第8話 翌日。

 翌日。

 朝から張り切っているメイドたちの手を借りて、観劇の準備を行います。

 それは夜会の時よりも簡潔ですから、すぐに終わるのですけれど。全身を磨き上げる必要も、香油を擦り込む必要も、コルセットで引き絞る必要もありません。

 香水をほんの少し振りかければ出来上がりです。

 むしろ明日の、ダーヴィド様のご両親にお会いするときと、明後日のお披露目のお式の方が時間をかけて磨き上げるべきでしょう。

 そういえば、明日の夜にわたくしは実家に帰るのかしら。お披露目のお式をどちらのお屋敷でやるのか、伺っていないことに気が付きました。

 今日中に家から連絡がなければ、ダーヴィド様に夕食の席ででも伺いましょう。


 デイドレスに身を包み、ハンカチなどが入るだけで一杯の小さなバッグを持って、お部屋で待機です。ダーヴィド様は朝食後に登城なさっていて、午前のお仕事が終わり次第ご帰宅なさるご予定とのこと。

 それから一緒にお昼ご飯をお外でいただいて、ヨエンパロ劇場へ。観劇の後は、お茶でもしてから帰宅、となるのでしょうか。

 ハッリではなく、ダーヴィド様がお部屋までお迎えに来てくださって。まあ、いつご帰宅されたのかしら。


「それじゃあ、行こうか」

「お出迎え出来なくて、申し訳ありません」

「いや、良いよ。まだ身支度を整えていた頃だ」


 差し出された腕に、自分の腕を絡めながら謝罪をすれば。どうやらダーヴィド様はしばらく前にご帰宅されていたようです。

 フィルップラ侯爵家の家紋の入った馬車に乗り込んで、向かうのは劇場近くのレストラン。昨日の内に、ハッリが予約をしておいてくれたそうです。


「そちらも、奥方と向かう予定だったのかしら?」

「さすがにその予定ではなかったと思いたいが」


 ふふ、と二人で顔を見合わせて笑いあいます。そうですわよね。いくら何でもそこまで譲ったりはしないはずです。

 馬車はそれほど走らずにレストランにたどり着きました。わたくしたちは移動に馬車を使いますけれど、庶民でしたら歩く距離かもしれません。

 馬車が止まったのは、中央広場にある馬車止めです。かつてはレストランの前まで貴族の馬車が乗り付けたそうですけれど、時間によっては大混雑するので今の形式になったとか。

 ダーヴィド様にエスコートされて馬車から降りるのを、乗合馬車を待っているだろう方たちが見つめています。特に手を振ったりはしません。知り合いがいたらしますけれど。微笑みを向けるに止めておきます。見ていることに気がついてはいるけれど、それを咎めたりはしませんよ、の意味を込めて。

 咎められる方もいらっしゃいますから。


「カーックリニエミという、最近できたレストランに予約を取ったのだけれど、知っている?」

「ええ、お話には聞いていますわ。お友達のフローラ様が、行きたいと」


 広場の馬車止めからは、少し歩きます。具体的には、広場の反対側の、道の先にある、と、ダーヴィド様は仰いました。

 そのレストランのあるケイノネン通りを真っすぐ行けば、すぐにヨエンパロ劇場です。観劇前にご飯を頂いたり、観劇後に頂いたりするのに、良い立地かもしれません。


「あら」


 ダーヴィド様にエスコートしていただいて、広場にあるお店を軽く覗いていきます。雑貨屋さん、文房具屋さん、雑貨屋さん。洋服屋さんに軽食屋さん。

 それから、本屋さん。

 書店の入り口の所に、ワゴンが出ています。そこには、包装された、おそらく本が積み上がっていました。


「ダーヴィド様、あちらを見てもよろしいですか?」


 今は一人ではありませんので、同行者に許可をおねだりします。そんなに長時間いなければ、問題もないかと思いますし。


「ん? ああ、書店か」


 レストランまでの道のりにあるお店ですし、問題もなかったのでしょう。ダーヴィド様の足がそちらへと向かいます。


「おやいらっしゃい」


 他の品物にはたきをかけていたご老人が、わたくしたちに声をかけてきます。


「良かったら見ていっておくれ。今ヨエンパロ劇場で興業がかかっている『赤い薔薇には棘があるが』の脚本の、どれが当たるか分からないものだよ」

「まあ、どういうことですの?」


 おそらく店主だろうご老人が、そのワゴンに積み上げられた商品の説明をして下さいます。それは、一つ一つすべて異なる美しい布で包まれていて。


「ご存じのこととは思うが、『赤い薔薇には棘があるが』は、いろんな版があるだろう? そこで趣向を凝らしてみたのさ。何が当たるか分からないっていうのも、乙なものだろう?」

「では初版が入っている可能性もありますのね?」

「初版の詩集、アーダ・ヤコイラの日記、ヘンミンキの脚本版もあればイラリの脚本版もあるよ」

「いただきたいですわ」


 もちろん持っているものが出るかもしれませんが、持っていないものを入手できる機会でもあります。


「お一人様一つにしていてね」

「では二ついただこうか」


 買い占められても面白くないだろう、という店主に、思わず笑ってしまいます。後で実家にカードを送って、買ってきてもらおうかしら。と考えるよりも先に。


「まあ、よろしいのですか」

「ああ。あなたが喜んでくれるのであれば」


 にこりと。ダーヴィド様が微笑みを向けて下さいます。

 なんて嬉しい事。


「すまないが、フィルップラ侯爵家まで届けてくれるか」

「はいはい。もちろんですよ」


 ダーヴィド様は小切手帳を取り出して、値段を書き入れて渡しています。


「そうだ。おそらくハッリというものが受け取ると思うが、そいつにも伝えるといい。奥方が好きなはずだから、買っていくだろう」

「旦那さま、ありがとう存じます」


 開封は屋敷に戻ってからになってしまいましたけれど、わたくしはウキウキとした気持ちです。もっとも、わたくしよりも店主様の方がほくほくとした笑顔を浮かべておりました。


 それからレストランによって、軽くお食事を。食べ過ぎてしまうと、歌劇の最中に眠くなってしまったり、お花を摘みに行きたくなってしまいますしね。勿論休憩時間はありますけれど。

 注文したのは料理長の気まぐれパイ包み。とは言いましても、さすがに甘いデザートとしょっぱい軽食用では選ぶことが出来ました。わたくしは甘いものを、ダーヴィド様はしょっぱいものを選んでおりました。


「味見なさいます?」

「君も一口どう?」


 まあまるで、婚約者同士の甘い会話のよう。

 まだパイは届いておらず、注文が終わっただけなのですけれど。

 その会話を聞いていたのか、届いた半月型のパイは、それぞれのお皿に切って乗せられていました。三分の二が頼んだもの。三分の一が、相手のお皿に。


「まあ、粋な演出ですこと」

「これは観劇の前後に人気になるのが分かるね」


 わたくしが頼んだものはアップルパイでした。カスタードの上に大振りに切られたリンゴがのっています。リンゴもサクサクしておりますし、甘酸っぱくて美味しゅうございました。甘すぎないのも素敵でした。

 ダーヴィド様が頼まれたのは、お魚入りでした。アークラでしょうか。クリームソースとお野菜と。こちらもとても美味しゅうございました。


「次はもうちょっとしっかり食べにこようか」

「ええ、楽しみにしておりますわ」


 次にこちらを訪れる時は、婚約者かしら。それともすでに結婚しているかもしれませんね。

 お食事の後、お茶をいただきながらダーヴィド様が時計を確認されました。そろそろ、開場の時間かしら。

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