戦場へ

 参謀本部兵站部兵站課改め兵站総監部第一課のエルヴィン・フォン・シューラー中佐が突然作戦部作戦課長ホリト少将の待つ会議室へと呼び出されたのか、皆目見当もつかなかった。

 その連絡を届けに来た第二班長リーデンス大佐などは露骨に怪しみ、

 「一体どんな余計な事を言った」

 などと絞めてくる始末である。

 「小官は存じ上げません」

 の一点張りで乗り切ると、錦糸のような黄金色の髪を持つ若年の海軍中佐は参謀本部庁舎の四階に所在する作戦課の用いる会議室へと向かった。

 質実剛健を謳う帝国海軍の精神の最右翼を担う参謀本部の、そのまた最右翼と言って良い作戦部らしく機能性と効率性を極度に重視した会議室で、装飾らしい装飾は一つもない。白い壁に囲まれ、円卓上の机を囲むように小さな椅子が設置されている。壁面の複数のディスプレイと、天井に吊るされている立体映像ホログラム投影機が、作戦部が戦時における帝国海軍の中枢頭脳として複雑な情勢を最速で処理するための機関である事を無言の内に物語っていた。

 エルヴィンを待って会議室には二人の男が座っていた。

 一人は最奥に座ることから恐らく作戦課長ホリト少将であろう。顎から眼帯に覆われた右目を貫通して額まで到達する傷跡が痛々しく、まるで犯罪帝国の頭目のような威圧感を持っている。一方そこから数席を開けた場所に腰を下ろす黒い長髪の男にエルヴィンは見覚えがあった。

 あの詐欺師のようにいけ好かないエーベルハルト中佐。先日来の苦手意識が増幅され、早くも青年は踵を返して部屋を出ていきたい衝動に駆られた。

 「よく来た、シューラー中佐」

 右手を挙げてホリトはエルヴィンを歓待した。

 「エーベルハルト中佐から貴官が目下の作戦に反対であったと聞いた」

 自分は査問のために呼ばれたのだろうか。いや、目下の情勢は俺の見立て通りに進行している。この期に及んで反対論の粛清などやってはいられないだろう。ならば——

 「はい閣下、反対でありました」

 視界の端でエーベルハルトの口元が持ち上がったような気がしたが、エルヴィンは意図して視界の左端の情報を遮断する事に決した。

 「勇気のある事だな」

 どうやら戦傷は口元の筋肉にも影響を与えているらしく、口の左側だけが動作して不均衡な笑みを作り上げた。

 「何故作戦は失敗すると考えた?」

 その問いかけにエルヴィンの脳神経の溶鉱炉に突如油が注ぎ込まれた。ここしばらく不満が鬱積する日々が続いていたが、それが瞬時に雲散霧消するようであった。

 作戦部の課長が直々にエルヴィンの作戦家としての見識を問うているのである。エルヴィンの頭脳活動の神髄を発揮すると共に、それを以て栄転を図る好機でもあった。

 「各要塞に兵力を分散したためです。敵要塞は強大な防御力を秘め、防衛艦隊も配備されています。また時間をかければ連邦本国から我が全軍より数に勝る主力艦隊が動員され、補給線の伸び切った我が軍が戦略的不利に陥ることは疑いありません」

 ここまで早口で言い切って初めてエルヴィンは言葉を止めた。自分の声調が上がりすぎた気がした時、気恥ずかしさによって彼はそうする。だが無論ここで話を終わらせる気はなく、幾分か声を落として彼は続けた。

 「それよりも要塞一つの攻略に全兵力を集中し、他の要塞は一個師団乃至ないし軍団で封鎖監視するに留める事で敵要塞を攻略し、そこを補給拠点として敵の体制が整う前に連邦領深くに進撃することが可能です」 

 ホリトは口を真一文字に結んで頷いでから口を開いた。

 「その通りだ、中佐。だが目下の状況にあってはその戦略は果たせない。半月近いタイムロスは補う事はできないだろう」

 それはエルヴィンにも自明の理だった。戦場にあっては時間こそ最大の資源と言っても良い。戦機を失する軍が戦場の雄となった歴史は過去のどの戦史を紐解いても存在しないのである。

