#2 エイジ・オブ・イノセンス ①

 老後について思いをはせるとき、彼はいつもバスタブに漬かる。

 いい趣味とは言えないが、そうせねばならないと決め込んで、既に十数年経過している。今更やめられない。

 そろそろ妻の愚痴が聞こえてくる頃だ、一服を終えて出なければ――というところで、電話がかかってきた。

 泡塗れの手が何度か子機を取り落としたが、なんとか掴み、応答。

 部下――マクノルティの『うんざりだ』という声音。


『とにかく来てくださいよ。このままじゃ俺のキャリアはなくなっちまう』

「そうなりゃ、骨は拾ってやるがな」


 仕方なく風呂から上がり、着替える。こんなに濡らして、から始まる妻の小言がイヤーワームとなって延々とこびりつく。

 コーヒーをがぶ飲みして、強制的に目を覚ます。胃がキリキリするが必要な痛みだ。

 何時になるか分からない、というお決まりのことば。

 玄関を出てから、しまった、と呟く。


 愛してるよ、と言うのを忘れていたな。



 現場近くは騒然としていた。とあるビルの屋上に視線が集まっている。


「やっと来てくれた」


 マクノルティ。部下数名とともに。

 群がる群衆を押しのけて、先頭に立つ。

 ひとりの男が、よれよれのワイシャツ姿で、柵の外側に立っている。

 つまり、いつでも飛び立てる状態ということだ。

 さっそく、胃がきりきりといたみはじめる。


「名前はアルトゥール・バンディーニ、三十四歳。無店舗型の宅配業をやってます。それと……過去に、短編小説が雑誌に掲載されたことがあるとか」

「小説家か」

「たった一作ですよ。俺はあんまし分かりませんけど」


 見上げる。たっぷりと悲壮感をたたえたやせぎすの男。

 部下からメガホンを受け取る。野次馬たちは現場から引き剝がされていく。


「あーあー、聞こえとるか。こちらはニューヘルメス87分署のフィル・ダニエルズ警部だ。はやまるんじゃあない」


 我ながら陳腐なセリフだ。男――アルトゥールは、更に悲惨な表情になり、叫んだ。


「僕を止めようったってそうはいかないぞ、僕はやってやるんだ畜生、ぜんぶあの編集が悪いんだッ」


 彼が大きく手を振ると、後ろでさざなみのように悲鳴が広がった。

 やりとげることはないだろう。しかし、きょうは風が強い。実に苦しい戦いだ。


「斬新な展開だなんだ、ふざけやがって、挙句の果て、靴下が裏返ってることなんざどうのこうの! 売文業も水商売ってか!? プライド捨てられるのがえらいのかよ!」


 マクノルティが傍らで「十分捨ててるよ」と呟く。


「まぁ落ち着け、おれも小説は好きだ。バンディーニとはいい名前じゃあないか。ええっとな、誰かの作品の主人公だろう。ああ、そうだ、わかったわかった。セリーヌだな」


「…………ジョン・ファンテだよっ!」


 やっちまった。そう思った。

 すべてがスローモーションに感じて、彼の身体が揺れる。

 その時、である。


 突如、バンディーニの後ろに影が差したかと思うと、謎の黒づくめが現れた。

 首筋に、ギラリと光るものが突き付けられる。カタナだ。サムライが使う。

 ざわめきが別の種類になる。


「な、なんだっ!?」


 その影は仮面をしていた。なにか、異国の祭りで使うような。くぐもった声。


「お、おれはころしやだぜぇ。ひとをころすのがだいすきなんだぜぇ」


 男は悲鳴を上げる。とうぜんだ。他人に殺されるのではわけが違う。


「おい。ありゃどうなってる」


 ダニエルズは部下たちにたずねる。


「わかりません。他のやつらが、屋上に入ったところは……誰も見てません」

「じゃあ、奴はいったいなんなんだ」


 現場は、一気に緊張がはしる。

 このままでは事件の規模が、大幅に変わってしまう。

 ただ一人……ダニエルズには、予感があった。


「待ちたまえ」


 そこで、また別の声。

 後方から現れたのは、ラフな出で立ちの若い女性。

 群衆のなかから、その名前があがった。


「エライザっ」


 そう、彼女。街で便利屋を営むエライザ・ドリトルが、仮面の後方からやってきたのだ。

 バンディーニといえば、両手をホールドアップさせたまま唖然としている。


「なんだきさまはぁ。きさまもきっちゃうゾーーーー」


 ひどく平坦な声。台本でしゃべっているような。


「彼を殺すなら私を殺せ。彼は……素晴らしい才能の持ち主だ」


 そこでまたざわめき。

 何を言ってるの。状況が分かってるの。本当の殺されたらどうするつもり……等々。

 仮面の男は切っ先をエダに向けて威嚇する。

 しかし彼女は、ゆったりと余裕そうに歩み寄ってくる。


「エライザめ。とんだ猿芝居だ」

「……なんです?」


 マクノルティの質問には答えなかった。

 こちらの面子を潰すなら、ちゃんとやり遂げてみせろよ、エライザ。

 ダニエルズは、年若い、彼女のことをよく知らない同僚たちに、現状維持を命じた。

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