#2 エイジ・オブ・イノセンス ①
老後について思いをはせるとき、彼はいつもバスタブに漬かる。
いい趣味とは言えないが、そうせねばならないと決め込んで、既に十数年経過している。今更やめられない。
そろそろ妻の愚痴が聞こえてくる頃だ、一服を終えて出なければ――というところで、電話がかかってきた。
泡塗れの手が何度か子機を取り落としたが、なんとか掴み、応答。
部下――マクノルティの『うんざりだ』という声音。
『とにかく来てくださいよ。このままじゃ俺のキャリアはなくなっちまう』
「そうなりゃ、骨は拾ってやるがな」
仕方なく風呂から上がり、着替える。こんなに濡らして、から始まる妻の小言がイヤーワームとなって延々とこびりつく。
コーヒーをがぶ飲みして、強制的に目を覚ます。胃がキリキリするが必要な痛みだ。
何時になるか分からない、というお決まりのことば。
玄関を出てから、しまった、と呟く。
愛してるよ、と言うのを忘れていたな。
◇
現場近くは騒然としていた。とあるビルの屋上に視線が集まっている。
「やっと来てくれた」
マクノルティ。部下数名とともに。
群がる群衆を押しのけて、先頭に立つ。
ひとりの男が、よれよれのワイシャツ姿で、柵の外側に立っている。
つまり、いつでも飛び立てる状態ということだ。
さっそく、胃がきりきりといたみはじめる。
「名前はアルトゥール・バンディーニ、三十四歳。無店舗型の宅配業をやってます。それと……過去に、短編小説が雑誌に掲載されたことがあるとか」
「小説家か」
「たった一作ですよ。俺はあんまし分かりませんけど」
見上げる。たっぷりと悲壮感をたたえたやせぎすの男。
部下からメガホンを受け取る。野次馬たちは現場から引き剝がされていく。
「あーあー、聞こえとるか。こちらはニューヘルメス87分署のフィル・ダニエルズ警部だ。はやまるんじゃあない」
我ながら陳腐なセリフだ。男――アルトゥールは、更に悲惨な表情になり、叫んだ。
「僕を止めようったってそうはいかないぞ、僕はやってやるんだ畜生、ぜんぶあの編集が悪いんだッ」
彼が大きく手を振ると、後ろでさざなみのように悲鳴が広がった。
やりとげることはないだろう。しかし、きょうは風が強い。実に苦しい戦いだ。
「斬新な展開だなんだ、ふざけやがって、挙句の果て、靴下が裏返ってることなんざどうのこうの! 売文業も水商売ってか!? プライド捨てられるのがえらいのかよ!」
マクノルティが傍らで「十分捨ててるよ」と呟く。
「まぁ落ち着け、おれも小説は好きだ。バンディーニとはいい名前じゃあないか。ええっとな、誰かの作品の主人公だろう。ああ、そうだ、わかったわかった。セリーヌだな」
「…………ジョン・ファンテだよっ!」
やっちまった。そう思った。
すべてがスローモーションに感じて、彼の身体が揺れる。
その時、である。
突如、バンディーニの後ろに影が差したかと思うと、謎の黒づくめが現れた。
首筋に、ギラリと光るものが突き付けられる。カタナだ。サムライが使う。
ざわめきが別の種類になる。
「な、なんだっ!?」
その影は仮面をしていた。なにか、異国の祭りで使うような。くぐもった声。
「お、おれはころしやだぜぇ。ひとをころすのがだいすきなんだぜぇ」
男は悲鳴を上げる。とうぜんだ。他人に殺されるのではわけが違う。
「おい。ありゃどうなってる」
ダニエルズは部下たちにたずねる。
「わかりません。他のやつらが、屋上に入ったところは……誰も見てません」
「じゃあ、奴はいったいなんなんだ」
現場は、一気に緊張がはしる。
このままでは事件の規模が、大幅に変わってしまう。
ただ一人……ダニエルズには、予感があった。
「待ちたまえ」
そこで、また別の声。
後方から現れたのは、ラフな出で立ちの若い女性。
群衆のなかから、その名前があがった。
「エライザっ」
そう、彼女。街で便利屋を営むエライザ・ドリトルが、仮面の後方からやってきたのだ。
バンディーニといえば、両手をホールドアップさせたまま唖然としている。
「なんだきさまはぁ。きさまもきっちゃうゾーーーー」
ひどく平坦な声。台本でしゃべっているような。
「彼を殺すなら私を殺せ。彼は……素晴らしい才能の持ち主だ」
そこでまたざわめき。
何を言ってるの。状況が分かってるの。本当の殺されたらどうするつもり……等々。
仮面の男は切っ先をエダに向けて威嚇する。
しかし彼女は、ゆったりと余裕そうに歩み寄ってくる。
「エライザめ。とんだ猿芝居だ」
「……なんです?」
マクノルティの質問には答えなかった。
こちらの面子を潰すなら、ちゃんとやり遂げてみせろよ、エライザ。
ダニエルズは、年若い、彼女のことをよく知らない同僚たちに、現状維持を命じた。
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