#3 エイジ・オブ・イノセンス ②
「え、エライザ……ぼ、僕は」
「君が死ぬ必要はないと、そう言ったんだ。ましてや殺されるなんて。自殺した作家は数あれど、殺された作家はそう居ないだろう」
肩をすくめて。目の前に刃があるというのに、一向に恐れていない。
「キサマはー、なにものだぁーーーー」
「そう、だから、こんなつまらないことは……」
「やめるのは、あんたらのほうだっ」
バンディーニが叫んだ。エダの足は止まる。仮面の男も静止する。
彼は言ってから、ああ、と、後悔の表情を見せたが、それでも、やめなかった。
「僕は死にたいって言ったんだ、このおっかない男がどうであっても、僕はここから数歩後ろに下がれば、それでもう完成しちまうんだ、止められるものなら止めてみろ」
「あー……だからねぇ、バンディーニ君。そうなりゃ私が死んじゃうんだよ」
「そうだぞ、この女がしぬんだぞ」
「ほら、仮面の彼もこう言ってるじゃないか……」
「うるさいッ、僕は年下の女にマウントをとられるのが、いっちばん腹立つんだッ」
その言葉は、朝の空気を切り裂いて、ふもとに集う者たちすべてに響いた。
「…………」
「あー……」
「な、なんだよっ、僕は何にも間違っちゃいないんだぞ!」
「……ああ、それは否定しないよ」
彼女は、フードを被ろうとした。
その時、仮面の男はカタナの向きを変える。彼はしばらく黙っていた。
その佇まいに、何らかの変化が起きたことに、真下のダニエルズは気付いている。
「では……どうするというんだ」
一歩、前へ。カタナ、バンディーニへ。
「自分と、彼女の、どちらを選ぶ」
それはぶれて、エダのほうをもさす。
バンディーニの背筋は伸びきって、別種の戦慄が走る。
「そ、そんなの……選べるわけ、ないだろう」
「そうか、だったら」
仮面の男が前へと進んだ。
「ちょっと、青年、予定と違……」
「おれが、その機会を与えてやる」
エダを押しのけて、彼は、三十代の小説のプチプロに、切っ先を鼻先へと。
彼は「ひっ」と小さく悲鳴を上げた。これまでとは違う。リアルな、目の前にある。迫りくる、死。足が、柵に当たる。そこから数歩下がってしまえば、完全に落下してしまうだろう。
「『小説』ごときが命の代わりになると本気で考えてるなら、証拠を見せてみろ。そんなものよりも大事なものを背負って死んでいった奴らがたくさんいる」
仮面の男は、その内側にある誰かに成り代わっていた。
言葉の端をとらえることを、既にバンディーニはやめている。
エダは焦っている。
「こ、殺し屋が何を言ったって」
「仕事だから真面目にやる、当たり前のことだ。そして殺し屋に狙われる者たちは、そうならないように懸命に生きるのが筋じゃないのか。あんたはいま恐怖している。その根源は何だ、言ってみろ」
「う、ううう~~~~」
おい、なんなんだよあいつ。マジで落っこちちまうって。
それよりも。あのカタナほんものなのかよ。
ダニエルズは思う。こういう時、若いころのおれは、どうしていたのだろう。
悔しかった。知らずのうちに、拳を握りしめている。
「では、こうしよう」
割って入ったのは、エダだった。
「私が、かわりに飛び降りる」
その提案は、皆にも驚きと共に迎え入れられる。
同時に、ダニエルズだけは、その意図が分かっていた。
「あいつめ……」
仮面の奥から、驚きのような、小さな声が漏れていた。
主導権が、エライザにうつったようだ。
「君がひとこと、たったひとこと、そう、『生きる』とさえ言えば、私は決断を取り下げよう」
「ば、バカなことを言うなよっ」
「本当に馬鹿げているのかな」
彼女はふらふらと、酩酊したように柵に向かう。
仮面の男が、制止するように手を伸ばしかける。
「やめろ、やめてくれっ。君には関係がないじゃあないかっ」
バンディーニはほとんど泣き叫んでいた。もはや誰も、彼の思い通りにならなかった。そこが、限界であったのだ。
「関係が、ないのに……どうして」
「私の仕事だ。君も私の視界の範囲内に居るからね」
「僕が……のぞんじゃ、いないのに……っ」
