#10 ファスト・アンド・フューリー ⑨

 シェンメイは絶句する。自分は何を見ている。

 エダが、あの男と対峙している。

 それはわかる。

 問題なのは、



「はははは、は…………」


 クリスの哄笑が不意に止まる。

 脚部に奇妙な引っ掛かり。覗き込むと。

 ……父が居た。車輪を這い上がり、こちらにのぼりつめてこようとする、無数の小さな父の姿。回転のたび剥がれ落ちて、どす黒い血をまき散らしながら潰れていくが、そこからまた新たな父が生み出され、こちらに向かってくる。


 加速は続いていて、すべての景色が通り過ぎるいくつもの光にすぎなくなっていたのに。それなのに、そこに父が居る。振り切ったはずなのに。逃れたはずなのに。

 焦りがやってくる。背中を冷たいものが濡らす。


「逃げられない。逃げられない。逃げられない。逃げられない」

「やめろ、しゃべるな、やめろ、やめろ……」


 ハンドルがきかなくなる。このまま停止すればどうなるか。金属の擦れる音。恐怖。


「おまえは――なにからも、にげられない」

「やめろぉーーーーーーーーーーーっ!」


 そして、無数の父親とともに、彼は横転した。

 直後、衝突した車両が爆発し、その激しい光の中に、彼は呑み込まれた。


「う、あ…………」


 彼は傷だらけで、既に仮面は破壊され、ただのクリスになっていた。

 脚部はずたずたになって、二度と路上を疾駆することも、速度を征服することもかなわない。炎の照り返しを受けながら、ガラスの破片の痛みを感じながら、這いずる。遠くへ、少しでも遠くへ。

 こんなはずではなかった。自分を縛り付けるすべてから逃げるつもりだった。

 だけどこの国はこの街は思っていたよりもずっと狭くって。

 仲間も、女も、何もかもが枷になっていた。いつか、どこかの古い映画館で観た。途方もない荒野を、バイクで駆けていく男たち。自由。追い求めた、憧れた。


 その結果がこれか。このざまなのか。誰よりも低い目線。ぼやけた視界で、通り過ぎていく人々が、自分を見下ろしているのが分かる。それはあざけりとあわれみ。怒りや恐怖よりも、もっと不快なもの。やめろ、そんな目でおれを見るな。頼む、やめてくれ。


 ……唇をかみしめて血が出て、鼻水が噴き出して、涙が止まらなくなった。

 彼はもうこわれていた。不可逆な変化だった。

 これ以上みじめになりたくない、ただそれだけ、だった。


 暗いところにいこう、誰にも見られない路地裏に。

 重い二輪の身体を、両腕で引きずりながら移動しようとしたとき。視界の端から、かさかさと音がした。

 見ると、そこには。

 父が居た。父が、群がっていた。


「…………――――」


 まもなくそいつらはクリスの身体に完全に覆いかぶさって、その自我を粉砕した。



「という、お話…………だ」


 エダはフードをぬいで、ずるずると座り込む。

 あの青年はまだ気を失ってくれている。

 まだ、見せる時ではない。それで正解だ。

 そして、クリスは。『少し離れたばしょ』に居た。

 口から泡を吹いて、がたがたと四肢をけいれんさせながら倒れている。「やめろ」「とうさん」という独言を繰り返している。


 彼は暴れまわった。ひとしきり、破壊を繰り返して、とうとうここに戻ってきた。

 半分は真実で、半分はそうではない。

 彼は、ないものを見ていた。

 それが、エダの能力。はじめからクリスは、彼方になど行けなかったのだ。

 だから、この戦いは、それで終わるのだ。


 しばらくして、ドローンが飛んでくる音が聞こえた。

 エダは深く息を吐きながら、友人のひとりを失ったことを、改めて実感した。



「どうかしら。それが彼女のちから、ですわ。自分のことをブギーマンだ、なんて言ってますけれど、センスないですわね。そのままだもの」

「なにを、やったの……


 シェンメイが叫び、端末が手から転げ落ちた。

 夕陽。複雑な影が、室内に放射される。

 相手の表情が見えないことが、シェンメイにとっては恐怖だった。

 そして、じわじわと怒りに変わってくる。こんなものを見せてどうしろというのだ。こんなもの。


 エダ。よりどころにするなら、そこだった。もう、そこしかなかった。

 目の前の謎めいた女が現れなければ、何食わぬ顔で会いに行き、転んだとでも言おうと思っていた。

 それが、なんだ。あの子は何になったの。

 こんなふうに、なにか意味の分からない、まじないのようなことを。既知の存在がどろりとしたものに変貌する。


「教えてあげましょうか。あなたが、いま、何を……考えているのかを」


 影に同化して、背中から囁く。その腕が絡みついてきて、そっと。


「困惑している。こんなものを見せやがって、と、怒ってもいる。だけれど、ほんとうは違う……あなたの思いに、名前を付けて差し上げますわ……あなたは、エダを」

「やめ、て」


 エダ。エライザ。親友。どんな時だって自分の味方のはず。

 自分が傷ついたとき、傍にいてくれた、いつも。あの時は違ったけど、それ以降はきっとそうじゃなくなる、だから安心していい、もう誰も自分から離れない、自分の敵になんか。


「あなたは――エダを、


 目を見開く。

 映像。フードを被った女。

 知らない。こんなやつは知らない。そう、知らない。


 こんな、街を、巻き込んで、破壊させた、おそろしいやつなんて。

 知らないから、自由だ。

 なにをおもったって、いい。なにを、ぶつけたって。


「……あなたは自由。もう、誰にも脅かされない……」


 するりと、腕は抜けていって、後ろのドアから、その女は静かに去っていく。

 キイイ、という音が、なにか別の甲高い金属音にきこえる。


感染者ウーンガンを集めなさい。あの子には、絶対に見捨てられない……」


 その声が埃の舞う空間に拡散し、消えていった。

 シェンメイはひとり、膝を抱えて震えている。

 爪を噛む。ぎちぎち。痛み。血が出る。だけど、あの男に打たれた時よりも意味があるものだ。この痛みは、夕暮れのまどろみを消し去ってくれる。冷たい夜が来る。

 何度も噛む。噛む。


「エダ……」


 名前を呼んだ。その次に呼ぶ時には、もう別のものになっている。


「エライザ……っ!」


 顔を上げたとき、そこに居たのは、ひとりの感染者に憎悪を募らせた存在だった。

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