#3 ファスト・アンド・フューリー ②
かくして、朝を迎えたのである。
いま自分がいるのは、エライザ・ドリトルの『仕事場』兼、住処のようだ。
ソファとテーブル、書類机。積み上げられた書類。まったく知らない古い黒人音楽のレコードとペーパーバック小説が満載になったキャビネット。狭いキッチンには洗い物があふれている。
そして、玄関に置きっぱなしになっていた、いくつもの段ボール箱。誰かが一緒に住んでいて、出て行った痕跡。それらすべてが、手つかずのままそこにある。
「……無防備すぎる」
女は、変わらず眠っている。
おれがもし、強盗だったらどうするつもりだったんだ。
そう思うと、いますぐ叩き起こして、自分の睡眠不足についてを含めて、詰問したかったが、それがどうしても、できなかった。
弛緩した、自分が守られていることを欠片も疑わない、二十代後半と思われる背格好に似合わぬ寝顔。小さく口をあけて、くうくうと音が漏れている。
「……」
気付けばハバキは、彼女に顔を近づけていた。なぜそうしたのかはわからなかった。
はっとして、すぐに離れようと思ったが。
「いかないで、くれ……」
寝言。エダが、自分の襟首に手を伸ばして、引き寄せてきた。
「っ!」
咄嗟に、カタナを掴んで構えようとする。
そこで、目が、あった。彼女は目を開いていた。
「……」
しばらくそのままだったが、最初に飛び込んできたのは。
「最低だな、君は」
気付く。自分の片手は、彼女の胸のふくらみにあてられていた。
ハバキは今度こそ、電撃的な速度で飛びのく。
そして荒く息をつくが、対照的に、彼女はゆっくりとソファから身を起こし、周囲を見回して、自分の身体を見た。
そのあと、向けられる……ひどく、さめきった視線。
なにかを今すぐ訂正しなければならない衝動に駆られる。
「違う、何を勘違いしてるのかは分からないが、おれはただ……」
「……私の寝言を聞いた者はね。例外なく膾にされてきたんだよ。それは君であっても同様だ。ゆえに、君は……」
そこで、彼女は、ふらふらと力を失い、その場でしゃがみこんだ。
たっぷり、数十秒、続く。
さすがに、問いかける。
「おい、大丈夫か……」
「あたまいたい……おみず、ちょうだい…………」
――ほんとうに、無防備すぎると、ハバキは思った。
◇
「っ、ああ……死んでた。いま、生き返った……」
コップに注がれたミネラルウォーターをものすごい勢いで飲み干した女は、あらためてソファに座り込む。
視線は天井にあって、ハバキのことは無視しているようだった。
それでも、仕事はこなさねばならない。向かい側に座って、告げる。
「おれはバルベルデから来た。あんたの仕事を手伝うよう命じられてる」
「ああせっかくだ、君、プレイリーオイスターを作ってくれたまえよ。あの卵はまだ使えたはずなんだ、コショウは切らしてたが、まぁいい……ほら、やった、やった」
「……はぐらかすな」
顔がこちらを向く。下唇を突き出して、ぶるぶると不快の意を示した。
意地の悪い老婆にも、我儘な子どもにも見える。
「仕事を手伝う、ねぇ……監視、の間違いじゃあないのかな、青年」
唾をのむ。皮肉さに、鋭さが混じって、射抜いてきた。
「体よく『武力』として利用し、役に立たなくなりゃ、バラそうってハラだろう、あの魔女は。そういう手合いだよ、あれは」
そう言って、自分でキッチンに向かい、なにやら頭痛薬らしきものを飲んでいる。
マダムのことを言っているのだろうか。だとすれば、ごまかしは通じない。
覚悟を決めて、正直に伝える。
「そうだ。おれはあんたの感染者処理に協力する。ただし、あんた自身が暴走すれば、その時は、おれが処理する」
「……正直だねぇ、青年。そいつは美徳だよ。あの煉獄じゃ、貴重な存在だ」
底知れない笑み。マダムの告げた、彼女の渇望。
その一端が、そこにある気がした。
呑まれるわけには、いかない。
「やれるのかな、君に」
「抜刀は一瞬だ。あんたから離れなきゃ、すぐにでも首を斬り落とせる」
沈黙――剣呑な。
さて、どう出るか。返答次第では、場合によっては……。
「いいよ」
ひどくあっさりと。
呆気にとられる自分を放置して、ブラインドを上げて、窓の外を見ながら。
思いっきり、背中を向けている。はりつめていたものが、一気にしぼんでいく。
「いいよ、って……」
「なにさ。不満なのかな、青年……くあっ」
猫のように伸びをして、あくび。
「もっとも、君の上役であろうあの女は大嫌いだけどね。シリコンを注入しているせいで頬骨が気色悪いし、いい歳して谷間を出してる。おまけに毎日ステーキを食っている。君、
「あんたの個人的感情はどうでも――」
「あんた、じゃあない。失礼な。私はエダだ。君も名乗らなきゃじゃないかな、青年」
「……ハバキだ」
「じゃあ、はーくんで」
「……丁重にお断りする」
「えー。じゃあなんて呼べばいいのさ。引き続き青年って言っちゃうぞ。そしたら君は私のことをお姉さんと言うんだね。見たところ、まだ酒が飲めるトシでもなさそうだし」
「だから、ハバキだと――」
その時、ドアベルが鳴った。
動くべきときは、決断よりも先にやってきたのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます