#7 ファスト・アンド・フューリー ⑥

 ドアを後ろ手に閉めたシェンメイの視界には、何もない部屋がうつっている。


 その場で叫びたくなる気持ちをこらえて、事務的に手を洗い、窓際に座り込む。

 すると、やはり見えるのは街並み。自分たちの住んでいる街だ。

 遠くに摩天楼が立ち並び、そのふもとには、活気のある住宅地が広がる。

 夕刻、徐々に人々が集まってきて、ネオンサインの点灯が広がっていく様子が分かる。どこかで誰かが何かをやって、そのたび、それに対応する喧騒が上がる。

 人種も年齢も、多様な街。


 それゆえに自分は迫害され、それゆえに自分は救われた。

 けれど――それゆえに自分はゼロになって、いま、こうして追いやられている。

 なぜ、という気持ちが尽きない。

 膝を抱えて煙草を吸おうとしたが、うまく火がつかなくって投げ捨てる。

 救われる誰かに含まれなかった、それだけ。

 何に怒りをぶつければいいかは分かっていた。だけど。


「それだけは……だめだもの」


 チャイムが、鳴った。

 ドアを激しく叩く音が聞こえる。続いて、怒鳴り声。


「シェンメイ、居るんだろ、シェンメイ」


 凍り付く。知っている声。変わらず、粗野で。簡単にこちらの領域に入り込む。

 無視をしたかった。去って行ってほしかった。

 シェンメイの身体はそれでも自動で動いて、ドアを開けてしまった。

 仕組まれたことであった。


「探し回ったんだ。やっと見つけた」

「どうして」


 『その男』は、有無を言わさず上がり込んできた。

 立ちすくむシェンメイを押しのけ、からっぽの仮住まいを見渡して悪態をつく。

 直後。


「許してくれっ」


 壁にシェンメイを押し付けて、強く泣き叫び始めた。


「俺が悪かった。だけど愛してる、愛してるんだ。戻ってきてくれ」


 粗末な身なりをしていて、息は酒臭かった。

 別れてからそれなりの年月が経過しているが、ろくな生活をしていないことは分かった。

 ちくりと、心にトゲ。節くれだった腕が自分を掴み、荒々しく抱き寄せてくる。

 その声はどこか演劇的だ。


「……駄目よ。やめて」


 押しのける。

 きっぱりと告げる。何もかもが時効だ。


「あなたのせいで、私がどんな暮らしに追いやられたか……もう、何も言うことはない。帰ってちょうだい……お願い」

「シェンメイ……」


 痛み。

 殴られた。あたまの一部が白くなる。

 倒れこむ。男は馬乗りになってきた。

 必死に声を張り上げて、もがく。

 窓の一部は開いている。誰か、知り合いが通ることを期待する。


「てめぇ、てめぇのせいでな、俺は、俺はみじめな男だ、とんだ烙印を押し付けられたんだ。俺をコケにしやがって」


 だけど、そんなものは期待できない。夕暮れの街の騒音に混ざって消えていく。

 シェンメイは殴られた。何度も何度も。口のなかが切れて、鉄の味がする。

 男が自分を愛しているのも、いまとなっては憎んでいるのも、どちらも本当だ。

 だけど、そのどちらもが、いまの自分には理不尽でしかない。

 男の声は遠くなっていき、かわりに、どす黒いものが渦を巻きはじめる。

 なぜ、どうして私が、こんな目に遭わなきゃならないの。

 ねぇ、誰も助けてくれなかった。

 助けてくれるんじゃないの、こういう時。

 ねぇ、なぜあなたは、私をただ抱きしめるだけだったの。親友じゃないの。

 親友だったら、それくらいのことを。

 エダ。私は、あなたを。


「―……ばー・ざ・れーいん、ぼーーーーう…………」


 歌が聞こえた。

 振り返る。

 戸口に、ひとりの女が立っている。

 白と青のワンピースを着ている、赤毛の。大昔の、白黒映画で見たことあるような。


「ああ、なんだてめぇ」


 男が振り返って、女を威嚇した。部屋に踏み込む。視線が、シェンメイに。


「ここもまた、カンザスじゃあ、ありませんわね」


 その言葉とともに、魔法がかかったようになった。

 男が、自分とかつて浅くない関係であった者が、女に殴りかかった。


 しかし、女はそれをするりと避けて、懐に潜り込むと、激しく殴打した。

 途端に崩れ落ちる男。真上から振り下ろされる、踵。

 叩き伏せられ、痙攣する。吐しゃ物の海。


「あら。ごめんなさい。あとで拭きますわ。他人様の掃除、得意ですもの」


 こちらを見て微笑んで。現実では、ないみたいだ。

 突っ伏せる男を引き起こして、頬を張る。何度も何度も。


「ひ、ひいっ」

「汚らわしい。豚が」

「やめ、やめてくれっ」

「ひとつ。今すぐここを出て、この方に二度と近づかないと誓う。もう一つは、貴方のくだらないプライドを優先して、ここで血の雨を浴びるか。十五秒以内に選びなさい」


 血の雨。ふしぎと、誇張表現にも思えなかった。

 そして、この状況を、止めようとせず、呆けて眺めている自分自身も、なんだかおかしかった。

 男はすぐさま前者を選び、こちらに向けて何度も言葉を尽くして謝罪した。

 そのほとんどは聞き取れないまま、へっぴり腰で、彼は逃げていった。

 ほんとうに、もう二度と出会わない。なぜだか、そう確信できた。


「……ふう。男ってのは、これだから」

「あ、あの…………」


 女は心底軽蔑しきった目線を、玄関に向けていて。

 それが済んだ後、にっこりと笑って言った。


「わたくし、ジュディ・ガーランドと申しますわ。すみませんけれど、ウエスはありませんかしら?」



 その女は有言実行で、シェンメイが見ているところで、ほんとうに部屋を掃除した。

 そのあいだずっと彼女は口ずさんでいた。あの昔のミュージカル映画の曲を。


「あの……その、ありがとう、ございます」

「いいのよ。わたくしは、すべてのあなた達の、味方」


 そして今ではとうとう、救急箱による手当を受けていた。

 あまりにもあっさりと、彼女の存在を許容できてしまっている。

 こういうのを、男たちは、魔性と呼ぶのだろうな、とシェンメイは思った。


「あなたは何なの。なんのためにここに来たの。どうして私のことを」

「もちろん。貴女に用があってのことですわ。そこにあのウジ虫が居たから追い払った。安心なさい。料金なんてとらないんだから」

「じゃあ、じゃあ一体、私への用っていったい何なの。意味が分からない……」


 きょう一日で、色々なことが起きすぎた、わけがわからない。

 母にずっとついていたいけど、それも出来ない。

 記者の連中は自分をまだあきらめていない。

 それに、エダにも、ちゃんと謝っていない。


「分からないよ。帰って、帰ってちょうだい。ひとりにしてよ。もう疲れた……」

「だいじょうぶ。すぐに分かるようになりますわ。貴女を襲う理不尽。不条理。その仕組みが……」


 ジュディと名乗った女は、液晶端末を取り出すと、シェンメイに手渡した。


 そこには、ある映像……瞠目する。


「……エダ…………?」

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