#8 ファスト・アンド・フューリー ⑦

 エライザ・ドリトルは傍らの青年を気絶させる。

 もしものこともあるかもしれなかった。それは得策ではない。

 向かい側の男は完全に暴走をはじめようとしている。

 覚悟を決めると、彼女の身体はがくがくとけいれんを始めた。

 膝から崩れ落ちて、白目を剥き、よだれが垂れる。

 口が開いて、そこから何かが漏れ出す。

 気体のような。床面に立ち込めて、なんらかのかたちを形成していく。


 その完成を待たず、二輪車のケンタウロスが突っ込んでくる。

 あらゆるものを粉砕して薙ぎ倒す。

 車輪の刃はその鋭さを増し、後部から黒煙が噴出する。

 顔面にはめ込まれた鉄仮面からは、もはや人の域をこえた獣の叫びが、とどろいてくる。

 エダは轢殺される。そのままだと。

 そうは、ならなかった。


 進撃が食い止められた。床材がバリバリと剥がれる。衝撃波がちらばる。

 仮面の奥で驚愕の悲鳴が聞こえた。

 ひとりのおとこが、そこに立っている。

 タンクトップに鍛え上げられた身体、肩には海兵隊の刺青。ジャーヘッドの下、五十絡みの皴と対照的な鋭い目つき。

 その腕が、車輪を受け止めていたのだ。火花をまったく意に介さず、彼は言った。


「父に逆らうのか」


 もう片方の腕が伸びて、回転を続ける車輪を掴んだ。

 刃によって肉がずたずたに裂ける、腕部に食い込んで切断する、血が噴き出す。

 どれも起きなかった。

 車輪を掴む拳は不定形で、絡みつく泥のようになっていた。それが全体を包み込んでいる。

 仮面は目の前の存在を、自分にとっての脅威と認識しながらも、もうひとつの真実を理解する――こいつはにんげんじゃない。いま、目の前に居るのは……。

 次の瞬間、バイクの騎士は、店外に放り投げられた。


 街路を挟んだ反対側の建物。

 叩きつけられた偉業によってヒビが入り、揺れる。

 崩れ落ちる。煙が立ち込める。瓦礫が洗礼のように頭上から降り注ぐ。

 すべてを振り払い、街路へと飛び出す。

 店の外に、その男は出てきている。近づいてくる。


「おまえには、しつけが足りないようだ」


 彼は猟銃を持っていた。

 ずっと小さいころから、見続けていた。

 壁にかけられていたもの。命よりも大事だと、名誉だと言っていた。

 少しでも馬鹿にされたら、夜更けになるまで殴られた。

 仮面の奥で、悲鳴が響く。過去の扉が、こじあけられる。


「お前は昔から男の腐ったようなのだった。その性根を叩きなおそうとしても、お前はいつも逃げていた」


 その男は叫びながら、猟銃をぶっ放した、何度も何度も。

 激しい衝撃波がバックファイアとして吹き荒れて、後方の瓦礫をことごとく散乱させていく。地面が割れてガラスが粉砕される。

 弾丸はクリスにぶつかることなく、車両に当たった。

 爆発、炎上。汚水の水たまりに粘性の煙が映り込む。受け流し、男は更に前に進んだ。表情は氷。冷徹。怒りはなく、しつけの延長、であるように見えた。

 それが、クリスにはたまらなかった。


「う、ああああああああああああああああ!!」


 叫びが全身を駆動させた。エンジンが悲鳴を上げる。黒煙が噴出する。

 刃の車輪が路上をズタズタにしながら轍を刻み込み方向転換。

 そのまま男に背を向けて、反対側の建物の壁に激突した。

 ……数秒後。轟音。

 飛び出したクリスは、ショーウィンドウの一階を破壊してから、刃を食い込ませた状態で、壁伝いに爆走し始める。

 破砕されていく壁材、洗礼のごとく降り注ぐそれが、真下のオブジェクトすべてに降り注いでいく。

 轍が、ひきつれたやけどのように、消えない傷となって建造物に刻み込まれていく。男は静観していたように見えて、次の瞬間には、駆け出した。


「ひ、いいいいっ…………」


 全能の魔法は解かれた。

 いま、彼は逃げている。

 眼下で、人々が悲鳴を上げ、交通渋滞が巻き起こっている。サイレンとクラクションの多重奏。割れるネオンが落下して飛び散り、夜の街に淫らな色合いを添える。彼の居場所だったところ。そこすら否定されて、再び過去がやってくる。後ろから。

 ビルの壁を走るバイク男を指さす者は絶えなくとも、そいつがやってきたことに、誰も言及しないのが不思議だった……はずなのだが、いまのクリスに、気付く余裕はなかった。いつの間にか、その男は、屈強な、男らしい男は、彼の真下に追いついていた。

 猟銃が狙いをつけて、放つ。息子に。

 回避せねば。車体が大きく傾いて、壁にめり込みながら進路を変えた。

 銃弾が、建物屋上の給水タンクに吸い込まれる。

 破壊。大量の水が降り注ぐ。真下でさらに騒動が起きる。

 地面へとハンドルを切った。

 着地。一台の上へ。へしゃげて爆発。周囲に、アリの子のように人々が散っている。自分を見てのことか、それとも。

 後ろを振り返る。照り返しを受けながら、父はこちらに進んでいた。なんとかして止めなければ、と彼は考えていた。再び立ち向かう勇気は、もはやなかった。

 寸断され、炎上した車両のうち半分を、筋力を増した両腕で掴むと、放りなげた。

 銃口が閃いたのが、見えた。すかさず、もうひとつ、投げた。

 父は、ひるんだ。炎に巻かれて、苦しんでいるのが分かった。

 クリスは仮面の奥で、快哉を叫んだ。


 ――彼は気付いていない。

 ――どこまでが本当に起きているのか、その区別が、彼にはついていない。


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