 「やがては連邦軍主力艦隊が来援し、我が軍は防衛体制に移行せざるを得ない。だがそれまでに要塞一つ落とせなければ、戦力差に圧し潰されるだけとなる」

 「小官に、要塞攻略のための献策をと言うことですか」

 上官に対する態度ではなかっただろう。だがホリトはエルヴィンの慇懃無礼さをとがめることはなかった。

 「そうだ。だが今からのんびりと作戦立案をする暇などない。だから前線に赴き、貴官が作戦指導に当たれ」

 エルヴィンの脳内で鐘が鳴り響いた。それは警鐘か、慶事を告げる教会の鐘であったか。ともかく彼の想像の斜め上をゆく現実が彼の眼前に拝跪してきたのである。

 「小官が最前線に、でありますか」

 「不服か?」

 エルヴィンは水から上がった犬のように首を横に振った。

 「いえ、いえ閣下。むしろ……感謝いたします」

 想像を超える事実の前に、感情表現の下手な青年の語彙力は雲のように掴めなくなった。

 彼は戦いたかった。自分の考えた作戦で敵を打ち破りたかった。帝都の参謀本部の石煉瓦に押し込められた彼の内心の翼は萎びていたところだった。ホリトの一言でエルヴィンの血管の一筋に至るまでの血が湧き、滞留していた脳のシナプスが瞬時に活性化して動き出す。

 「そうか。必要な処置は私の方でやっておこう。貴官は明日にでも発てるよう準備をしておけ」

 「言ったでしょう、シューラー中佐」

 ラウンジの時と変わらぬ声で、エーベルハルトが呼び掛けた。

 「私は貴官の才覚に興味があると」

 不機嫌の絶頂にあった前回と真逆の心境のエルヴィンには、前回と同じ口調のエーベルハルトの言葉もまるで金言の如く響いた。

 「ありがとうございます。エーベルハルト中佐」

 一礼して踵を返す。心とそれに連動した体の隅々の神経の求めるままに駆け出して行きたい気持ちを、エルヴィンは全ての理性を挙げて抑えつけ続けた。

 

 「明日から何か月かいなくなる」

 「へぇ」

 女は言葉の数倍の重量感のある声で応じた。

 「その間家は好きに使えばいい。どうせ行く当てもないだろ」

 「なに、その言い方」

 エルヴィンは面倒な会話を終わらせたい一心で手を振った。

 「事実を言っただけだ」

 「だったら出てったらあんたは満足なの」

 全くその通りだが、率直に肯定してはこの女なら激発しかねない。

 「別にそうは言って無い」

 何とも歯切れが悪い事は自覚しているが、咄嗟にこれ以上の回答が思いつかなかった。

 「ねえ、私の事は好き?」

 久方ぶりに極めて面倒な質問が飛んできた。何カ月か前なら何も考えずに答えられたが、今は答えを喉に載せるまでに相当な時間を要するようだった。

 「そう、もうどうでもいいんだ」

 返答の無い事にしびれを来たした女が先んじて口を開いた。

 それを肯定も否定もしないエルヴィンは、無言のままに鞄に荷物を詰めるだけである。

 「いいよ、もう私もそうなんだから」

 その言葉が少しも自分の神経に痛覚を与えないことにエルヴィンは気づいた。彼にとって彼を理解できない女などに側にいる価値は無かった。

 それが渇きを癒そうと幾ら海水を掬っても逆に渇くばかりのように、永遠に満たされる事のない欲求である事を薄々自覚はしていたが、この悪夢を取り去ってくれる│ひとを求める心はどれだけ自分を取り繕っても拭えない本能だった。

 もうこの女に興味はない。短期間に女をとっかえひっかえする罪深さを自覚しないでもないが、しかしこの萎びたチーズのような関係性を持続させる事に何の意味があるのだろうか。自分自身まで腐らないための、エルヴィンなりの生存戦略と言えるのかもしれない。

