#9 ムード・インディゴ ④
夕暮れ。エダは帰ってくるなり、シャワーを浴びたいと言った。
それはそうで、先ほどまで力仕事にいそしんでいたのだから。
もっとも、大半はハバキの仕事だったが。
彼女はいま、汗ばむ頬を緩ませて、心地よい疲労感のなかで満たされているようだった。そばに居るハバキに、話し続けている。
「君はいい働きをしてくれた。これであれば、この事務所はずっと続く」
聞こえないふりをして、水を飲む。
窓の外からは、橙色の柔らかい光に包まれた、すべてがあった。
直視しないほうがよかった。まぶしくて、目を背けてしまう。
「ねぇ…………君さえよければ、この事務所に。ずっと…………」
その声が。
聞こえ終わる直前に、ハバキは振り向いた。
空に、雲がかかる。部屋のなかが、瞬間的にくらくなる。
ひとりのおんながいる。感染者が。
……その力で、多くを混乱させる者が。
意を決する。いま伝えなければ、自分が自分で居られなくなる。
「エライザ・ドリトル」
「どうしたのかな、かしこまって」
「シェンメイに。『彼女』に、連絡をとらない理由を教えろ」
彼女は、唇を尖らせて、わざとらしく息を吐いた。こちらの目論見は伝わっているらしい。であれば、なおのことだ。
「あの子は、ひどくふさいでる。ひとりの時間が必要なんだよ……」
「それでは、遅いんだ!」
思わず声を荒げる。
テーブルの上のものが跳ねる、彼女は少し驚くが、すぐに平静を取り戻し、かえってこちらをなだめるような、なまあたたかい笑顔になった。
「……どうしたい。どうも、余裕がないのは……きみのほうに見えるけれど」
彼女の視線は、窓の外にうつる。
「街にも、かなり慣れてきたんじゃないか。ねェ、セルフィを何回ねだられた? もうすっかり、ストリートのサムライボーイだって。ここいらじゃ、そんなでも平気だろう……みんな、良い奴だろう……」
「話をそらすな。あんたの悪いクセだ」
顔を近づける。なおも彼女は笑っている。挑むようにして。
「ちょっと汗くさいよ。はやくシャワーを浴びたいんだけれど。それとも、なにかな。一緒に浴びるかね……」
「あんたにそれはできない。あんたは、男の裸を見慣れちゃいない」
「なっ……」
そこで、エダの顔は真っ赤になる。しかし、構わず続ける。
「本当は黙ってやったっていいんだ。だけど、それをやらないのは、あんたへの義理立てだ。『監視対象』である、あんたへの。だから言うぞ。おれは彼女が感染者であると踏んでいる。力を、行使していないだけの」
「……いい加減しつこいな。君だってあの時、違うと分かっただろう」
「あの時だけだ。あのあと、おれの首は明滅した。瞬間的に、何度かな」
エダの顔が、固まった。
「なんで……」
「反応があったのは、彼女の住んでいるロフトだ。一瞬光って、すぐ消える、が、繰り返された。あんたが地域住民との触れ合いにうつつを抜かしているあいだに、近くに忍び込んだが、何もなかった……だけど、次はもう誤作動じゃない。乗り込んで、確保する」
「そうじゃない、そうじゃないだろ……!」
余裕が消え失せて、怒りを帯びている。ハバキを押し込んで、ソファに引き倒した。
「なんで、私に言わなかった。私に隠れて、動いていたんだ」
「言えば、あんたはどうしてたか分からない。おれの仕事は感染者を……」
「そうじゃない、ああ、もう、なんで分からないかなぁ、君は! 実に馬鹿だ、ほんとうにバカだ、バカ、バカ、大馬鹿だッ!」
そして彼女は、テーブルに当たり散らした。
振るわれた腕が、このあとの夕食の準備物を蹴散らして、皿が割れた。
いっしゅん、しまった、という表情になる。だがすぐに、後に引けない、と唇を噛んだ。実に分かりやすい、そして実に愚かだ。
ハバキはあわれみを覚えた。同時にそれは、自分と彼女の明確な隔意が、あらわになった瞬間だった。おれたちは決してまじわらない。これまで、似たような瞬間があったとしたら、それはきっと気のせいだったのだ。
――この女は、アオイじゃない。
「おれを殴るでも、してみりゃいい。それもできないものな、あんたは」
わざと、侮蔑の表情を浮かべて、拳の行き場を失って座り込んでいるエダの前に立って。影が落としこまれ、怯えた貌が、こちらを見ている。
……いい気味だ。そう思った。
だから、必要ないのに、こんなことを言ってしまう。
「あんたはちっぽけな少女だ。年下の男に、簡単に屈従させられる。揚げ句に、どこかで図星だと思ってる。あんたにおれは止められない……これまでとおんなじにな」
そこで。頬に痛みがはしった。
エダに平手打ちを喰らったのだと、遅れて理解した。
顔を上げたときには、彼女はすでにシャワールームに向かっていた。大げさな物音を立てながら、いろんなものがぶつかる音がした。
水音を聞き、散らばったテーブルのオブジェクトを片付けながら、ハバキは自分を心のなかでめためたに打ち据える。
おまえは。なにに、苛立っている。
夜。彼女が眠りに落ちてから、ハバキは屋上に上がる。
カタナを発現させて、振る。目の前に、いくつもの敵の幻影が浮かんでは消えていく。それらを一刀のもと切り捨てていく。幾度となく、繰り返していく。
汗が噴き出して、鍛え上げられて滑らかになった皮膚の上で滑る。
柵の向こう側に、夜の街並み。赤い航空灯がまたたいている。それらは何かを訴えているのだろうか。意識すると、不意に不安が押し寄せてくる。
彼は、振り払うために、孤独な稽古を続ける。
――迷うな。迷えば、死ぬ。おれが。おれの意義が。
その瞬間は近づいている。
◇
なんだか薬が効かない夜だった。必要以上に高ぶっていたからかもしれない。
彼女は青年の姿をさがしたが見つからず、その痕跡を屋上に求めた。
毛布を身体に巻き付けながら錆びた階段を上がり、ドアを開ける。
彼はそこにいた。
その姿を、じっ、と、見つめ続ける。
ずっと。
見られているのに、彼は、気付いていない――。
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