#2 ファスト・アンド・フューリー ①
いま、彼のそばで、エダと呼ばれた女が寝息を立てている。
ソファに猫のように丸まって。
毛布をかけてやったが、もぞもぞと動くせいで、くしゃくしゃになっていた。
薄明のなか、窓に近寄ってブラインドを動かす。隙間から、街が見える。
立ち並ぶ建造物のいたるところが、損壊していて、煙を上げていた。
パトカーや散水車両のサイレンが遠吠えのように曇り空に響いていて、そのふもとでは、人びとが集って、口々に話し合っていた。
彼らの立つ地面も、ひび割れて、ガラスや瓦礫が散乱している。
「……ひどいもんだな」
「きのうの晩、ここでガス積んだ車が横転したんだと」
誰もがそう信じている。そうでないと知っているのはハバキだけだ。
もっとも、彼も、実際の光景を目の当たりにしたわけではない。
この破壊の、リアルタイムを。
◇
それは、あのならず者バイカーの変貌、そしてエダの不可思議な向上ののちに訪れた気絶から、目を覚ましてからのことだ。
不快な痺れとともに上体を起こすと、装束から無数の瓦礫の破片が舞い落ちた。
そこは店内のはずだったが、ひどいものだった。
嵐が通り過ぎてしまったように、内装や調度品のことごとくが破壊されており、そこには誰もいなかった。
床を確認――凶悪な轍が刻印されて黒焦げになり、店外に続いている。
カタナはきちんと腰に戻っている。いくつかの推理をしたあと、轍を追跡した。
……路地に出る。似たような状況だった。
破壊が、戦闘の痕跡がある。
何台もの車がスクラップと化していて、隣接するビルの壁面にも、大蛇のような焦げ跡。遠くでサイレンが響いているが、こちらに近づいてくる様子はなく、静寂が支配していた。
もしや、と、空を見上げる――居た。
旋回する未確認飛行物体のようなドローンが、何度か明滅を繰り返して、漆黒の向こう側へと、群れをなしてとんでいくのが見えた。
記憶処理装置。感染者の戦闘を見届けて、目撃者の脳内から、彼らの痕跡を消し去る。眠りは、そのための副作用だ。
数十分して目を覚ませば、別の真実が挿入されている。
正式に、戦いが終わったということ。
それを、組織側が把握している、ということ。
ちょっと待て。ならば、奴も、あの女も、どこにいる。周囲を見回す。
居た。
早朝の回収を待つスチール製のごみ箱にもたれかかって、遠くを眺めていた。
瞳は虚ろで、白いフーディーはズタズタに裂けていた。しかし負傷は、最小限。その事実。勝ったのは、こっちなのか。なら、やつはどこに。
「おい。起きろ。おい……」
「やぁ、君か。安心しろ、もう彼は近づいてこない……うう、きっつ」
酔いというよりは、純粋な疲労であるように見えた。さらに質問を重ねる。
「あんたが奴を始末したのか。どういう意味だ。奴は死んだのか」
「死んだよ、ある意味では……だから、だいじょうぶ」
口の端をゆがめて、皮肉そうな笑み。奇妙な自信が宿っているような。
直後、彼女は顔を俯けて、「ああ、しんどい」と呻き始める。
また吐きそうな表情。
小さく悪態をついて、放ったらかしに。
路地を曲がると、電話ボックスがあった。
すぐさま飛び込んで、硬貨を投入。
番号を入力して少し待つと、名前の知らない連絡員が出てくる。
合言葉を告げると、さらに待機音が流れ……応答があった。
こちらの状況を把握していないわけはないと確信があったので、すぐに話す。
「マダム。どういうことです。彼女が……『エダ』が、先任者だというのですか。いったい何者なんです」
『まずは第一歩ね。気付いたでしょうけど、彼女――エライザ・ドリトルは、感染者よ』
ひどく、あっさりと。
そんな気はしていたが。嘆息しそうになる。
知ってか知らずか、彼女は続ける。
『感染者でありながら我々に与しているのは、彼女の渇望が、街に仇なす者たちを倒すために作用しているから。実際、彼女は現在のところ、感染者を倒し続けている。どんな思惑があるのかは、分からないけれど、結果的に、ニューヘルメスにおいては、彼女は我々の戦力としての働きを示してくれている……最初にその話ができなかったのは、他の正常な地区の管理者にコトが発覚すれば、面倒だから。そこは申し訳ないと思っているわ』
