#9 ファスト・アンド・フューリー ⑧


 エダは膝立ちになった状態で天を仰いでいる。

 そのままがくがくと震えながら、白目を剥いている。口からはよだれを際限なく垂らし、箴言のごときものがあふれていく。

 それは離れた場所で、『それ』とリンクし、対象に向けた警句を放つ。


「おまえはどれだけ高価なジャケットをまとおうと、二輪車を改造しようと、ひ弱なガキのままだ。すべては、俺に正面から勝てないからだ。おまえは逃げ続けている」


 クリスの高笑いは消えていた。炎の向こう側からやってきたのは父親だった。

 正確には、父親の悪夢だった。

 ドロドロに溶けた、ピンク色のはらわたの肉の塊。

 足のような部位を無数に動かしながらこちらに迫ってくる。水泡のように空いた部位が、口の役割を果たしている。

 ざわざわと表面が粟立って、銃口が生えて、放たれた。

 ……直撃。車体のフレームの一部が欠損する。なおも怪物は迫って。さらに銃撃。


「お前は弱虫だ。男の腐ったような奴だ。お前は実はホモなんじゃないのか。だとしたらお前は死ななきゃならない。お前は、お前はお前は――」


 言葉をかき消すように車輪が加速した。火花がまき散らされて、肉塊に躍りかかる。

 いくつもの弾丸が鋼鉄の怪物に突き刺さっていくが、その痛みは、もはやクリスにとってはどうでもよかった。己の全身全霊で、眼前の存在を轢きつぶすことだけを考えた。


 数秒後、その願いはかなう。

 怪物の車輪は、父の姿を孕んだ肉の塊を、ぐちゃぐちゃに引き裂く。引き裂く。引き裂く。刃が食い込むたびに父の顔が現れて、水泡の口があらたな過去のことばを向けてくる。なにもかもが、いまの自分を否定してくる。

 鳴り物入りで怪物になった、この物語ナラティブをくい破り、冷や水をかけてくる。それは自身の尊厳を破壊するものだ。この街のなかで、単なるロクデナシとして、また自分が見向きもされなくなってしまう。それを避けるために、こんな身体になってまで――。

 肉が飛び散った。臓物の色彩が地面に撒かれると、それはまた再生しようとしたが、あまりにも部位が少なかったらしく、未遂に終わり、もとの肉に戻る。

 自分は悪夢を見ているのか。だったら否定するまでだ。

 刃の車輪が父親を切り刻み続けて、やがて。

 いくつもの夜の光が彼らを取り囲み。ひしゃげた車の連なりと、轍が刻まれたビルの壁に囲まれたグラン・ギニョルは。

 ぐしゃり、という最後の音とともに終わりを迎える、彼は、己の物語の再起動を歓迎する。


 ――はは、ははははははははははは。俺は、俺は勝ったぞ。俺はクリスだ。

 だが。

 エダはまだ、痙攣を続けている。


「哀れだな。それで、勝ったと思ってる。俺には永遠に勝てないのに」


 声がした、そんなはずはないとクリスは思った。たった今、轢き潰したのだから。

 それは足元からやってきた。わずかな車輪の隙間から、潰れた肉が徐々に寄り集まって、カタチを成していく。

 やがては、こちらを、地面から覗き込むようにして――そこに、父の顔があった。


「お前は。永遠に。弱いままだ。そんな姿になっても、永遠に」


 その言葉が、契機となって。

 再び肉塊を蹴散らしたあと、彼はエンジンを激しく駆動させ、急加速。その場を置き去りにして、街路を疾駆し始めた。


 夜。明滅するネオンが彼の視界に侵食し、ねばついてから離れていく。無数の手が、彼の身体を撫でまわすように感じる。なにもかもをはねつける鋼鉄のはずなのに、彼は今、まるはだかだった。

 仮面の奥で彼は吠える。刃の車輪がアスファルトを次々と粉砕しながら進撃していく。 妨害者は、不思議なほど存在していなかった。誰も居ない路地に並んでいる乗用車。進行方向に並んでいる。

 邪魔だ、じゃまだ。俺のじゃまをするやつは全部こわしてやる。

 鋼鉄を刃が引き裂いていき、それが連鎖的に連なって次々と爆発を起こしていく。 夜の空を火柱が装飾し、轟音が静寂を塗りつぶす。

 人馬一体の異形が街路を征服し、通り過ぎたすべての場所を、スクラップと引き裂かれ、凌辱されたアスファルトで覆っていく。彼は間もなく、大通りへと殴りこむ。


「逃げるのか」「なさけないやつだ」「おまえは、いつまでたってもそうだ」


 どこにでも父親が生えている。信号機に、ビルの液晶に。あらゆるところに父親が居て、彼を取り囲んでいる。その声は冷徹に淡々と、支配する者のことばで告げる。 己の虚証を、強引に剥ぎ取っていく。彼には、耐え切れない。

 通りに乗り込んだとき、目の前を、たくさんの通行人たちが居た。皆が自分を見て、恐怖に震えていた。

 だけどそれはどこかで、見下しているようにも見えた。我慢ならない。


 ぐしゃり。彼は踏みつぶした。

 ぐしゃり、ぐしゃり。血しぶきが、いやなぐちゃぐちゃが車輪に絡みつく。振りほどくには、さらに速度を上げねばならない。父の声がする。離れる必要がある。ちょうど、信号が青だったから、車が交差しながら通っていた。割り込む。


 突如、乗り込んできた巨大な人馬に、車両が何台か、まとめて吹き飛ばされる。落下地点に居た人々が巻き込まれて、煙が起きる。直後、爆発、連鎖的に。悲鳴。窓ガラス。クラクション。ほうほうのていで脱出した者たちがカメラを向ける、怪物に。


 ――それらすべてを、彼は『感じて』いた。それが燃料になった。


 車両を蹴散らしながら、進んでいく。

 アスファルトに亀裂が迸り、その空隙に車両のタイヤが落ち込んで体勢を崩し、さらなる混乱が起きていく。至るところで怒号が聞こえるが、すべてを後方へと追いやっていた。

 彼はバイクであり、それ以上の何者でもなかった。ぶっとんでいく鋼鉄のいくつものかたまり。ぶちあたって爆ぜる。

 そのまわりで、皆が泣き叫ぶ。いいぞ、俺は強い。俺は誰よりも。


「お前は、お前は――…………」


 父親はあらゆる場所に居て、彼を追い詰めようとしていた。

 弾丸が身体に当たるが、そのいずれも、意味をなさなかった。この加速の、エンジンのかぐわしい唸りの前では。


 彼の恐怖は歓喜へと変わっていたが、それは破滅への序曲。


 その、脚部の両輪に、無数の鉄の残滓が絡みついていることにも、まだ気付いていなかった。それが間もなく、文字通り、足元をすくうことにも。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る