 荷物を詰め終わり、鞄をベッドの上に置く。

 明日帝都を発して最前線に向かう。

 数年ぶりの宇宙だ。その気持ちがエルヴィンを今支配する感情の最大勢力だった。


 ブラウメンブルクから東に七百キロの平地地帯に帝都ブラウメンの海軍施設が所在する。数万平方キロに及ぶ敷地内には穴を掘る形で艦船用ドックが所在し、ここだけで三万隻を超える宇宙艦艇を停泊させ、補給し、修理する事が可能だった。

 第八ブロックは全長二千メートルを超えるような軍用の大型輸送艦が荷積みや荷下ろしを行うための地区で、エルヴィンが前線に向かうための輸送船もここから発進する。大提督ならともかく、一介の中佐一人の小口輸送に専用船を用立てる事ができるわけもなく、物資補給船の一隻に荷物として詰め込まれる状態であった。

 前線まで向かう半月から二十日程度の期間は雑事から解放され、自分のこれからの任務のための準備に没頭できる期間である。逆に言えば前線に到着すれば呑気に作戦研究など行っている暇ではなく、今のうちに要塞攻略のための素案を練っておかなければならなかった。

 エルヴィンの肩書は「兵站総監部第一課員」から「参謀本部作戦課付兼第二軍司令部付」と言う何とも曖昧なものに変わっている。これは要するに参謀本部から第二軍司令部への派遣参謀であり、参謀総長の名代として現地で作戦指導に当たる事を示唆するための役職名であった。

 左程広くない輸送船の船室に入ってすぐエルヴィンは複数の立体映像を広げ、作戦検討を開始した。

 第二軍は第五及び第十、第十四軍団麾下の十一個師団から成り、現有戦力は主力艦たる重戦列艦約三万隻と巡洋戦列艦二千、補助艦として装甲戦列艦、軽戦列艦、駆逐艦が二万五千隻程度。他に補給艦や工作艦、掃海母艦などの支援艦艇を含めて六万隻弱となる。これは開戦前の八割程度であり、特に軽艦艇の損失が著しい。

 第二軍司令官のフォン・エップ上級大将は侯爵位を持つ疑いようもない大貴族であり、開戦前まで一貫して後方にあってキャリアを積み上げてきた。開戦に当たって実戦経験のないエップが司令官に選ばれたのは他に人材がいなかったと言う極めて消極的な理由である。

 だが戦争は当然指揮官一人で行うものではない。優秀な参謀を帯同すれば十分欠点を補えるだろうと参謀本部は第二軍参謀長に海軍兵学校首席卒業、師団参謀や参謀本部動員課長と言った顕職を歴任した堂々たる閲歴を持つフォン・ベートマン少将を充てた。

 だが現実はこの短期間で多数の艦艇が損失、あるいは修理のために後送され、大量の要塞補修資材を積載した輸送船が物資を下ろすこともできず滞留するせいで輸送キャパシティが圧迫されて補給が追い付かず、第二軍は危機的状況にある。無論それは全艦隊で同様の状況であった。

 だがそのような状況であればこそエルヴィンの才覚を生かす機会でもあろう。困難を好機と読み替える意志の強さと自分への信頼をエルヴィンは持ち合わせていた。

 床が揺れた。どうやら輸送船が発進したらしい。

 エルヴィンは思考を中断すると部屋を出て廊下の窓から外を見た。発着パッドを離床した輸送船は蒼い空に向けて重力を蹴って飛翔していく。青々とした地表の景色が瞬きの度に遠くなり、空の色が少しづつ濃くなっていった。

 人っ子一人いない廊下で、エルヴィンはその紅い瞳を見開いて外の景色を眺めていた。その目に灯る光は単に陽光の反射と言うに留まらず、彼の内心の輝きが表出したようである。

 彼の生きる場所は閉塞した地表にあらず、無限に開かれたこの空の上の世界だった。人間一人の足では到底届かないその場所こそ、エルヴィンの心が向かうべき所だった。

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