【第二章】 ワルツ・フォー・エライザ

#1 アオイ ①

「要するに、にいさんは想像力がたりないんだよ」


 『図書館』の受付で、アオイは言った。

 夏だというのにカーディガンを着込んでいて、椅子から立ち上がった姿を、ハバキ以外はほとんど見たことがない。


「なんだよ、それ」

 

 演習でぼろぼろに負けて帰ってきた兄に、随分と遠慮がない。

 それは、コンピュータを使って皆の戦術やバイタルを管理する役割を与えられている彼女だからこその物言いだ。

 口をとがらせて、向かい側に座る。

 アオイはそれだけ言うと、また本の山に埋もれた。

 それらは、世界のあらゆるルートを通じて『校舎』に送られてくるもので、自分たちの『渇望』を生徒たちが探すのに一役買っているわけだが、肝心のハバキは、他の連中ほどうまくいっていなかった。


 思い返す――演習用チョーカーを装着、薬剤注入。

 精神を集中させれば、おのずと自身の装備が生まれる。今度こそ、と思った。

 しかし、手に現れたものは……さびついた、欠けたカタナだった。


 教官たちの落胆が聞こえて、気付けばハバキは、自分よりも年下の級友に組み敷かれていた。遠くで、セミの声が聞こえて、無力感と劣等感にさいなまれた。


 ああ……おれは、何者にもなれない。

 思い出せないほどむかし、遠いどこかの地で、妹とともに焼け出された、あの時から、何も。


「……おれは弱いよ。ずっと弱いままだ。みんなみたいに、うまく戦えない」

「にいさん、ちょっと」


 アオイが手招き。顔を近づける。

 ……ごすっ。分厚いハードカバーの辞典で、頭を殴られた。


「いってぇっ!」

「あほ。どあほ。こんこんちき。もっと言ってあげようか。古今東西、津々浦々、さまざまなバリエーションでおとどけするよ」


 顔を上げると、アオイは顔を真っ赤にしてふくれっ面だった。

 めちゃくちゃに怒っている。ほんとうになぜか分からない。


「おれ、何か、したか……」

「想像力の欠如がなげかわしいうえに、贅沢者ときてる。あたしを見てよ、にいさん」


 そう言ってアオイは、片手を袖から出してきた。

 ……青いアザが、出来ている。誰かに叩かれたりしないと、そうはならない。


「お前、それ」

「3組のアンドレくん。きのうはリサちゃんにやられたな」


 さらりと言ってのけたが、それが意味するものは。


「あたしはね。みんなから嫌われてる。じゃましてるわけじゃない。むしろ逆で、誰の役にも立ってない。あたしのからだ、こんなだから。でもたぶんそれが気に入らないんだとおもう。だって、きっと、やる気がないように見えるから」

「あいつら……」

「だから、聞いてってば、にいさん」


 袖をつかんで。その瞳は、揺れずにこちらを射抜いてきた。


「あたしはそれでも、死にたいって思わない。だって、あのころより今のほうがいいから。いまのほうが、たくさん『その先』を考えられるから。わかる? その先。未来」

「未来……」


 考えたこともない。

 ただ、死にたくないから、懸命にこの場所にしがみついている。

 他のことは、一度たりとも頭をかすめなかった。アオイは、違うというのか。


「これを見てよ」


 カーディガンのポケットから、小さなキーを取り出す。


「お前、それ」

「そう。書庫のカギだよ。ちゃっかり失敬してる」

「何してるんだ。見つかったら殺される」

「それでも、いいの」


 はっきりと言った。そんな強い主張をする妹を、これまで見たことがなかった。


「今日はこれだけ。きょうからにいさんは、あたしと一緒に、勉強をするの」


 傍らに積み上げていた本を指し示す。

 タイトルや帯をよく見ると、それらは、教官たちが『渇望からの逸脱』と呼ぶような内容のものばかりだった。

 芸術や、社会について。あるいは……人間についての。


「そしたらにいさんも、世界がここだけじゃないって、きっと……」


 アオイは、激しくせき込んだ。

 袖口が、僅かにあかくそまる。

 カウンターの内側に入って、背中をさする。

 苦しそうな呼吸。喉の音。すぐに医務室へ、と呼びかけたが、首を振って、「あとでいい」と呟いた。尋常ではない『覚悟』のようなものが、そこにはあった。


「たくさんのことを勉強して、知っていけば……うれしいこと、たのしいこと。そしたら、にいさんには、何が大切か……」


 ハバキは、妹を抱きしめていた。思っていたことが、言葉の奔流になる。


「わかった。ようやくわかった。おれの、兄さんの『渇望』はな、お前そのものだ」

「にい、さん」

「お前の寒いのも痛いのも、おれがなくしてやる。おれが一番強くなれば、お前を自由にしてやれる。教官たちにも文句は言わせない。お前が本で見るような世界に、おれが連れてってやるんだ」


 心の内側に、抱きしめたアオイの存在を落とし込むように。

 それが、錆びついたカタナにまとわりついて、鍛造されるように。強く、強く。

 ハバキの決意は固かった。そして、間違ってもいなかった。



 周りの大人たちは教官ですらなかった。今まで顔も出さなかった、白衣のすがた。

 そんな彼らが、おめでとう、と言いながら、ハバキを取り囲み、拍手をしている。

 手には、漆黒の、吸い込まれそうな色彩のカタナ。

 その先に、彼が斬り殺した存在が倒れている。


 アオイ。何も映さない空っぽの眼窩。

 ある地点で流れが止まって固まっている血だまり。

 あの名調子で語ることもなければ、新しい本を教えてくれもしない。

 彼女は処理の対象になって、そして、死んだ。ただそれだけのこと。


 肩で息をする以外は、驚くほど平常心を保っている自分が奇妙だった。

 こうなることを、ずっと予想していたような。

 血まみれの顔で振り返ると、ひとりが言った。


「おめでとう。これで君の『渇望』は固定された。薬剤の精製が終われば、君はいつでも、戦士として連中を処理することができるようになる」


 そうか。これがおれの渇望なのだ。それが分かったから、こんなにも凪いでいる。

 失って初めて完成した、おれの本当の、無銘のカタナ。


 おれの渇望は、妹を守ることじゃあ、ない。

 その決意の『さき』で、虚無の黒刀となることだったのだ。

 ハバキはもう、この先一度も苦しまずに済むのだと思うと、なんだかほっとした。


 そのはず、だったのだが。

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