うずくまるように、嗚咽する。
エダはただ、微笑を浮かべて、そのすべてを受け止めている。そんな様子を、バンディーニは何度となく見てきた。
この街の人間であれば、誰だってそうだ。不安そうな顔が、柵の真下を覗き込めばたくさん見えてくる。
エダならなんとかしてくれる。エダなら助けてくれる。自分ではなく、この状況を。人々の不安を。
そう、英雄は自分ではない。
「生きてたって……なにかが、変わるわけじゃ、ないのに」
「そうだ」
「このあとだって、きっとうまく書けやしない。納得いかないクズの山が出来上がるだけだ。納得するために磨きをかけようと思っても、仕事がある」
「そう、君には、生活が待っている」
「そんなの嫌だ、僕は」
「では、私は死のう。君のために。劇的なものを見れば、君は小説が書けるかもしれない。本当に大事ならそれも悪くないはずだ。ちなみに君が我先にと自分から死のうとしても無駄だよ。そこの仮面の男は、獲物を決して逃がさない」
仮面の男は、その言葉を受けて、一瞬動揺したように見えたが。
「そ、そうだ。おれはそのおとこを殺したくってしかたないのだ。げへへ」
「あ、あんた、キャラ違ってないか……」
それからバンディーニは、天を仰いだ。
陽の光が容赦なく降り注いでくる。やめるときもすこやかなるときも、何も変わらないそう、何も変わらない。そこから見れば、すべてが情景でしかないのだろう。
……ながい逡巡の果て、彼は。
膝をついて、両手を上げた。
「わ、わかった、わかった、もうたくさんだ! 死なない、僕は死んだりしないから、こんな茶番はもう、おしまいにしてくれっ!」
その言葉が届いて、歓声が広がった。
またも、エライザのお手柄だ。皆が彼女を囃し立てる。
「なんだよ、出る幕ないじゃないか」
マクノルティの悪態。ダニエルズは、遠い目をしている。
この、若い部下にとって、あのエライザという女はいかなる存在なのか。聞いたところで、「むかし、ちょっとな」としか答えてくれない。それがどうも不満で、彼にとって、あの女は、あまり好ましく見ることはできなかった。
ともかく、バンディーニが柵から背を向けたのを合図に、突入する準備を開始する。
「なんて無茶を」
「ふう……」
仮面の男はカタナをおろす。バンディーニはしゃがみこんだまま、大人しくしている。
エダは満足げに微笑んだ。
「これにて、一件、ら……」
完全に、油断していた。
「あ」
柵は低かった。彼女は足を滑らせた。
仮面の男の視界から、するりと、その姿が消える。
「……バッカ、野郎っ!」
彼は仮面を脱ぎ捨てて、ダッシュで、柵を乗り越えた。
あっという声が広がって、ダニエルズは落ちていくエダに手を伸ばした。
それくらいしか自分にはできないから、そうするのだ。
すると。
群がる者たちの合間を縫うようにして、なにかが降ってきて、地面に突き刺さった。
カタナだ。カタナが、垂直に突き立てられている。
見上げる。皆が指をさした。
エダが、ひとりの青年に抱きかかえられながらすべりおちていた。
黒づくめの装束。仮面は取り外されている。
ほんとうに一瞬のことだったので、誰もが、見ていることしかできなかった。
青年は真下を見やり、片足を突き出して。
カタナの柄、その頂部に立つ。
その後、二人は軽やかに、地上へと帰還した。
とたんに、割れんばかりの拍手が二人を包み込む。
「お、お前ら、行け、行けっ」
マクノルティと部下たち。一斉に、ビル内部へと突入する。
ダニエルズの視界の端に、青年から降りたエダが裾の埃を払い、皆の声援にこたえているのがうつる。輪はどんどん縮まっていって、彼女を胴上げでもしかねない勢いだった。
「じ、事実は小説より、奇なり……」
バンディーニはただ茫然と呟いて、自分を確保するために後方から現れた者たちを受け入れた。事件は、思わぬかたちで終わりを迎え、数日後、彼は職場に復帰した。
その後、彼が、再びペンをとったかどうかは、誰も知らない。
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