【第三章】 マイ・フェーバリット・シングス
#1 エライザ・ドリトル
あるとき、彼女は街にやってきた。
夜会のドレスを着て、長い黒髪。時刻は日付変更線をとうに過ぎていて、ストリートのただなかだった。
ひどく怯えた様子で、ネオンサインや、車の連なりに身体を震わせていた。
何人もの軽薄な連中が軽口をたたいていたが、それに毎度のように反応し、縮こまっていた。
夜の住民たちが、見かねて彼女に助け舟を出した。
まずはガウンをやり、それから、ダイナーへと連れて行った。
どこからきたの。なんでそんな恰好。ここの人間じゃあない。
質問に彼女は答えられず、申し訳なさそうに、すこしだけコーヒーを啜った。
ダニエルズ刑事がやってきたのはたまたまだった。しかし、彼女にとっては幸運だった。
当時まだ四十八で、理想と現実の狭間と格闘している最中だった。そんな彼の唯一の息抜きが、その店でヘミングウェイを読みながらブラックコーヒーを飲むことだった。
ああ、刑事さん。聞いとくれ。この子が。なんだかわかんないんだけど。
警察といえばたいていは嫌われ者だが、彼だけは違った。
メインストリートから外れた異人街。様々な人種、マイノリティが集うその場所で、多くの人々の悩みを聞き、親身になってそれにこたえていたから、とても信頼されていた。
だから、彼が彼女の向かい側に座り、眼鏡を取り出した時には、住民たちは、彼にゆだねることを決めていた。
そして実際、ダニエルズは、辛抱強く、彼女が心を開くのを待った。
どれくらいの時間が経過したのか。
たしかに彼女は『逃げてきた』存在であった。
しかし、どれだけ調べても、彼女がどこからやってきたのかは、まるで分らなかった。彼は頭を悩ませた。まるで途方もない何かが、この謎の、十代後半に見える少女の背後に渦巻いているようだった。
彼は、彼女に住処を与えてやり、失われたものを取り戻せるように心を尽くした。
どう考えても一介の刑事のすることではなかったが、なにかが彼を動かしていた。
それは、現実のなかで磨り潰されていくよりも、やりがいがある、と考えたからかもしれなかった。
とにかく、彼女は、刑事と出会ってから、徐々に、隠されていた生来の性格を覗かせはじめた。
しばらくの月日が経過したとき、それは唐突にやってきた。
彼女の住居を尋ね、インターフォンを押したが、返事がなかった。
そのかわりに、なにか押し殺した悲鳴のようなもの。
刑事は少し葛藤し、その後、ドアを蹴破った。
そこには、彼女が居た。
そして、その向かいに――かいぶつがいた。
かいぶつ、としか言えなかった。ヒトの姿の表面を、トゲか何かが突き破っているような。襲われている。悲鳴は彼女のものだった。刑事は踏み込もうとした。
「来ないでッ」
聞いたことのない大声で彼女。そしてまもなく、かいぶつが完全に、彼女を押しつぶそうと。ダニエルズは、手を伸ばす……。
……意識を取り戻したとき、彼は、自分が何をしようとしていたか忘れていた。
ただ、どうも自分は部屋に入っていたらしい。
目の前には、乱れた着衣の彼女。なにかとんでもないことを、刑事として、男として、そして人間として、やってはならないようなことをしたのでは、昨日は酒なんて飲んでいない、というか昨日は何をしていた、なにかが抜け落ちている――。
パニックに陥りかけた刑事を助けたのは、ほかならぬ彼女だった。
呆然と、促されるままに、ソファに座る。
向かいの彼女は、ジーンズにフード姿だった。いつからそんな出で立ちになっていたのか、思い出せなかった。
「おじさま。ずっと言っていなくって、ごめん。そして、いまから話すことを証明する手立ては、なにもない。連中はそんなことを許さない。だからこれは、ひとつのおとぎ話」
そんな前置きとともに、彼女は語る。
確かにそれは途方もなかった。なにせ、それを直接目撃することはできないのだから。
彼女の言葉を信じるほか、なかった。
感染者という存在。組織の存在。かりそめの平和を維持するための記憶処理。
そして、彼女自身が、つい最近感染者として覚醒し――何度も、同胞たちを撃退し続けてきたということ。その果てに、彼女は孤独になり、ひいては、自分でそれを選ぼうとしているということ。
「気が狂ったと思われてもいい。でも私は逃げたかった。逃げた先で、居場所があると思ったけれど、そうはならなかった。私は、誰も傷つけたくない。ほかならぬ、貴方も」
彼女は涙を流していた。ダニエルズはそれを見て、一瞬でも正気を疑った自分を恥じた。ほら、泣いてる市民が居る、じゃあどうするんだ、おれの親父はどうしてた?
