちろん、歌劇『赤い薔薇には棘があるが』が大好き、というのもありますけれど。


「では、明日の昼。あなたをエスコートさせてもらえるだろうか」

「ええ、喜んで」

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