渇望とは、その者が心から欲しているもの。
感染者である以上は、過剰な方向に膨らむのが常であるから、もたらされるのは、殆どが人々にとって悪影響を与える事象のはず。
だが、教官たちは、『まずありえないことだが』と前置きして、言っていた。
ごくまれに、その『渇望』そのものが、人々の役に立ち、組織の内部に組み込まれる場合がある、と。
それは概ね、根っからの善人か、もしくは狂人に限られる、と。
その例外中の例外が、まさに今回の事態ということか。
「事情については把握しました。だとしても、疑問がいくつかあります。まず、彼女の渇望がどのようなものであるのか。それが分からないことには……」
しかし、かえってきた答えは。
『不明、とするしかない。現時点ではね』
続いてマダムは、いくつかの事実を示した。
これまで幾人もの人員がこの街に派遣され、彼女と接触したが――いずれも、忘我の状態となって、錯乱して帰還した。
かろうじて、彼女の渇望について聞き出せた場合も、証言の内容は藪の中のようにバラバラで、実態がつかめないありさまだった、ということ。
「当人は、敵対していたクリスという感染者について『死んだ』と表現していました。それは、彼女の能力によって処理が完了した、ということになるのですか」
『その通りよ。こちらでも照会済。当該人物は、二度と渇望をあらわさない』
……死亡か、心神喪失か。
どちらともとれる言い回しに、若干の引っ掛かりを覚えるが、とにかく、ドローンの確認も出来たことで、あの女は仕事をやり遂げたという認識がなされたことになる。
それであれば構わない。感染者をかばうように見えたあの言動は、自身と境遇を重ねていたに過ぎないのか。
任務の詳細が、輪郭をおびてくる。
あまりにも困難で。
だが、同時に――あまりにも、おれに向いている。
「では……自分の任務は。彼女を含む、すべての感染者を処理するということですか」
『いえ、正確には……頼みたいのは、彼女の監視。つまり、その能力がそのまま、街を守り続けるか。それとも、人々にとって害をなすものへと変貌するかどうか、あなたが判断する。そのための倫理規定は、優秀なあなたですもの。頭の中に、入っているわよね』
「それは……もちろん。その判断の結果、彼女を裁かねばならなくなれば」
『無論、斬って。ただの感染者として。あなたの渇望が、記憶処理の際にも、いちばん痕跡を残さない。優秀ですもの、あなたが一番ふさわしいわ』
マダムの口調は、電話越しで、心なしか満足げに聞こえた。
そこに何かを感じ取る資格は自分にはない。とにかく、やるべきことがはっきりしてくる。
実力者。組織的行動を嫌う……それらの評価と、あの時、男たちに向けた態度。そこから、なにかが、彼女の核となるものが見えてきそうであった。
――なぜ、あの時、アオイのことがよぎったのかも。
だが、もう、どうだっていいことだ。
カタナに戻れば、雑念は消える。
そう思うと身が引き締まり、口が滑らかになった。
「では、もうひとつ。彼女の監視方法についてです。いくつか思いつきますが……」
すると、マダムは言った。
『いっしょに暮らすのよ』
「えっ」
思わず、聞き返す。
『いっしょに暮らして、いっしょに彼女の稼業を……街の便利屋稼業を手伝うの。いちばん確実なのは、その方法だもの』
「…………」
その後のハバキは実に迅速だった。
路地にそのままの位置で座り込んでいた女の無駄口を無視。
ねぐらの場所を聞き出して、鍵をジーンズのポケットから奪い取って。
動けないだの頭が痛いだの気持ち悪いだのを聞かされながら担ぎ上げ。
廃墟同然になった中華店の近くにある、古びたアパートメントの階段を上がり、『ドクター・ドリトル』と書かれている扉をこじ開けて。
上がりこんだ矢先に、自分の肩で彼女が寝息を立てているのに気付いて、また頭痛を感じ、暗がりのなかに見えたソファにその身を放り投げたのだった。
……そうして、ひどく疲れきったハバキは、カタナを抱え込んだまま、ソファのそばに座り込んで、ひどく浅い眠りについた。
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