……彼は決意した。その決意は途方もなかったが、巧妙にそれをさりげなく見せる手段を、二十余年の警察生活で身につけていた。
「ごめんなさい、今日のことは忘れて――」
「忘れるもんか」
「えっ」
「覚えとくのがおれの仕事だ。婆さんの飼い猫の名前だってなんだってな。それに、お前さん。その『チカラ』とやらで、誰かを傷つけたのか。違うんだろう。それは自分自身を守るためだけのもんだった。違うか」
「私は……」
「問題は。お前さんは、どうしたいか、だ」
「私が、どうしたいか……」
彼女は悩んだ。
それでまた月日が経過したが、必要なことだった。
何度も彼女は力を行使し、そのたび、それはなかったことになった。
ダニエルズは歯がゆい思いをしたが、大切な痛みだと思うことにしていた。
時間が、彼女を、彼女の存在理由を、結晶化させてくる。
そうして、ダニエルズの髪に、白いものが混じり始めたとき、彼女は言った。
「おじさま。私は……この力を、連中とは違う使い方をしたい」
これまでにないほど、決然とした表情だった。
「というと、どうなる」
「ヒトも感染者も、私は救いたい。この街で、誰かにとっての止まり木になりたい。私はそのために、この力を使う。逃げた先がこの場所だったんだから、ここで頑張らなきゃ」
もう揺るがないな、とダニエルズは思った。
同時にそれは、ある時間のおわりを意味していた。もう、やれることはひとつだ。
「……そうか。だったら。こいつを渡すことにする」
彼は一冊の本を手渡した。年季の入ったハードカバー。
「これは」
「天使の街で、やせ我慢と軽口で身を守りながら戦い抜く男のはなしだ。おれもかつては、そうありたかったが。もう、おれには無理だ。だから、お前さんに託す」
「……長い、お別れ……」
「やれるだけやってみせろ。おれが責任をもつ」
彼女は胸にその本をかき抱いた。
また涙を流すのかと思ったが、もう、そんなことはなかった。
再び顔を上げたとき、彼女は、ひとりの、意志をもった存在だった。
「うん。私。やるよ」
まもなく彼女は、きれいな長い黒髪をばっさり切った。
街の女たちは口惜しそうにしていたが、彼女にとってそれは忌まわしい過去の象徴だった。
ようやくあの女と決別できると、さっぱりした口調で言っていた。
それから、住処にしていた場所に、事務所を開いた。
何でも屋。便利屋。好きな名前でみんな呼んでいた。
ただ共通するのは、まるでその場所が光り輝くように、彼女と同じような、悩み、苦しんでいる存在が、毎日のように訪れるようになったということ。
彼女は『所長』として、ひとりひとりに尽くした。いつしか、同じような境遇の女たちを仲間として迎え入れたりするようにもなった。そのなかには、ダニエルズが救えなかった若い女たちもいた。
もう、自分は必要ないな――彼はそう思うようになり、気持ちがすっかり楽になって、まもなく、定年退職を迎えようとしていた。
しかし、そうはいかなかった。
彼女――エライザ・ドリトルを脅かしていた『過去』は、大きな運命となって、街そのものを呑み込もうと、胎動をはじめていたのである。
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